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伊藤比呂美『女の一生』を読んで


女の人生についての本を読んだ。こんな本を読んでしまうほどに、女が人生において考えていることに興味があるのは、恋愛がしたいからなのかもしれない。

人々の質問に、筆者が答えていく形式で書かれている。性がテーマの本なので当たり前だが、普段公には話しにくいようなことも、あけすけに書かれている。


前に読んだ、男が恋愛について書いた本の後書きを、フェミニストの女の人が書いていた。女が性について書いた本が読みたいと思ったきっかけは、そのあたりにあるのかもしれない。

俺はフェミニストに対して、悪い偏見というか、あまりよくない印象を抱いている。この本の中でも、フェミニズムという単語が出てきたが、あくまで作者は別な立場を取りながら、道具としてフェミニズムを捉えているようだった。


結構変わった人だと思う。他の人が言いにくいようなことをあけすけに語る上に、その内容も一般論ではなく、独自の視点から考えられたもののように思えて、「役に立つ」というより面白かった。

そして、この人は自分の過去を隠さない。むしろ、一般的に「いいこと」も「わるいこと」も、分別なく喜んで語ってくれるような人で、それは「男らしい」ようにも思えたし、一人の女の今までの本当の内面を覗けるのは楽しかった。


色々な人の、生きて、老いて、死んでいくことに、ちゃんと向き合える人だ。それは、パッとみてわかるほどに「優しくする」訳ではないが、それでも、生きた人の苦悩を「受け止めてくれる」存在は、有り難く、癒やされる存在なのだと感じる。

この作者は詩人らしい。この本を読んでいても、日本語について細かいこだわりというか、繊細に言葉を選んでいるような感じがした。日本語について自分で言及しているような記述もあったような気がする。


脱線するが、こないだ友達が、「人は言語化できないものは認識できない」というようなことを言っていた。だから、「考えるためには、言語を使う必要がある」と。

内省が出来る人というのは、言葉遣いが丁寧な人が多いと思う。特に読書や学問をガッツリやっている人でなくても、場面に応じてぴったりな言葉を選べる人というのはいると思う。

そういう人は、「頭がいい」、「知性のある」人なのではないだろうか。言語というのは、考えるための道具でもあり、他人とコミュニケーションをするための道具でもある。

というより、「考える」という行為自体、「他者の視点」なしには成り立たないもので、内面世界を他人と共有するための道具というのがそこには不可欠なのかもしれない。

自分の言葉を、丁寧に選ぶことができるよう生き方をしたいものだと思う。


さて、総じていうと、よく考える人間の女が、自分が経験したり、他の女と関わる中で、考えたことや感じたことを、中立な立場から、赤裸々に、綴り、質問者や読者と分かち合う本であった。

それはなんだか、出家した坊さんが、訪れてくる人の悩み相談に乗るような、超然とした感じがする文章だと感じた。

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