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9月の禅語御朱印直書き会のご案内

9月の禅語御朱印直書き会のご案内です。

当院の坐禅も担当しております品部東晟がずっと思いを持って書き続けている「禅語御朱印」。こちらの書き置きは両足院授与所にてお授け可能となっておりますが、下記の3日間は直接朱印帳に直書きさせていただきます。
予約不要でございます。


9月の開催日程は、
9月7日(水)13:00~15:00
9月10日(土)13:00~15:00
9月11日(日)13:00~15:00

禅語御朱印のテーマは、

風吹不動天辺月 (かぜふけどもどうぜず てんぺんのつき)です。



天の月はどんな大風にも微動だにしない。
同じように、煩悩(ぼんのう≒不安や恐れ)や妄想(もうぞう≒偏見や執着)が吹き荒れても、本来の心はそのままある、という禅語と解しています。
さて、私は坐禅をしながら、しばしば「常識」や「偏見」という言葉について考えます。「常識」の言葉の意味を調べると「健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別」などとでてきます。
そこで思うのは、この常識という言葉の意味の曖昧さと、この言葉が持つ人の思考を縛る力の強さです。そもそも健全な一般人とはどんな人を指すのでしょうか。普通の知識や思慮分別の、普通とはどの程度なのでしょうか。多数決で多い方でしょうか。
ある人が生きてきた環境や、触れてきた情報によってつくられる知識や思慮は、十人十色です。全く同じ環境を生きている人は自分以外誰もいないわけですから。例えば外国に行けば分かりやすく文化が違う、常識が違うと思えるのでしょうが、日常的で近しい人であるほど忘れてしまいそうになることです。
自分の思う常識が他人の常識と重なることも当然ありますが、結局のところ常識とは「勝手ながら自分では普通だと、今のところ思っている」という範疇を出ない言葉だと思うのです。そして、その自分だけの常識を「健全」とか「普通」とか「一般的」などと盲信した状態で物事を見るのが「偏見」だと考えています。
私は、私のだけの常識を、あたかもみんなの共通認識だと思いがちです。常識を、まるで常識かのように振りかざして盲信しているわけです。そして偏見をもって世の中を見ています。だから、なるべく多くの常識に触れることで、自分の常識を疑い続けたいと思っています。自分以外の人の常識はもちろんのこと、松の常識、アリの常識、メダカの常識、サルの常識、星の常識、ウイルスの常識、観察し学び想像が及ぶどこまでも。
もし、何かがおかしいと感じるなら、自分の「常識」を疑ってみてはどうでしょう。凝り固まった常識や偏見といえども、移り変わり過ぎ去る風のようなもの。風ごときではブレない月が、相変わらずそこにあるのでしょう。
両足院徒弟 品部東晟

ぜひ両足院にお越しくださいませ。

遠方の方はオンラインお授け所でも授与可能でございます。


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