小説を書くのに意味は必要か?
とかく世の中では、答えを、結論を、求められる。……と言うと、あまりに大雑把な発言な気もするものの、誰でも多かれ少なかれ自身のやっていることに対して〈何のために、それをするのか?〉という問いを投げ掛けられた経験があるのではないだろうか。もしかしたら無い人もいるかもしれないのですが、ここからは全員が聞かれたことのある前提で話を進めたいので、無い方はこのページから移動してもらうか、それでも読みたいと思ってくれる稀少なひとにはこちらから敢えて問い掛けてみましょうか?
あなたがその趣味を行うのは何のためですか?
例えばかなり昔の話ですが、私は高校時代、運動部に所属していて(小・中・高・大学とすべてなんらかの運動部に所属していたので、実は文化部への憧れというものが昔からちょっとあります)、その高校時代の恩師……恩を感じていなくても恩師……という冗談は置いておくとして、決して関係が良好だったとは言いがたい担任教師から部活を辞めるように言われたことがあります。ちなみに遺恨が残っているとか、今でも嫌い、とかはないので、よくよく考えれば高校時代に多少なりとも自分の人生に影響を与えたことは間違いないのだから(良くも悪くも)恩師であることには間違いないのでしょう。
細かい言葉は忘れてしまいましたが弱小運動部にいた私に、
ここから一年頑張ったところで一回戦から二回戦へ行けるくらいのことに意味があるのか。〇〇さんみたいにインターハイに行ける可能性があるわけでもない。だったらそんなことをやってるよりも勉学を優先して大学へうんたらかんたら――。
みたいな、想い出が当時よりも言葉を辛辣にしている可能性もあるかもしれませんが、まぁこんなことを言われたわけです。当時もかなり反撥心を抱いた覚えはありますし、今考えても「あの言葉はないよなぁ」と思ったりするわけですが、ただ決して〈頭の良い〉学校とは言いがたく、当時大学へ進学する生徒を増やすことに学校側が躍起になっていたのが生徒にもすごく伝わってきている状況の中での言葉だったので焦りもあったのかもしれません。そう思うと親しみがわいてきますね(笑) 言葉に共感はできなくても理解をすることで親しみを感じ取れば、嫌、という感覚は減る。そうすれば適度な距離の保ち方も分かるようになってくるし、大事なことですよ。
まぁ何が言いたいか、というと……、
意味を求めれば意味の無いことなんて、そこら中に転がっています。
私の書いている小説なんかもそう。「なんで書いているの?」と聞かれたら、「…………?」と首を傾げてしまいます。いや書きたいから書いているわけですが、多分質問者はそういう意味で聞いたわけではなく、相手も首を傾げて、納得してくれない気がするので。
私にしか書けないものがあるから、と嘯いてみてもいいのですが、〈〇〇にしか書けないもの〉って、何? ……と、これはこれで思考の袋小路に入ってしまったりもします。同じ人間が存在しない(可能性が高い)以上、すべての人間に等しく、〈その人にしか書けない〉文章が存在するわけで、別にそれは特別なことではなくそこに特別な意味を求めるのも違う気がしています。私も便宜的にこの言葉をレビューなんかで使うことはありますが、懐疑的に思っている側面も実はあり、いまだに使う時には(特に最近は)迷いがあるということも添えておきます。じゃないとすこし卑怯な二枚舌になる気がしたので。
別に小説を楽しみたいなら、こんな素人のアマチュア小説なんか読まなくてもいいわけで、流麗な文章に身を浸らせたいなら、久世光彦『一九三四年冬―乱歩』や連城三紀彦『戻り川心中』、堀江敏幸『いつか王子駅』を読めばいいし、ミステリの驚きを感じたいなら綾辻行人『十角館の殺人』でも、折原一『冤罪者』、歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』、殊能将之『ハサミ男』でも。SFが持つ壮大なヴィジョンを味わいたいならコーマック・マッカーシー『ザ・ロード』、アンナ・カヴァン『氷』、小松左京『果しなき流れの果に』、レイ・ブラッドベリ『火星年代記』でも。
実験小説が好きなら筒井康隆でもいいし、私はあまり詳しくはないですが近代文学に楽しみを見つけるのもいいかもしれません。本当に詳しくはないけれど、梶井基次郎は一時期読んでいて、すごく楽しんでいた覚えがあります。
エンタメの王道を楽しみたいなら、それこそ職人のようにコンスタントに作品を創り上げている方たちの作品があります。東野圭吾、宮部みゆき、東川篤哉、知念実希人、湊かなえ……。書店に行けば平積みになっていつもその作品群が並んでいます。
ジャンルの境界が曖昧なこの時代にジャンルを明確に区切り過ぎるべきか迷いますが純文学系なら、小川洋子、川上弘美、中村文則、吉田修一……と、こんなことばかり書いているとその内平気で100、200と作家名を羅列して終わっていきそうなのでここでやめますが、今回は割と有名な作品でまとめましたが、もちろん世の中には、(好みの問題はあるにせよ)あまりにも素晴らしい作品で満ちています。紹介者、感想者としての私はこちらの本が読まれるほうが嬉しい。だからタイトルもいっぱい載せました。読んでくれ。頼む。
(おすすめ作品30選作ってみました。オールタイムベストとかではなく、今の気持ちを優先したものです。もしこのひと意外と趣味が合うかも、と思ったら、良ければぜひ~。読むきっかけにでもしていただければ)↓
こんなに素晴らしい小説がたくさんあって自分の小説への欲求はそれで浄化できるはずなのに、自分は〈なんで〉小説を書いているのか?
結局は相手に首を傾げさせてしまう結果になろうと、〈書きたいから書く〉に落ち着いてしまう。そもそも上に挙げた作品を読むことにも(誤解を恐れずに言えば)意味があるのか、というとすくなくとも私にとって、実用的な意味はひとつもなく、結局〈読みたいから読む〉にしかならないわけで、
どうしても意味に対する解答が必要なのであれば、無意味さに意味を求めることしかできなくなってしまう。
意味なんて分からないし、知りたくもない。必要である必要なんてなくて、これからも意味なんて深く考えることもなく書いていくだけ。とりあえず分からないからこそ楽しくて面白くて、そして続けていられるような気もしています。
分かる、とその意味をすぐに言葉にできるようになった時、私は言葉を書かなくなるか、すくなくとも書きたくはなくなる。そんな予感もしています。
言葉にしていく作業は、
同時に言葉にしないものを見つけていく作業でもあるように感じています。
そんな私は小説を書くという行為に意味付けをする言葉なんていらない、と思うことにしました。
頼るべき言葉はそこにはない。