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ブータン旅行記③ がけ崩れ大国

■4日目大自然ポプジカ~要衝トンサ~古都ジャカール

 朝起きて電気をつける。が、つかない。また停電しているようだ(この停電は朝食後まで続いていた)。真っ暗な部屋では特にできることもない。朝食まで時間があるので部屋の外に出てしばらく本を読むが、寒過ぎて部屋に退散する。普通に暖房が欲しいレベル。これ、冬に長時間停電したらシャレにならんな。夏でも凍えるくらいだから。1枚厚着を持ってくればよかったと少し後悔。

 7時半に朝食。食堂ではストーブがついている。停電でヒーターが使えず体が冷えていたので、ストーブの暖かさは助かる。そうしてどうやら、このゲストハウスは私の貸切だったようだ。前日のホテルに続きここも赤字なのではと要らぬ心配をする。それにしても昨日の夜聞こえた声はいったい誰だったのか。朝食を終え、体も温まったところで出発。

 まずは、ゲストハウスの前の坂を下ってすぐのところにあるオグロヅルのセンターに行く。そう、このポプジカはオグロヅルが越冬する地ということで有名。むかし、このポプジカの谷に空港を建設するという話が持ち上がった時も、オグロヅルが来られなくなるということで、建設を見送ったという過去がある。
 オグロヅルは英語でBlack-necked Crane(黒首鶴)で日本語ではオグロヅル(尾黒鶴)。首が黒いのに注目するか、尾が黒いのに注目するか。学者の間で大論争が巻き起こったのが容易に想像できる。英語圏では黒首派が勝利し、日本では尾黒派が勝利したのだろう。オグロヅルは頭が赤いから、頭赤派もいたかもしれない。哀れ頭赤派。

 さておき、この鶴は通常チベットに住んでいる。そして、冬になると超寒いチベットからかなり寒いブータンに越冬に来るという。この鶴、河口慧海の『チベット旅行記』で度々出てくる鶴のことだろうか。すると、この鶴とも縁があったのだなと親近感も湧く。今度はぜひチベットで会いたいものだ。
 このセンターには、犬に襲われてケガをしていたところを保護されたオグロヅルが一羽いる。それがこの子。

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 オグロヅルに別れを告げ、9時半にポプジカを出発し、トンサに向かう。11時半トンサ・ゾンを眺める展望台に着く。いい眺めだ。雲もぎりぎりゾンの上を流れている。そう、ブータンを旅していると雲がだいたい目線と同じ高さにあるのが印象的。

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展望台から望むトンサ・ゾン

 ここからだとゾンはすぐ近くに見え、10分もあれば行けそうに思える。でも、ここからさらに車で40分ほどかかるという。とてもそうは見えない。と思いきやかかるんだな、これが。しかも、この展望台からゾンまでは未舗装道路で進むのも大変。がったんがったん揺れながら進む。
 山肌を削り、道を整備し、がけ崩れも防ごうとすると、かなりの時間、お金がかかるだろうことは容易に想像がつく。これなら、展望台からゾンまで橋を架けた方がいいのではと思う。

 ガタガタ道の途中にあるホテルのレストランで昼食。窓からゾンが見える。ここら辺で確信したが、ブータンでの観光客向けの料理は、とにかく量が多い。これ1人分?ってくらい量が多い。だいたい2~3人分くらい出てくる。今までで旅した国の中で一番量が多い。どうやったらこれだけの量が食べられると思うのか。これはインド人基準かアメリカ人基準か。
 残すのに抵抗はあるが、はじめから食べきれないとわかっているので、逆に思い切って残せる。毎回胃袋を破壊しにくるので、断固として残す決意で食べなければならない。某食堂のおばちゃんからは、お残しは許しまへんで〜と言われそうだが、それに対しては、出される量が適切ならば、という前提条件をつけるようお願いしたいものだ。

 昼食後、トンサ・ゾンへ。見た目通り、中に入るとその長さがよく実感できた。まだ奥があるのか、思うくらい奥行きがあった。途中、やんちゃな少年僧が犬を蹴って、犬がキャンと鳴くのを聞く。まだまだ修行が足りないようだ。まあ、生き物にやさしいとされるブータンでも当然こういうことはあるのだ。

ここでもゾンの半分は僧院で、もう半分は政府の役所。

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細長いトンサ・ゾン

 マニ車を回しながら中をめぐる。天井にまで届く巨大なマニ車を回すと、一周するごとにマニ車の天辺にから突き出ている棒が鐘を鳴らす仕組みになっている。この鐘の音が何とも言えずいい音で、しばらく聞き入る。

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鐘の音が綺麗なマニ車

 トンサ・ゾンとトンサ博物館をめぐり、ヨトン・ラ峠(3,360m)へ向かう。対岸にちょうど、昼食を食べたホテル兼レストランが見える。ところで、道路の下にある家にはどうやっていくのだろう? 道なんてなかったはずだが。
 ブータンにはこういう家をよく見かける。あの家にはどの道から行くのか? そもそもあんなところにどうやって家を建てたのか謎、という家が多い。

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崖下の家へはどうやって行くのだろうか・・・

 15時半ヨトン・ラ峠に近づくと、日本でも見慣れている杉の針葉樹林が広がる。あまりに違和感がないため、写真を撮ろうという気持ちが起きない。日本と違うのは、山の中腹に例のごとく家が建っていることくらいか。それを除けば、ここは日本だといわれても、何の違和感も抱かなかっただろう。
 それにしてもがけ崩れがエグい。東に向かえば向かうほどがけ崩れがひどくなっていく。多いにもほどがある。

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大中小よりどりみどりのがけ崩れ

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 100mに一箇所がけ崩れが起きていると言っても過言ではない。日本の道路の斜面でネットを張ったり、コンクリートで固めたりしているのをみて、そこまでやる必要ある?、大仰じゃないの?と思ったりしたこともあった。ごめんなさい。私が間違ってました。
 このがけ崩れの凄まじさをみて、いかに日本の技術がすごく、がけ崩れ防止の施工に助けられているかを痛感。この旅行で日本の道路工事のおっちゃんたちへの好感度が100くらい上昇した。道路工事のおっちゃんたちに感謝せねばなるまい。むしろ、日本の会社にブータンのがけ崩れ防止の工事を依頼してほしいくらい。かなり本気で。

 ちなみにティンプー~プナカ間はあまりがけ崩れは起こっていなかった。しかしそれはがけ崩れ防止の施工がされていたからではなく、起こるべきがけ崩れがもうだいたい起きてしまったからに他ならない。ティンプー~プナカ間は比較的昔に整備されたのに対して、プナカ~ジャカール間は最近整備されているから。

 「起こるなら 起こってみせよ がけ崩れ」
 「起こるなら それまで待とう がけ崩れ」
 「起こるなら 起こしてしまえ がけ崩れ」

 これが現状だ。まさにがけ崩れ大国である。
 ともあれ、がけ崩れを避け、道の真ん中でモグモグやっている牛を避けながら進む。ところでブータンの牛の神経の図太いこと。鼻先10cmのところを猛スピードで車が通過しても知らん顔をしている。ブータンの牛はチベット仏教を修めていて心の中も平静なのだろう。

 今日から2日間、ジャカールでホームステイをする。町の中心部を通り過ぎ、未舗装の道路をガッタンガッタン進み、17時半、ホームステイ先の民家に到着する。よく考えてみたら、ホームステイって久しぶりだ。人の家に入るのはちょっとどきどきする。泊まる分には申し分ない部屋。
 荷解きも終わり、恒例の目的のない散歩に出かけようと家を出る。家の前で8人の男の子たちが遊んでいる。その内の一人の男の子から英語で挨拶をされる。聞くと、この家の子という。

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ホームステイ先の家

 また後でね、と言って別れつつ、村の中を歩いて行く。周りには自然しかない。遠くにはお寺が見える。これぞブータンという景色が広がっている。幸い晴れていることもあり、とてもいい眺めだ。だけど、上を眺めながらのほほんと歩いていると、牛さんの落し物で足を滑らすことになる。油断も隙もない。

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東京都心にマイナス1を掛けた景色

 しばらく歩いて家の前に戻ってくる。男の子たちがまだ遊んでいる。2チームに分かれて布で作ったボールを投げて相手に当てるゲームらしい。ブータンの子供たちの遊びに興味があるので、近くで腰を下ろして観察することに。そして、出来れば彼らと遊んでみようと思いつく。こういうときは、彼らの関心を引いたら勝ちだ。
 では、どうやって関心を引くか。それはもちろん、文明の利器だ。ここでiPadが活躍する。iPadを取り出して、彼らの遊ぶ姿を動画に撮り始める。すると子供たちは変な外国人が何か不思議な機器をこちらに向けているのに気づく。そして、あの不思議な機器は何だ?と気になってしょうがなくなる。すると、後はこっちのもんだ。

 動画を撮っていると、ある男の子が他の男の子のズボンを引きずり降ろして、つまり相手をパンツ姿にして、こちらに向かってニヤッとする。これも世界共通で、ただし女性がいないところで、必ず見られる遊びである。女性に生まれると不幸にしてこのスリルある遊びを知らずに生きることになる。

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 しばらくすると、遊びも終わり、男の子たちはそれぞれの家に帰る。後にはこの家の男の子が残る。彼の名をウゲン君という。彼に村の中を案内してもらう。なかなかワイルドな道を通過するため、靴が盛大に汚れる。後で洗うことにしよう。
 ずんずん進んでいくと彼らの秘密基地に到着。茂みで上手く空間を作っており、確かに基地という感じ。このあたりでよく戦争ごっこをするということだ。秘密基地には戦争ごっこで使う兵器(木の棒とか)も格納されている。秘密基地といい、戦争ごっこといい、自分も過去に心当たりが多過ぎて笑うしかない。どこの国の子供も同じなんだなあと大いに共感。

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戦争ごっこ大好きウゲン君

 家に戻り、ウゲン君と座布団を盾に激しい銃撃戦を繰り広げているうちに夕食になる。お母さんの一言で戦争は終結した。戦争をしている人を止めるにはママにやめろと言ってもらえばいい。

 夕食にはジャカール名物のそば料理プタを食べた。ただしほとんど味はない。これも唐辛子で味付けをする類のものか。
 夕食後くつろいでいると、家の旦那さんが仕事から帰ってきて挨拶をする。家族の食事の場にお呼ばれしたのでおじゃまする。台所兼居間にはストーブが焚かれている。旦那さんがプタに何か魚のソースをかけているのをみて、勧められてそれをかけて食べてみたところ、まあまあいけた。このそば料理は何かかけて食べた方が口にあう。

 そしてブータンの各家庭で作っているという蒸留酒のアラを飲む。さらに自家製のイチゴのワインを頂く。1年間くらい発酵させたものだという。アラとイチゴワインと、それなりの量のお酒を飲んだはずだが、全然酔わず、不思議に思った。いつもなら、これくらいの量を飲むとほろ酔い気分にはなるものだけど。多分アルコール度数がそれほど高くないのだろう。
 家族の食事の様子を見ていると、食事は手で食べる。タイ米以上に米がパラパラしていて、スプーンで食べるのも難儀するくらいだから、手で米をこねて食べる方がいいのだろう。特に右手、左手のどちらで食べるかは決まっておらず、人それぞれのようだ。

 居間には懐かしのブラウン管テレビがあり、そこで何とアメリカのプロレスを見ている。ブータンの農村とアメリカのプロレスの組み合わせは意外すぎて、ブータンに対する認識がガラリと変わる。このギャップは面白い。ブータンでは格闘技系のものを好んでみる、というイメージが全くなかったので意表を突かれた。
 なるほど、娯楽が少ない農村では、プロレスなんて面白くて仕方がないだろう。そういえば、日本でテレビが普及し始めた1950年代、何が一番人気だったかというと、圧倒的にプロレスだったというから、これは結構普遍的な現象なのかもしれない。そして、その後プロレス番組が暴力を助長していると批判されるまでが様式美である。この茶番劇がブータンでも起きるのだろう。

 そういえば、日本ではもうブラウン管テレビはすっかり姿を消してしまい、「ブラウン管テレビはどこに消えた?」と思っていたが、なるほど、ブータンに来ていたのか。中古自転車はカンボジアに来ていたし、消えたものはどこかにある。日本で消えたものを世界で探すのも面白いかも。
 そんなことをストーブにあたりながら考える。というか、ここジャカールも、夏でも朝晩は寒いのだ。ここは高度2,600mほど。朝起きたときは部屋にある電気ストーブをつけないと寒くてしょうがなかった。

■5日目古都ジャカール

 そして翌朝。今日はジャカールの町巡りだ。朝ご飯に、そば粉を使ったパンケーキが出た。クレという名前らしい。これに自家製のイチゴジャムをつけて食べる。控えめな甘さで、これはかなり自分の好みだった。
 また、ご飯に巨大なバターの塊がついてくる。ブータン人はご飯にもバターを入れて食べるという。試しに自分も入れて食べてみたが、うん、二度とやることはないだろう。

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そば粉のパンケーキ”クレ”

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料理と一緒に出てくる巨大なバターの塊

 9時半に民家を出る。すぐにジャンパ・ラカンというお寺に到着。朝から多くの人が来ている。ジャカールの町を回る中で、このジャンパ・ラカンが民衆から一番人気のあるお寺なのだと気づく。何十人もの人が寺の周りをまわっていた。
 このお寺は7世紀にチベットの王様が建てた108のお寺の内の1つだという。108のお寺の内、2つがブータンにあるという。もう1つは、最終日に行くキチュ・ラカン。ちなみに、この108のお寺は一日の内に建てられたとか。深くは突っ込むまい。いずれにせよ、残り106のチベットにあったお寺は中国のチべット併合時と文化大革命時に破壊されている可能性が高いから、残っているこのお寺は貴重に違いない。

 今日は特別にお坊さんたちがこのお寺に来る日だったようで、間近でお坊さんたちがお経をあげるのを聞くことが出来た。お経は早口言葉のようで、よくあんな早口で唱えることができるものだと感心する。
 読経の場は考えているよりはずっとゆるくて適当である。読経中も隣の人としゃべっているお坊さんもいるし、ちょっと休憩中のお坊さんもいる。一見、真剣そうな場に見えるが、その中に適度な適当さがある。

 また、若者から年寄りまで、三頭三礼して、頭を床につけて礼をしているのを見ると、今でも仏教が深く浸透していることがわかる。

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ジャンパ・ラカンの周りをまわる人たち

 次にクジェ・ラカンに行く。ここはブータンにチベット仏教を伝えたグリ・リンポチェ(パドマサンババ)ゆかりの聖地。グリ・リンポチェが訪れたところはもれなく聖地で、ブータンの中でもこのクジェ・ラカンとパロのタクツァン僧院は重要な聖地となっている。グル・リンポチェが土地神を押さえ込む為にここの洞窟で瞑想をした際に、その御影(クジェ)が焼きついたという。

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近くから見たクジェ・ラカン。右の建物が一番古い

 クジェ・ラカンを後にし、時間があるので次のタムシン・ゴンパまで2kmの道を歩いていく。途中、ガイドブックに吊り橋があると書かれていた箇所に、近代的な橋ができており驚く。道も綺麗に舗装されている。吊り橋はもう壊れて渡れないようだ。
 この地点が町の最北端。この先は悪路が続く。この道をずっと北に行くと、チベットとの国境、 モンラ・カチュン・ラ峠にたどり着く。この峠はチベットの首都ラサへの巡礼や交易によく利用されていた。今はもうこの峠は閉鎖されているだろう。
 でも、いつかこの峠を越えてラサにまで行ってみたいものだ。歩きながら、そうガイドさんに伝えたら、そんなこという人初めてですと言われた。もっと情勢が落ち着いたら、ブータン〜ラサのツアーというのもぜひやってほしい。

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遠くから見たクジェ・ラカン

 タムシン・ゴンパをまわった後、車に乗りながら風景を見ていると、たくさんの人が畑にいて、何かを栽培している様子。ブータン人が集団で農場にて働いているのは初めて見た。何かと思ったら、ヘーゼルナッツを栽培しているという。ブータンでヘーゼルナッツとは意外だった。どこで消費されるものなんだろう。あとで調べてみたが、香港資本の会社が中国・ヨーロッパ向けに栽培しているとあったから、それのことだろうか。

 ちなみに、ブータンから日本へ輸出される農産物では松茸が断トツに有名。ブータン人にとって、松茸は美味しくも何ともないものなので、どうぞどうぞというわけだ。日本からの秋のブータンツアーには、松茸ツアーなるものも存在し、松茸が鼻から出るほど食えることをうたっている。ブータン人からしたら、あんな美味しくもないものを食べに来るなんて、不思議な人種もいるもんだ、他にもっと美味しいキノコがいくらでもあるのに、と思っていることだろう。
 なおジャカールは高地で田んぼは少ない。代わりに、そばや、野菜を栽培しているところが多い。

 昼食の前にジャカールの町を散策する。ジャカールの中心街は30分もあれば一回りすることが出来る。そして特に観光客の目を惹くようなものはない。地元民の地元民による地元民のための町だ。
 町を歩いていると子供たちが家に集まってテレビゲームをしているのを見かける。ブータンの地方にもテレビゲームが進出しているようだ。

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格闘ゲームに夢中の子供たち「そこはパンチじゃなくてキックだ!」と言っている

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日本でおなじみの?

 町巡りを終え、町中の食堂に入り昼食。せっかくなので、ビールを頼もう。すると、なんと今日は禁酒日でお酒を置いていないという。しかし、女将さんは話が分かる人で、裏ルートからビールを調達してきてくれるとおっしゃる。まあ、禁煙も禁酒もそこまで厳しく取り締まってはいないのだろう。
 ただ、そこまでしてもらわなくても、と思いつつ外に出る女将さんを見送る。そして待つこと数分、女将さんが懐にビールを隠し、人目につかぬようビールを調達してくる。やりますな。しかし、この現場を5歳くらいの娘さんにばっちり目撃されていたため、唇に人差し指を当てて、シーッとする。娘さんもシーッとする。よし、これで口封じはできた。
 しかし、禁酒日に飲むビールのうまいこと。おそらく政府の人も禁酒日にお酒を飲むとより美味しくなることを知っていて禁酒日を設定したのだろう。禁酒日とはお酒が最も美味しくなる日なのだ。

 ところで、ティンプーやホームステイ先の家族、ジャカールの町の人を見ていて気づいたことがある。それは、地方のジャカールでも、70、80歳であろう人でさえスマートフォンを持っていて、日本人と同様、いやそれ以上に使っていること。
 昼食中、隣に座っていた80歳くらいのおじいさんはスマホで動画を見ている。そういえば、ホームステイ先のこれまた80歳を超えるであろうウゲン君の祖母もスマホ2台持ちの強者である。というか、日本の年配の人たちより断然スマホを使いこなしているように思える。四六時中スマホをいじり、食事の際にもスマホに釘付けとなっているのを見ると、まったく他国の人という感じがしない。

 しかしこれも、娯楽と呼べるものが少ないブータンにスマホがきたら、こうなることは明らかではないか。これはテレビも同じだ。娯楽が少ないところに、テレビやスマホがきたら、それにハマってしまうのは仕方がないことだ。それはどの国、どの民族でも同じこと。スマホの使用については、国民性ではなく、人間の性質に関わる話だから。

 そんなこんなで食事を終え、秘密を守ってくれた女の子に挨拶をして店を出る。その後、チーズ製造工場を見学し、チーズを試食。ここでもまたビールを飲むことに。だって安いんだもん。1杯100円くらい。この安さで飲まないのは酒好きにあらず、と心に念じながら美味しく飲む。ここでガイドさんが乾燥チーズを買う。歯ごたえがありガムみたいな感覚で食べるもの。

 次にジャカル・ゾンに行く。ゾンに入るまでに急な階段をずっと上っていく。この階段を上るだけでいい運動になる。そしてガイドさんが道で出会う人みんなにチーズを配って歩いている。のどかなこと。日本では道で出会った人からいきなりチーズを渡されたら多分断るだろうが、ブータンではそんな気遣いはない。
 ジャカル・ゾンの出口付近に外国人は出入り禁止のお寺がある。そう、ブータンには結構、外国人立ち入り禁止の場所(特にお寺)がある。それは宗教上の理由だったり、政治上の理由だったり。

 ジャカール市内の観光を終え、16時にホームステイ先に戻ってくる。すると、ウゲン君がいる。あれ? もう学校終わったのかな? そう思って聞いてみると、どうやら今は夏休み中らしい。ちなみに、ウゲン君は英語を話すので、私との会話はすべて英語。
 疲れたのでしばらく休憩、と思ったら寒い部屋の中でぐっすり寝てしまう。寝ていると、ウゲン君が呼びに来る。家の裏庭にアーチェリー場があるというので、行ってみる。家にアーチェリー場って、まさにブータンらしい。ガイドさんとドライバーさんがアーチェリーをしている。自分も混ざる。的は20mくらい。弓を引くと、日頃パソコンしか使っていない腕がプルプル震える。案の定ぜんぜん届かず。でも何回か射っていると届くようになり、楽しくなってくる。スポーツらしいスポーツをしたのは久しぶりだ。熱中していたら暗くなってきたので家に戻る。

 その後、家の仏間に案内してくれる。立派なものだ。お坊さんが座る専用の椅子もある。年に数回、お坊さんが6~7人来て、一日中お経をあげるという。日本とはえらい違いだ。自分の実家でもお盆に1回お坊さんが家にお経をあげにくるが、それも10分くらいの時間だ。そんな大人数で一日中お経をあげるなんて、なかなか想像できない。
 いや、でもチベットの旅行記を読むと、2カ月間家に滞在してお経を読むとか普通にあったようだから、同じチベット仏教の国としては当然なのかもしれない。でも、そうすると、お坊さんたちに渡す布施金もなかなかのものになるだろう。

 そしてどうやら体調が悪い。まったく食欲がない。夕食はプラム1個を食べるのが限界だった。なるほど、禁酒日にお酒を飲んだバチが当たったか。ではなく、寒い中何もかけず眠ったのが悪いのだろうけど。バチは寝れば直るから、今日はおとなしく寝ることにしよう。ということで20時に就寝。

■6日目古都ジャカール~要衝トンサ~冬の都プナカ

 翌朝。幸い体調はよくなった。朝ご飯もおいしく頂く。8時にホームステイ先を出発。ウゲン君ともお別れ。お元気で。

 ガイドさんから、昨日トンサ~ジャカール間で大きながけ崩れがあり、道が不通になっていたと聞く。なので、もし昨日ジャカールに行こうとしていたら、通れなかったところだった。何たる幸い。一応、昨日のうちに応急処置は済んで今日はなんとか通れるという。確かに途中で道に大量の土砂があるポイントを通過する。道の真ん中に木が立っているのは面白かったが、道路を走っている最中に落ちてきてほしくはない。

 11時過ぎ、トンサ・ゾンを過ぎたあたりで、バスとすれ違う。ガイドさん曰く、朝5時半にティンプーを出発したバスだという。なるほど、乗客たちは眠そうだ。何人かは口を開けて夢の中にいる。なぜバスとすれ違っただけなのに、それが分かったのかって? それは、私の動体視力が優れていたから、ではなく、ただ道が未舗装でお互いノロノロ運転だったから。
 帰りは行きよりも晴れていたため、もう一度展望台からトンサ・ゾンを望み、この地を後にする。

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ちなみに都市の間を移動中はひたすらこんな景色が続く

 ワンデュ・ポダンを通過する際、風力発電所を発見。この2基の風車は2016年1月にブータンで初めて導入されたもの。なんでも日本の駒井ハルテックという会社が受注し建設したという。この会社のプロジェクト報告書を読んだが、建設資材は日本からインドのカルカッタ港まで運び、そこからこの場所までトラックで運んできたそうだ。
 途中、カルカッタ港でのストライキや書類の紛失などの困難にもめげずやり遂げたという。いやー、大変だったろうな。拍手を送りたい。ともあれ、このあたりも含め、ブータンで山谷風が吹くエリアは風力発電には向いている。

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ブータン初の風力発電所

 15時過ぎ、プナカに到着する。ここは高度1,300mくらいの低地。つまり暑い。軽く30度は超えている。この暑さだとおそらく33度くらいにはなっているだろう。ただし、湿気はない。カラッとした暑さ。おかしいな。今日の朝はストーブにあたって、ああ暖かい~などと言っていたのが遠い昔に思える。
 この夏のプナカでゴやキラを着て働かなくてはいけない人たちに同情を覚える。まあ、湿気の多い夏の日本で、スーツを着て汗だくになっている日本人も人のことは言えないけど。どう考えても、どちらも気候と服が合っていない。どちらも馬鹿らしいが、その内賢明な人たちが解決してくれるだろうと思うことにする。ガイドさんもドライバーさんも、上は脱いで半袖になっている。仕事中は、ゴを着ないといけないと言ってもこの暑さ。黙認するのは人として当然。自分も見て見ぬふりをする。

 そういえば、ブータンを歩いていて気づいたのは、スーツを着ている人がいないということ。これはある意味痛快だった。スーツがない文化。そう、スーツではない文化があってもいいんだということに気づく。それにブータンにスーツは似合わないよね。

 一方で、冬の時期にはこの暑さが武器になる。つまり、冬の時期、プナカは快適なのだ。実際1950年代までは、プナカが冬の首都で、ティンプーが夏の首都だった。季節に合わせて首都が移動するって、何だか面白い。でも、夏のプナカの暑さを考えればそれもうなずける。冷房がなかった時代、こんな暑いと仕事にならなかったのだろう。

 プナカは稲作で有名なこともあり、見事な棚田が続いている。旅行シーズンのピークは4月や10月で、この時期には稲がないため、この景色を見れるのは今の時期のみ。そういう意味では、雨季には雨季の良さがある。ブータンの青々とした棚田を見たことがある人はあまりいないだろう。途中で、棚田を見下ろせるポイントで降ろしてもらい、しばらく景色を眺める。

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丘から見下ろす棚田の風景

 16時、山の中腹にあるデンサというホテルに到着。4つ星ホテルということだが、ブータンに来て初めて隙のないホテルだった。設備も日本や欧米のホテルにも引けを取らず快適である。夕食まで時間があるので散歩する。夕日を受けて光を反射する棚田の風景が何とも言えずいい。

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夕日を浴びる棚田

 途中、何やらにぎやかな声が聞こえる。どこから聞こえるのだろうと見渡すと、森の中の空き地でバレーボールをしている男性たちがいる。

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バレーボールをする人々

 さらに歩いていくと、ポツンと一軒屋がある。そして家の人たちが田植えを行なっている。実際に植えている場面を見るのは初めて。

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田植えする家族

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 散歩を終え、ホテルに戻る。今日も相変わらず貸切である。やっぱり偏るにもほどがある。当然、ホテルの従業員は私のスケジュールに合わせて働くことになる。私が食堂に行けば働き、食堂から出れば休む。広い食堂を私一人で貸し切って使う。客は一人にも関わらず、すべてのテーブルに食器が隙なくセットされている。それやる意味ある?と心の中でいらぬお節介をしつつも、夕食を頂く。食事もブータンに来てから一番洗練されているものが出てきた。何これ、普通に美味しい。

 ここは山の中で、犬の鳴き声もそれほど聞こえず、ブータン到着以来、一番いい夜になるのでは?と期待したが、人生ちゃんとそう上手くいかないようにできていた。夜、この旅で最大の腹痛。多分夕食で飲んだ水だろうなと後悔。
 ここで日本から持ってきた薬が大活躍。この薬がなかったら、どうなっていたことだろう。この薬は去年スリランカ旅行後に体調を崩して病院に行ったときに得たもの。スリランカ旅行で体調を崩してよかったと心底感謝する。



最後まで読んで頂きありがとうございます。 槍が降ろうが隕石が降ろうが、もっとよい記事をコツコツ書いていくので、また来てくださいね。