5/10「知的ライフスタイル」
ほとんど毎日、勉強して、戦略を考え、こうして1〜2本の記事を執筆し、本を読み、散歩して寝て、忘れてる。
これは客観的には知的ライフスタイルと呼べるものなんじゃないだろうか。そんな今の生活を見つめ直してみる。
学ぶ。考える。忘れる。そのサイクルを繰り返すことで、知性の濃度が高まっていくのだと、今は思う。
忘れたら終わりだ、知識を得よう得よう、とする態度、というのは、多分間違い。そんな感じで上手くいっていない人というのは、割と簡単にイメージできる。
力まない。今の自分を確認するための反射として、目の前の新たなものと向き合う。今の自分に必要のない力はないだろうか、と何度も確認し、捨てよう捨てようと、試みる。
自分と世界ということについて思いを巡らせることがある。もっと俯瞰で考えたい。自分の中ばかり見つめている。
昨日から新聞を少し読んでいる。俺が一人でこうして、教科書を読み、自分の内面と向き合っている間も、世界は動いている。
自分と世界の間に、気持ちのいい接点を見つけること。これを「ツボ」だと思う、なんていう記事を前に書いた。
遊離してしまっている感覚がある。ニートのような生活をしていて、決して小綺麗であるとはいえないと認めている。
友達がいなくなると、先鋭化していくという。怖いし、悪循環だと思う。だから最近出来るだけ友達を誘っている。
もっと身近なことについて考えるべきだと思う。今ここにないものではなく、今すでにあるもの、やっていること、をもっと点検し、見つめることをやっていきたい。
多分、未来を夢見るのは、今の俺にとっては逃げることだ。逃げることは悪いことじゃないが、逃げているなら逃げていると自覚しておいた方がいい。今ここにあるものを見つめる時間を増やしていきたい。
あらゆる知的活動というのも、そのためにあるのかもしれない。肥大化した自己認識を抑制するために、人の書いた文章を読み、今の自分の考えの無駄な部分を削り、より端的にするために、文章を書き、保存し、感想をもらったりする。
それは新たなものを得るための試みではない。それは、今の自分を確認するための試みである。泥団子は、新しい砂を塗した時ではなく、それを確認し、磨くことで、より美しく価値のあるものになる。
これも誰かのためではなく、自分のために書いている。
果たしてこれは金になるだろうか。ならなきゃ、まずい。今は親の金のおかげで生活できているが、いつまでもそうではない。
知的ライフスタイルは、金になるだろうか。そんな構造を作れるか。
分からない。でも今できることをやるしかない。
できることをやり、できることを増やし、やりたいこともできるようなっていく。
フローになり、未知の浪費をし、今の自分点検して必要のないものを捨てる。するとフローが変化する。またそれを繰り返す。
知的な生活とは関係ないことを書いていると思う。ただ、これを通らないフローというのも、なかなかないのではないかとも思う。
知性とは、自分を知り、世界を知ることなのだから。そこに気持ちのいい接点を見つけること、それを向上させていくこと、つまり、よりフローになるためには、知性の向上というのは外せないんじゃないだろうか。
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