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5/14「三島由紀夫『潮騒』を読んで」

潮が騒ぐ。なんだか若き日の恋のざわめきを表現しているようにも思えてきた。

はじめての三島由紀夫。


純文学というやつだろうか。前に、川端康成の『雪国』を読んだ。

その時にも思ったことだが、オチがない。それゆえに、純文学と呼ぶのだろうが。

向いてない、というか、好きじゃない、のかもしれないとも思う。けど、なんだかんだ最後まで読みきれてしまったりも、する。


客観的に見たら、変態なんじゃないだろうか。三島由紀夫も、川端康成も。もしかしたら、ジブリの監督とかもそうかもしれない。

自分の趣味?性癖?好きなシチュエーションのようなものを、ただ描写していく。

前に読んだ本で、「心のふるさと」という概念が提唱されていたけど、純文学というのは、それをそのまま世に出したもの、とも捉えられるのかもしれない。

自分の美しいと思うもの、理想だと思うものを、そのまま表現する。そこに、読み手を惹きつけるための工夫などは必要ない。まさに、純粋な文学だ。


離島?に住む男の子と女の子が、恋に落ちていく。途中、エロいハプニングが起きたりもした。そういえばエヴァにもそんな展開があった。

すけべだなあとは思いつつも、やっぱり興奮もする。かっこよく?言えばエロティシズムってやつなのだろうか。

確か火事か何かで燃え盛る中、二人は裸で向き合う。男が、その日を飛び越えて、俺の元に来い、的なことを言う。

この人いうのも象徴的だと思う。若き日の屈強な男の恋心を表現しているのだろうか。そして、それに包まれた女の子は、言われた通りに飛び越えて、見事に成就した。


なんかその後も物語はダラダラと続くが、正直さっきの火事の場面がピークだったようにも思う。

純文学というやつは、引き込ませる謎や仕掛けがない。ただの描写だ。ミステリーがスポーツだとするなら、純文学は、散歩のようなものかもしれない。

快楽のホルモンが出ない。コーヒーも飲むような、そんな落ち着いた心地よさ、みたいなのを、純文学ファンは楽しむのかもしれない。

そんなひとは、確かに「芸術」がわかる人だと思うし、趣深い人だと思うが、どうやら俺はそうでもないみたいだ、ということがわかった気がする。


やっぱり、ある程度の、伏線の仕掛けや、なにか教訓めいたことのような、物語の「意味」が欲しいな、というのが、この本を読んでいて感じたことだ。

もうしばらくはこのさくしゃのほんをよむことはないかもしれないが、純文学のなんたるかを少しカジれたことと、有名な著者の本を一冊でも読みきれたことは、会話のネタになるのでよかったかなとは思う。

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