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書き殴り、書き、殴る

むかしガチュクチュの花は植物学者の血を啜って花弁を青に染めていた。ガチュクチュは造花ではなく、死花には自身を生花として過ごした一生があった。カベイロは壁のとりもちに付着した木乃伊の頭に差したストローから女の体液を啜って木乃伊として過ごした余命一年の一年もあったが、結局彼が生きたのは三百年だった。藪医者を責めようと思った時にはすでに医者は壊れていて新たに取り替えられていたから怒りのやり場はなかった。一五〇年前にヤンキースで活躍した笠立弥隼人は野球がなくなったいまも絶大な人気を誇っているが、NBA選手だったタナカカナタほど認知度があるわけじゃないものの、好感度ゼロの、かのタナカと比べたところで何の意味もない。タナカはプレーオフ中に同じく日本人選手だった相手からのトラッシュトークで、回文野郎、と罵られたのが気に喰わず殴った挙句に眼球を抉り取って口の中に放り込んで、くちゃりと音を鳴らしたのだ。タナカカナタの恋人がカベイロだったことはあまり知られていないが、そもそもカベイロを知ってるひとなどほとんどいない。タナカカナタは死んだ後、カベイロはいつもタナカの死体の穴にストローを突っ込んで啜っていたから、タナカを体内に取り入れたカベイロの中にいまは目玉があるわけだが、割っても目玉焼きはつくれない。言葉が暴力に付随している時代があったそうだが、言葉がもう暴力になることなどないのは、言葉がもうないからだ。また言葉が現れれば暴力になるかもしれないのだが、その時は言葉が暴力になることなどみんなが忘れているだろう。じゃあ僕の語っているこれはなんだ。これが言葉であるなら、またふたたび言葉が現れたと考えればいいだけだが、私の頭の中で語られている言葉は本当に言葉なのだろうか。ガチュクチュもカベイロも、タナカカナタもあたしは見たことも聞いたこともない。存在するかどうかも、存在する根拠もない言葉も調べることもなく調べるすべもなく調べる気もなく頭に浮かべてシベレンドットに打ち付けて打ち上げて弾けさせて上空に描いたところで、それが言葉として許容されるのだろうか。誰も見ることも聞くこともできずに、ワガハイだけが言葉だと信じている羅列は言葉として認められるのだろうか、とも思うが、あちきだけしかいないのに、誰の許可がいるというのだ。カベイロがいるじゃないか。カベイロはミイラ取りらしくミイラになっているようだから言葉を認識できずもし認識できているとしても、俺に言葉が認識できている、と伝えるすべがなく、オラは言葉を暴力にしてカベイロを叩き起こそうと考えているが、カベイロは相変わらずで、それは言葉ではないからなのかもしれない。言葉であるならそれは暴力的な一面を持っていなければならず、そうでなければ言葉ではなく、まだ言葉があった頃に父の母胎の中で兄がホログラム越しに教えてくれたではないか。兄はタナカカナタでもあったけれど、いまは千年以上前のどっかで何かをやっているはずだ。兄が言っていた。言葉が、とめどなく溢れ出したら、書けばいい、と。書いた言葉はすべてが小説であって、小説ではなく、確かに小説なのだ、と。小説は暴力で優しさで、優しさで暴力で、愛で憎悪で、憎悪で愛で、人間でも機械でも書けて、機械でも書けるが人間でも書けるのだ。ミイラ取りのミイラのミイラ取りになるか、小説を書くか、と選ぶとしたら、小生は小説を書くのだ、誰も言葉を知らない世界であっても。

(了)