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雨、晴れる時【約81000字(長編小説)】

プロローグ

1、雨と、僕たちの物語。

私は好きな人の手を強く握りすぎる。相手が痛がっていることにすら気がつかない。だからもう二度と誰の手も握らないように。――――山本文緒『恋愛中毒』

 彼女が死んだ日も、雨が降っていた。

 ひとりの少女の死を報じた新聞の記事を、いまもはっきりと覚えている。
 少女と呼んではみたものの、十八歳の女性をその言葉で当てはめることが、適切かどうかは分からない。大人と呼ぶにはすこしおさなく、子どもと呼ぶには大人になりすぎている。

『高3女子、飛び降り自殺か』
 地元の新聞記事の見出しには、そんな言葉が書かれていた。

 読みたくない、と思いながらも、記事の内容に最後まで目を通した。本文を確認すると、まだ自殺と断定されたわけではなく、事故の可能性もあると書かれているが、この記事を書いた人物の心は、明らかに自殺と決め付けているように読み取れる。

 彼女は、僕の人生の中でもっとも、特別なひとだった。

 だけど新聞記事は、僕の人生のために存在するわけではなく、僕がどれだけ彼女を大切に想おうとも、世間一般の彼女は、〈高3女子〉でしかない。

「言葉を読む時、ね。言葉をそのまま読むんじゃなくて、言葉の先にいるひと、その心を想像してみるといいんじゃないかな。そうしたら、同じ言葉でも、まったく違う何かが浮かび上がってくるかもしれないよ」
 小説が好きだった彼女は、かつて僕にそう言った。

 ふいに彼女の言葉を思い出してからだ。僕がふたたび、生まれ故郷に足を踏み入れてみよう、と思ったのは。
 絶望、という言葉を使ってしまうのは、安易なのかもしれない。それでも絶望としか言えないような経験とともに、僕はあの場所から逃げ出した。僕がもっと強い人間だったならば、と後悔しなかった日はない。

 いま、こうやって彼女との過去と対峙したとしても、前と同じような結果になるだけかもしれない。あるいは、いまさら遅すぎる、と彼女と、彼女を取り巻くすべてが、僕を拒む可能性だってある。

 それでも……。
 僕は、もう一度、彼女に会いに行くことにした。

 すこし時間を隔てたいま、いままで聞いてきた言葉が、見てきた世界が、姿を変えるかもしれない。そんなふうに、祈りながら。

 僕の物語で、
 彼女の物語で、
 彼の物語でもある。
 これは僕たちについての物語だ。
 そして、雨の物語でもあるのかもしれない。

 僕たちについて語る時、そこにはよく、雨が降っていたから。


第1部 雨と、僕たちのはじまり

2、久し振りの町に、彼女の気配がする。


 車内アナウンスが、次に停まる駅の名前を告げていた。

 気のせいだろうか。アナウンスに混じって、彼女の声が聞こえた気がした。久し振りに故郷に戻ってきた心が、彼女を求めて、敏感になっているのかもしれない、と一瞬そんなことを考えてしまったが、すぐに違う、と気付いた。

 春に、長く降る雨を、春霖、と教えてくれたひとがいた。
 彼女の気配を感じて、郷里へと向かう途中、降り出した雨がいつまでも続く様子を見ながら、僕はそんなことを思い出していた。窓の向こうのすこしぼやけた感じは、いまの僕の心模様にも似ている。未来が不透明で、漠然とした焦りと不安にさいなまれるような。

『帰ってくるの?』
 と実家に電話を掛けた時、驚いた声をあげていたのは、姉だ。大学に入ってから、ほとんど実家に帰ることのなかった僕にとって、生まれた場所に足を踏み入れるのは、本当に久し振りのことだった。

 僕がかつて住んでいた町は、周囲に海を持たない岐阜県の片田舎で、そんな類型的な物語でよく見るような、因習に鎖された、とまでは言わないけれど、それでも都心に比べれば、密接な人間関係が生み出す鬱屈とした雰囲気が根強く残る場所だった。決して家族との関係が悪かったわけではなく、そこに暮らす同世代の友人も多く、彼らが嫌いなわけではない。それでも帰りたいか、と聞かれれば、別に帰りたくはない、と即答できる。

 中学から高校に上がる頃、姉は、遠くへ行けば、人生が変わる、と安易に考えてしまう僕の弱さを指摘したことがある。姉のことだから、そう考える僕の心を見透かしていたに決まっている。僕を知り尽くしている姉らしい反応だった。

「もしかして、結城ゆうき?」
 そろそろ電車は町に入った頃だろうか、と思った時、ふいに声が聞こえた。声のほうへと目を向けると、見覚えのある顔があった。高校時代の、同級生の男子だ。だけどすぐには名前が、思い出せず、とりあえず僕は、
「久し振り」
 と答えた。

「もしかして、俺のこと、覚えてない? ほら、俺だよ。お前とも仲が良かった城阪きさかと、よく一緒にいたの、思い出せない?」

 帰ってきてすぐに、一番聞きたくない名前を聞いてしまった。僕は内心で、ひとつため息をつく。城阪という名前が出てきたことで、芋づる式に、彼の名前を思い出す。

「……伊藤だよね。ごめん。ただのど忘れだから、気にしないでくれ」
 伊藤は同じクラスではなく、隣のクラスの男子で、いまは髪も黒くなっているけれど、高校の時は、髪を茶髪にしていて、一度廊下で髪型のことで先生と怒鳴り合っているのを見た記憶がある。

「ったく、同級生の名前くらい忘れるなよ。もしかして、お前も城阪のことで、帰ってきた感じ?」
 と伊藤が苦笑いを浮かべているが、理不尽だ、と思った。高校時代、彼と話したことは指で数えられるほどしかない。

「城阪のこと、って?」
「あっ、何も聞いてないのか……。なんかお前たち、やけに仲が良い記憶があったけど。結城は、城阪と相性が良さそうなイメージなかったから、すげぇ意外だな、って思って、さ」
「そんな特別、仲が良い、ってわけじゃないよ。いや悪くもなかったけど、ね。まぁあんなすくない人数で、ずっと同じクラスだったから、しゃべったりは、もちろんしたけど……。卒業してからは、一回も会ってないし」
 伊藤の表情は、明らかに納得がいっていない感じだ。

「本当に?」
「うん。なんで、こんなことで嘘、つくんだよ」
「いや、だって、さ。高校の時、城阪が、よく結城のこと、話してたよ。それ、好きか嫌いかは別にしても、興味がないと、そんなことしないだろ」
「どんな話?」
「正直たいした話じゃないから、あんまり覚えてないけど。あぁお薦めの小説を教えてもらった、とかは言ってた気がするな。ほら、俺と結城って、ほとんど話す機会もなかったけど、こうやって覚えてるの、って、たぶん城阪がよく話してたから、だと思うんだよね」

 城阪は高校三年間、僕と同じクラスで、どちらかと言えば目立つのを嫌って、学生生活を過ごしていた僕とは正反対の、目立つし、周囲から人気もあった男子生徒で、客観的に考えても、僕と仲良くなるタイプの生徒ではなかった。野球部のエースでもあり、プロも注目しているような選手だった。プロではなく、進学して東京六大学のどこかに行くのではないか、という本人発信ではない噂もあった。結局それはただの噂で、城阪はスポーツだけではなく、勉強の成績も良かったこともあり、地元の国立大学を受験していた。合格したかどうか、聞く機会には恵まれなかったが、彼の成績を考えれば、きっと受かっているだろう。天は、ひとに二物も三物も与えているのだ、と思わせる好例のようなやつだった。

 城阪との仲について、僕はひとつも嘘は言っていない。

 僕と城阪が、クラスメートとしてそれなりに話す関係だったのは間違いないけれど、他のクラスメートと比べて、頭ひとつ抜けて仲が良かったわけではない。ただ伊藤の勘が間違っているわけでもない、ということは、認めなければならないだろう。

 僕と城阪が、ひとりの女性を挟んで、ある種の特別な関係にあったのは事実だ。

「まぁ、いいか。じゃあ、結城は何も聞いてないわけだ。でも、そうだよな。離れて暮らしているやつのところになんて、気を遣って、連絡なんかいかないもんかもしれないな。俺なんかは、近くに住んでいるから知っただけで……」
「城阪に、何かあったの?」

 聞きながら嫌な予感はしていた。
 ひと呼吸おいて、伊藤が言った。

「……死んだんだ」
「死んだ? ……それって」
「事故、だって。転落事故」

 事故、と聞いて、似合わないな、と思ってしまった。人間の死に対して、ひどく不謹慎な感情だということは理解しているが、心にまで嘘をつくことはできない。もし自殺だったら、あるいは殺されたのだとしたら、まったく別の感覚が胸に萌したのだろうか。とはいえ仮定を体験することができない以上、答えはいつまでも見つからないままだ。

 事故の詳しい内容を、伊藤は教えてくれなかった。わざわざ口に出したくはない、と思ったのかもしれない。僕も聞かなかった。

 なぁ死んだひとのこと、いつになったら忘れられるのかな。

 彼がそう言ったのは、彼女が死んですこし経ったあとのことだ。その言葉を聞きながら、僕は彼を、卑怯だ、と思った。裏切られたような気分になった。だけど同時に羨ましい、とも感じていた。彼はいつか彼女を忘却の彼方に追いやることができる、と信じていたわけだ。卑怯で、羨ましい。だって僕は永遠に忘れることができないから。

 想い出の濃度や罪悪感の深さ、とか、もちろんそういう感情はいまでも持っているが、そんな話をしているわけではない。
 誰かに話したい、と相談してみたい気持ちはあるけれど、話す相手も見つからない。

「あっ、じゃあ俺は、ここで降りるから」
 と伊藤と別れて、周囲には誰もいなくなった。まだ降り続ける雨を見ながら、ちいさく息を吐くと、隣にひとの気配を感じた。

 男の姿があった。

 たった数年で、ひとの顔はそんなに変わらない。たぶんそれは、城阪、だ。死んだはずの男がすぐ近くにいる。驚いたり、怖がったりできるなら、どれだけ良いだろう。だけど僕は、そこに城阪がいることを、何ひとつ不思議に思っていない。

「久し振り」
 と声を掛けてみるが、返事はなかった。

 返事がなかったことに、ほっとしている自分がいる。
 車内のアナウンスが告げる。次に停まる場所の名を。

 そこは僕の生まれた不治見ふじみ町に、もっとも近い駅だ。僕が高校を卒業する直前くらいに改装がはじまり、いまではもうリニューアルが終わっている。広々とした綺麗な雰囲気で、特に変わったのが改札で、有人だった改札は、自動改札機に変わっている。

 駅を出ると、大きくひとつ伸びをする。

 また彼女の気配を、近くに感じる。
 久し振りの景色が眼前に広がり、それを見ながら僕は、懐かしい声に耳をそばだてていた。


3、深夜に、遠い記憶を追って。


 僕の姉は、夢想家という言葉が似合うひとで、幼い頃から非日常的なものを愛していた。その反動からか、あるいはまったく別の理由なのかは、僕自身、よく分かっていないけれど、僕はあまり幻想的なもの、非日常的なものが好きではなかった。幽霊や化け物の類はまったく信じていなかったし、怖い、と思うこともほとんどなかった。

 とは言っても、自分の意見を強く発信するようなタイプでもなかったので、現実的ではないものを信じているひとを見掛けたとしても、頭ごなしに否定するわけでもない。

 姉は、オカルト番組が好きだった。そのくせ怖がりなので、夜中、お風呂やトイレに行けなくなっていた記憶がある。本当にちいさい時の話なので、姉としても蒸し返されるのは、きっと嫌だろう。

 家に帰ると、両親と姉が迎えてくれた。だいぶ会わずにいた時期が長いので、もしかしたら怒られたり、嫌な顔をされたり、みたいなことがあるかもしれない、とそんな不安もあったけれど、実際の心の中までは分からないが、すくなくとも表情としては喜びを浮かべてくれた。

 二階にある、かつて使っていた自分の部屋に踏み入れる時、数年ぶりだからか、すこしだけ緊張感があった。もう誰かのための場所ではなくなり、物が動かされることもなく、そこに残ったままだ。本棚に並ぶ本の位置さえも。他は大雑把でも、僕は本棚に関しては、几帳面なところがあったから、配置もしっかりと覚えている。僕は学習机の椅子の上に、荷物を置いた。

「どうしたの、しゅん? 私の顔をじっと見て? 久し振りに見た、私の美貌にやられた?」
 いまはリビングの中央にあるテーブルを挟んで、姉と向かい合っている。

 そこまで意識して、姉を見つめていたわけではないけれど、確かに僕は姉の顔をずっと見ていた。姉は綺麗だ。決して自意識過剰な言葉ではない。ただもちろん見惚れていたわけではなかった。

 長く一緒に暮らしていれば、血の繋がりのある相手に恋愛感情を抱くひともいるかもしれないが、すくなくともその中に僕は含まれない。

 大人になった自分たちに、かつて子どもだった自分たちに、想いを馳せながら、僕は不思議な気持ちになっていた。

 ここではないどこかへの憧れ。

 すべてのひとがそうだと一般論にする気はないけれど、多くのひとは十代のうちにすくなくとも一度は、いまの自分のいる場所に対して違和感を覚え、未知なる世界に憧れを持つんじゃないだろうか。

 姉ほどではなかったけれど、僕も例外ではなく、多少はそういう感情を抱いていた。その一方で、僕はこの場所で一生を終えるのではないか、と漠然と考えていた。僕は新しいことに、一歩踏み出せないまま、ためらってばかりの性格だったからだ。

 僕と違って、姉は好奇心が強く、行動的な人間だった。
 だから変な感じがする。幼い頃に描いていた姉弟ふたりの未来が、まるで逆転してしまっている、この状況に。

「何、言ってるんだよ。実の弟に」
「何年も会ってない家族は、他人みたいなもんよ」
「十年くらい空いているなら分かるけど、たった二、三年で、大袈裟な。彼氏にこんなの聞かれたら、怒られるよ」
「そんなことで何も言わないよ。たぶん、ただ笑うだけ」
「なんか想像できるかも……」
 やがて結婚するだろう姉の彼氏とは、高校を卒業する前に、何度か会ったことがある。確かにあのひとなら、そんな反応をしそうだ。

「……でも、もう戻ってこないんじゃないか、ってちょっと思ってたんだけど、ね。前に電話した時、そんなこと言ってなかった? 私、これでも勘は鋭いんだから。戻りたくないのは、こっちで何かあったからでしょ」
 後半の言葉は、両親に間違っても聞かれないように、声を潜めていた。

「うん……、まぁ」
「別にお父さんやお母さんと喧嘩したわけじゃないんでしょ」
「もちろん。違うよ。全然、別件」

 大学に合格して、岐阜を離れることが決まった時、僕はほっとしていた。はやくこの場所から逃げ出したい、と願っていたからだ。その想いに家族は関係ないけれど、だからと言って、気軽に相談できるような話でもなかった。

「そっか、じゃあ。いいよ。深く理由は聞かない」
「いいの?」
「誰にだって、言いたくないこと、ひとつやふたつ、あるよ。私にだって」姉が冗談めかしたように笑う。「もちろん言わないけどね」
「ありがとう……」

 直接言うのは照れくさくて、僕は目をそらして、そう答えた。その先にはテレビの画面がある。偶然流れていたのは、バラエティ番組の特番で、心霊特集が行われていた。心霊に詳しい、と紹介されているコメンテーターの中に見覚えのある顔があった。それは知り合い、という意味ではない。その男性は、心霊スポットに単身赴く内容が人気の動画配信者で、僕も何度かその動画を見たことがあった。

 霊感があることを自称していたけれど、僕はあまり信用していない。

「幽霊ねぇ」
 と姉が興味なさそうにつぶやく。

「姉ちゃん、このひと知ってる?」
 テレビ画面に映る、件の動画配信者の顔を指差す。

「顔は知ってるよ」
「あんまり興味なさそうだね。むかしは幽霊とかこういうの、大好きだったのに」
「確かに、そうだね。いまも別に嫌いじゃないよ。でも前ほどは興味、持てないかな。だって視えないからね。子どもの時は、視えてなくても、いる、って信じられたけど、大人になるにつれて、視えないのは、いないのと同じなんだな、って考えるようになってきて。まぁ成長したんだな、って思えば、感慨深くも、寂しくもあるんだけど。俊だって、そうでしょ。むかし、似たようなこと、よく言ってたよね」
「そう……だね」

 視えなければ、それはいないのと同じだ。
 僕も、そう思う。
 本当に。

 深夜、ハンドライトを持って、僕は外に出た。両親や姉を足音で起こしてしまわないよう、特に階段をおりる時やドアの開け閉めの時には、気を遣いながら。夜の外出に、ちょっと申し訳なさを覚えてしまう。ひとり暮らしをはじめてから、そんな感情になることも、ほとんどなかったので、変な気分だ。

 雨はもう降っていなくて、冷たい、というほどではないが、涼しい風が吹いている。ただ傘は持っていくことにした。
 過去の想い出をたどっていくように、僕は歩を進める。

 目的地は歩いて二十分くらいだろうか。そこまで遠いわけではないが、近すぎる距離でもない。すこし悩んだけれど、どうしても行きたくなってしまったのだ。

 夜闇が包む懐かしい景色は、僕をすこしの間、少年にした……、とまでは言わないが、幼かった頃の色々な出来事が頭の中によみがえってくる。

 楽しい想い出もあったし、つらい想い出もあった。もう一度体験したい過去もあれば、記憶の底から葬り去ってしまいたい過去もある。

 たとえば彼女との過去を回想するとして、どこからはじめるのが、適切なのだろうか。
 目指す場所までの道のりの中に、むかし僕の過ごした、学び舎がある。

 その小学校の面積は子どもの頃と、何ひとつ変わっていないのに、何故だかあの時よりも、広く、大きく見える。それは学校そのものが変化したわけではなく、成長によって広がった僕の視野が、目に入る景色によって感じる心を変えたのかもしれない。いやもちろん、当時よりも外壁は色褪せて、時間の経過は感じるが、そういう話ではない。

 真夜中の小学校はどこか幻想的だ。幼い頃にはあまり見ることができないから、だろうか。懐かしい建物にぼんやりと目を向けていると、言葉がよみがえってくる。

 友達に、なってくれませんか?

 かつて同い年だった彼女の言葉には、こちらにまで伝わってくるような緊張があった。はじめて会った時の印象までは、さすがに覚えていない。すこし仲良くなり、話すようになった頃の彼女の印象は、いまもしっかりと残っている。静かで、どこか大人びた雰囲気だ、と思った。

 当時はそんな言葉も知らないが、聡明、なんて言葉が似合うような少女だった。たぶんそれは僕だけではない、クラスメートの多くがそう感じていたはずだ。その感情が距離をつくり、もしかしたら周囲からひとり孤立させてしまっていたのかもしれない。

 友達。
 それは小学生くらいの年齢であれば、気軽に飛び交う言葉なのかもしれないけれど、誰もが気軽に使える言葉ではないはずだ。友達に、なってくれませんか。彼女の言葉は、震えて僕の耳に届いた。

 うん。やっぱり、ここからだろう。

 小学校四年生の時だ。同じクラスになった僕と彼女が、話すようになり、そして友達と呼べる関係になったのは。客観的に振り返ってみたとしても、それほど劇的なものではなく、ありふれた、日常の一幕を切り取った程度のものかもしれないが、僕たちのそれ以降に起こった出来事について考える上で、この時期の僕たちを無視することはできない。

 ゆっくりと歩きながら、僕は思い出していた。
 遠い日の、彼女との記憶を。

 春に生まれた彼女は、その季節にちなんで、葉瑠、と名付けられた。

 あの頃の僕と彼女はまだ、友達、と呼ぶような間柄だった。じゃあそれから僕と彼女の関係が、別の何かに変わったか、というと、実のところ分からない。僕が答えを出せずにいるからだ。


4、翳りゆく前の、鮮やかな色を探して。


「春に長く降る、こういう雨を、春霖、って呼ぶんだよ。雨、って普通は……、すこし哀しい感じがするものだけど、春の、特に小雨が長く続くような雨は、どこか明るい感じがして、好きなんだ。まぁ哀しい感じ、って、私が勝手にそう思ってるだけ、なんだけどね」

 長く続いた関係の中で、葉瑠が一度、そう言ったことがある。あれはいつだっただろうか。たぶん高校に入って以降のことだ。小学校の頃の記憶を引きずり上げようとしていたせいで、一瞬、小学生だった彼女が言ったような気にもなってしまったが、いくら大人びていると言っても、小学生の女の子にはあまりにも似合わない言葉だ。

 葉瑠と一緒にいる時は、よく雨が降った。

 私、雨女だから。
 彼女はよく、降り続く雨を見ながら、苦笑いを浮かべていた。だけど彼女と一緒にいる時の雨は、それほど嫌ではなかった。

 彼女との幼き日の想い出は、いつだって僕の頭の中で、煌めいてよみがえる。

 それはやがて翳る未来をもう知ってしまっているから、なのかもしれない。だから僕は本当なら、思い出したくないのだ、過去なんて、ひとつも。その記憶が鮮やかであればあるほど、いまがつらくなるから。

 僕たちは、もう戻ることができない。
 小学生の頃、みんなでかくれ鬼をして遊んだ夕暮れ時があった。幽霊屋敷と噂の廃屋で、僕たちふたりで忍び込んだ夜があった。大人になってしまったいま、過去を振り返ると、不思議な気持ちになってしまう。

 もし、あの頃の自分が、いまの自分を見たら、どう思うだろうか。
 もし、あの頃の自分が、あの時、あの場所で、あんな行動を取ってしまったことを知ったなら、どう思うだろう。
 ……いや、これを思い出すのは、もうちょっとあとにしよう。まだまだ、夜は明ける様子もないのだから。

 まずは小学生の時の話だ。

 葉瑠と同じクラスになり、はじめて話したのは、四年生の時だったが、彼女のことはもっと前から知っていた。田舎の、そんなに特別大きくもない学校で、クラスは学年に三つしかなく、ほぼすべてのクラスメートを把握していた、というのもあるし、それとは別に彼女はとても目立つ存在だったからだ。容姿の面もあった。

 だけど一番はそんなことではなく、
 葉瑠は三年生の時、関西のほうからこっちに越してきた。つまりは転校生だった。ほとんどが見慣れた顔の中に、新しい顔が加わる、という状況は、良くも悪くも目立ってしまう。たぶん葉瑠の性格を考えれば、それは特に嫌なことだったに違いない。仕方のないこと、と子どもながらに諦めてはいても、精神的な苦しみは多かったはずだ。

 転校してきたばかりの頃、彼女がひとりでいる姿を何度か見掛けたことがある。

 彼女の姿を見るたびに、何度も話しかけてみたくなった。僕たちの暮らす田舎町よりも、彼女はずっと都会からやってきたひとだから。極端で、とんでもなく失礼な話かもしれないし、本人には口が裂けても言えないが、僕たちと似ているけれど、違う。そんな珍妙な生き物に対するような興味が、最初の頃はあった気もする。そう思っていたのは、おそらく僕だけではなく、結構いたはずだ。

「永瀬、って、さ」
 永瀬、というのは、葉瑠の名字だ。

「結城、くん?」
「家にいる時、いつも何してるの?」

 はじめて掛けた言葉を、いまも覚えている。

 当時の僕に悪意なんてなかった、と自信を持って言えるけれど、聞くひとによっては、あるいは捉え方によっては、自分たちとは住む世界が違う、と線をひとつ引いているような言葉に思えなくもない。たぶん僕の言葉に対して、葉瑠は内心、すごく怒っていたはずだ。

「別に、みんなと同じ、です。テレビを見たり、本読んだり、とか。普通、です。本当に、普通」
 普通、という言葉を強調して、葉瑠が答えた。

 仲良くなる前、葉瑠は僕に対して敬語だった。僕だけではなく、気心を許していないすべての相手に対して、敬語を使っていた。同い年の相手に使う敬語は、ときおりその相手を見下しているふうに映ってしまうものだが、葉瑠の口調はそんな他者を蔑むものではなかったように思う。周りと関わることが怖い、だけど嫌われたくはない。そんな心の表れだったのではないだろうか。当時はそこまで言語化できるほど、はっきり意識していたわけではない。もちろん僕が勝手にそう感じているだけで、葉瑠自身がどう思っていたかは知らない。

「ねぇ結城くん、ちょっといい」
 何の用事で呼ばれたのかは覚えていない。内容自体は、たいしたことではなかったはずだ。そんなことはどうでも良かった。

 ちょっといい、ですか?
 と、いままでの葉瑠ならば付けていたはずの、ですか、が言葉の中から消えていた。ほんの些細なことだ。だけどそのちいさな変化が嬉しくて嬉しくて仕方なかった。

 距離の縮まりを実感した瞬間だった。

 同じクラスになって、半年くらい経ってのことだった。彼女との間に、劇的に仲が深まる印象的なエピソードがあったわけではない。ゆるやかに関係が育まれていったのだ、と思う。

 とはいえ、クラスのみんながいる場所で、そんなに話すわけではなかった。

 小学四年生というのは、いまから思えばまだまだ幼い年齢ではあるけれど、他者から見える自分自身のことや男子であるとか女子であること、とかを意識しはじめても、おかしくない時期だ。僕もその例に漏れず、周囲に多くのひとがいる中で、女の子と話すのは気恥ずかしかったし、周りにからかわれるのも怖かった。当時のクラスメートのことを思い出すと、女子と話しているくらいで馬鹿にするような男子はすくなかったように思うが、もしかしたら、というのがあって、ためらってしまった。

「気にし過ぎだよ、それ。そんなことばっかりしてたら、永瀬に嫌われるぞ」
 と、冗談めかして、そう言ったのは、小学四年生から六年までずっと同じクラスだった菱川ひしかわだ。

 菱川は家も近所で、幼稚園の頃から知っている。いわゆる幼馴染と言えるような存在だ。髪が長く、中性的な顔立ちをしている菱川は、よく女の子に間違われることが多かった。端正な顔立ちに、声変わりもしていなかった彼の声は、高音で、とても魅力的だった。直接、彼が周りの女子からアプローチをかけられている場面を見たわけではない。でも彼はクラスの女子からすごく人気があり、嫉妬から彼に敵意を向ける男子生徒も多かった。僕はむかしから仲が良かったので、敵意はひとつもなかったが、それでもやっぱり羨ましくはあった

 菱川と葉瑠が付き合っている、って噂あったな……。

 当時のことを思い出していると、芋づる式に、それまで忘れていた記憶までよみがえってくる。五年生の頃だったはずだ。その頃には、僕と菱川と葉瑠の三人は、よく話す関係になっていた。確かに僕たち三人が揃っている時の、外側から見える雰囲気は親密だったかもしれない。噂が出たとしても、おかしくはない。でもいまになって思うのは、僕ではなく、菱川と葉瑠、ふたりへ向けての悪意が感じられるのも事実だ。

 菱川を好きだった女の子が葉瑠に嫉妬した。あるいは、その頃には周りと打ち解けてきていたとはいえ、多少はいただろう葉瑠をいけ好かないやつだ、と思っていた生徒が、葉瑠へ憎しみを集めるために噂を流した。そういう可能性もあったのではないだろうか。当時は、ちょっとした変な噂くらいにしか考えていなかったのだが。

 だから菱川は、この噂が流れた時、気まずそうな表情を浮かべていた。
「ごめん……」
「何が?」
 と、僕は噂なんて知らない振りをしながら、彼の言葉に答えた。

「永瀬のこと。俺と永瀬が付き合ってる、って……」
「実際、付き合ってるの?」
「そんなわけないだろ。だって」

 だって、の続きを、菱川はわざわざ口にはしなかった。言わなくても、伝わる、と気付いているからだ。

 なぁ永瀬のこと、好きだろ。

 菱川がそう言ったのは、小学四年生の終わり頃だったはずだ。名残りの雪が散見される、冬から春に移り変わる時期だった記憶がある。恋愛感情の有無に関しては、違うよ、と僕は答えたけれど、彼はまったく信じていない様子だった。

 まぁつまり菱川は、友達の好きな女の子と付き合うわけないだろ、と僕に伝えたかったわけだ。
 あの時、僕たちが話していたところは、秘密基地のような場所だった。

 僕たちふたりで見つけたそこに、やがて葉瑠が加わり、そして僕たちの手から離れるように、そこを知る子どもたちは増えていった。多くのひとに認知されてしまったそれは、もう、秘密、と呼べるものではない。

 だけど……、ほんの一時期ではあったものの、僕と菱川、たったふたりの秘密基地だった時代があるのだ。


5、謎めいた日記は、秘密の場所に。


「永瀬のこと、好きだろ」
「好きだよ、もちろん。友達なんだから」
「そういう意味じゃないよ。ほら、女の子として好きかどうか、ってこと」
「あんまり考えたことないけど、たぶん、違う。そういう好きじゃない」
「結城、って、素直さが足りないよな」
「嘘なんて言ってない」
「分かった、分かった」

 僕の実家から二十分ほど歩き、家並みを逸れたところにその、秘密基地、はある。鬱蒼と生い茂る木々の中に、ぽつんと一軒、木造家屋が建っている。はじめて見た時、日常に開いた異界の門と偶然出会ってしまったような気持ちとともに、みょうに惹かれてしまったのを覚えている。

 僕たちの秘密基地、と言っても、別に自分たちで作ったわけではない。後ろめたさもある。菱川と僕の間で、幽霊屋敷、と呼んでいた場所なのだけれど、そこは廃屋だった。いや厳密に言えば、僕たちが勝手に廃屋だ、と決め付けて、勝手に忍び込んでいただけだ。もしかしたら管理しているひと、家主に当たるひとがいたのかもしれない。もしそうなら、不法侵入罪だ。仮にそうではなくても、多少の罪に問われる可能性はあるし、罪の有無関係なく、そもそも褒められた行為とは言えないだろう。

 外壁は塗装が剥がれてぼろぼろなのだが、中に入ると、物が散らばっているわけでもない。ほこりは溜まっているし、朽ちて地面に落ちた木片を見つけて、すこし危なっかしい雰囲気もあるが、廃屋にしては、意外と綺麗な印象が、逆に不気味だった。

 幽霊でも出そうだなぁ、なんて、僕たちはよくその雰囲気を楽しんでいた。僕もそうだったし、彼も幽霊を信じるタイプではなかったので、怖がっている様子はなかった。姉に言えば、怖がりながらも、一緒に行こう、なんて言ってきそうだったので、僕は家族の誰にも口にしなかった。

 彼とふたりで時間を潰すなら、別にお互いの自室でも、近くの空き地でも良かったのだが、それでもあえてその幽霊屋敷を選んだのは、やはり僕たちだけしか知らない、という特別感があったからだろう。もちろん他にも知っているひとはいたかもしれないが、すくなくとも僕の分かる限り、そこに侵入する子どもは、僕たち以外はひとりもいなかった。ある時期までは。

鰐川わにがわさんのところ、行こう」

 この言葉が、放課後、幽霊屋敷へ行く合図だった。
 かつてその屋敷の主だった人物の名前が、鰐川さんだ。いやもしかしたら僕たちが勝手に忍び込んでいた時もまだ、その土地の権利を持っていたのかもしれないのだけれど、詳しいことは分からない。名前を知ったのは、僕たちが入り浸りはじめた、三年生の頃だ。

 汚れたベッドの残る、寝室だったらしき部屋の引き出しに、日記が残っていたのだ。この家は鰐川さん夫妻と、夫側の両親の四人で暮らしていて、夫婦の間に子どもはいなかったみたいだ。日記を付けていたのは妻の、数子さん、というひとで、几帳面な性格が表れているような字がびっしりと書き込まれていた。

 例えば、

『一九××年三月十四日

 弘也さんの生まれた岐阜に越してきてから、半年が経った。弘也さんの実家で、お義母さんやお義父さんと一緒に暮らす、って決まった時、最初はどうなることだろう、と思っていた。でもこうやって慣れてくると悪いことでもないかな、って気もするな。私も、もともとの生まれは九州の田舎のほうだし、ひとり暮らしや弘也さんと同棲していた頃の、都会での暮らしが特別好きだったわけでもない。どちらかと言えば、久し振りに実家で暮らすことになった弘也さんのほうが、悩みは多そうだ。お義父さんとの関係がちいさい頃から、あまりよくなかったみたいで、いまも口喧嘩は絶えない。この間も、「こすって、車に傷付けたの、父さんだろう」と弘也さんがお義父さんに怒っていた。……あぁそう言えば、弘也さん、ホワイトデーのお返しくれなかったな。最近記念日とか、そういうの、すごく雑になったな』

 という内容が、日記には書かれている。日常の些細なことがあれやこれやと書かれていて、これは日記の前半のエピソードだ。

 多少ぎくしゃくとしたところはあっても、鰐川さん家族が、荒んでいなかった頃の。

『一九××年六月十二日

 弘也さん、最近、怪しい。浮気、しているんじゃないだろうか。いや、違う。夫を信じないなんて、妻、失格だ。私は彼を信じる。私の愛した彼が、そんなひとを裏切るようなこと、できるはずがない。むかしは問題のあるところもあったけど、いまの彼は変わったんだから。……でもやっぱり不安だ。私はこっそりお義父さんとお義母さんに相談してみることにした。あの子がそんなことするわけない、って否定して欲しかった。だけどふたりは深刻な顔をしていた。あの子ならやりそう、って。お義母さんが、今度探りを入れてみる、と言ってくれた。でもどうなんだろう。お義母さんに相談したことがばれて、弘也さんと険悪な関係になったら嫌だな』

 日記の主である数子さんは、心の状態が文字に出るタイプなのかもしれない。この辺りから几帳面で、綺麗だった文字が、ときおり崩れていた。

 翌日の日記の文字は、もっと荒れている。

『一九××年六月十三日

 お義母さんと弘也さんが、朝から口論していた。原因はやっぱり私が相談をしたことだ。ごめんなさい。お義母さん。悪気はなかったの。夜、帰ってくるなり、何が浮気してる、だ。お前だろ。別の男と浮気してるのは、と言う。弘也さんが私のほおを叩いた。久し振りだったので、その瞬間、パニックになってしまった。結婚してからは落ち着いていたので、忘れていた。彼が、私よりも何倍も嫉妬深いことを。自分の罪を隠すために、俺を悪者にしようしてるんだ、と弘也さんは本気で信じているみたいだ。嫉妬に駆られた時の弘也さんほど、厄介なものはない。だけどじゃあ彼は本当に、浮気していないのだろうか。だったら変なこと、言わなきゃ良かった……』

 ここから一週間経った日付を最後に、毎日書かれていた日記は途絶えている。焦ったように書いたのか、最後の日記の内容は、ひらがなも多く、文字も汚く、ひどく読みにくかった。

『一九××年六月二十日

 仕事が終わって、家に帰ると、お義父さんとお義母さんが倒れていた。しんでいる、とすぐに分かった。本来だったもうかえってきているはずのひろなりさんの姿がない。どうしよう不安だ。電話の音が鳴る。じゅわきを取ると、ひろなりさんからだった。おかあさんたちがしんでる、といっても、ふぅん、としか言わなかった。私はおもいきって聞くことにした。もしかして、ひろなりさんがころしたの? 彼は、ちがう、と言った。ひろなりさんが違う、というなら、ちがうんだ。ひろなりさんは、いま帰るから、と言っていた。すなおに待ってよう。私、身体がふるえてる。きもちをおちつかせるために日記を書いているけど、疑わなきゃ良かった。あぁふあんだ』

 ここで文章は終わっている。

「どう思う?」
 と、日記をはじめて読み終えた時、菱川がそう聞いた。

「何が?」
「弘也さんが殺人犯、なのかな?」
「絶対そうだろ。数子さんを疑ううちに心が、って感じで」
「いや、意外と全部、数子さんが犯人、って可能性もあるんじゃないか。動機は同じような感じだけど、精神的におかしくなった数子さんが日記では嘘を書き続けていて、実は自分の家族を自分で、みたいな」
「なんで、数子さんが家族を殺すんだよ」
「あれだよ。旦那さんが暴力的で嫉妬深かったら、奥さんだって、頭がおかしくなるよ」
「でも、そもそも日記が本当かどうかも」
「分からないけど、でも嘘をつく理由もないだろ」

 この話をしていた時、菱川はすごく楽しそうだった。そう言えば、彼は小学生の時から、児童向けのミステリをよく読んでいた。本格ミステリのような出来事が身近で起こっているような気がして、嬉しくなったのかもしれない。その日記は現実に存在するもので、僕たちの会話は、ひどく不謹慎だった。でもやはり好奇心には勝てない。自分たちが探偵と助手になったみたいで、本音を言えば、僕も楽しんでいた。

 とはいえ結局、これだけの手掛かりで真実に辿りつけるわけもなく、ただ想像するだけだったのだが……。

 推理談義が終わったあと、菱川がぽつりと言った。

「……でも、ここでひとが殺されたのは、間違いないんだよな」
「そうなるね」
「出るのかな、幽霊」
「怖い?」
「いや、本当にいるなら、会ってみたい」
「僕も」

 この会話が、幽霊屋敷、と呼ぶようになったきっかけだ。そう呼びながら、僕たちは幽霊をまったく信じていなくて、怖がってもいない、なんとも霊に失礼な子どもだったのだ。そして怖がっていないから、よく遊びにいくこともできるし、ずっとその場所に留まり続けることができる。

 屋敷を見つけ、日記を気付き、推理談義に花を咲かせたのが、小学三年生の頃だ。
 まだ葉瑠としゃべったこともなかった。
 そこからだいぶ経った頃に、僕は葉瑠を誘って、この幽霊屋敷を訪れるのだが、それまではお互いが絶対に秘密にする、という暗黙の了解の中で成り立つ、ふたりだけの秘密基地だったのだ。

 大学生になったいま、僕はその場所を訪れている。

 もうなくなったのでは、とも思っていた。最初からここが目的地だったわけではない。いや本当の目的なんて、実はとっくの前に終わっている。

 屋内に入ると、以前よりも明らかに多くの朽ちた木々が床にちらばっていた。すこし大きな地震がくれば、いやそんなものがなくても、ある日急に、倒壊してもおかしくなさそうだ。あの頃からぼろぼろだった建物は、十年近い月日が流れたいま、当時の比ではない。取り壊されずに残っているほうが、奇跡に近いような場所だ。

 幽霊とは会えるだろうか。

 あの頃の僕は、そんな存在なんて欠片も信じていなかったけれど、いまは違う。ここへ帰る途中、ふとそんなことに気付き、実家に帰ったらここへ寄ってみよう、と思っていたのだ。その一方で、何かに引き寄せられてしまった、というような想いもあった。夜を選んだのは、人目に付かないからだ。昼間に偶然見つかって、廃屋に侵入する不審者とは思われたくなかった。

 電灯も付かない夜の廃屋は、僕の持っているハンドライトに照らされて、より暗さを際立たせていた。
 鰐川家の、誰かの、幽霊が現れる様子はない。

 だけど確かに気配はある。懐かしい、とても懐かしい気配だった。僕はその正体にもう気付いている。だけどいまだに言葉にすることができずにいる。

 僕はちいさく息を吐く。
 音が、する。窓越しの景色は暗くよどんでいて、降り注ぐ粒を視認することはできないが、止んでいた雨が、また降りはじめたみたいだ。

 僕は、その音に耳をそばだてる。


6、白い光を放って、映し出されたものは。


「結城くん、なんか私に隠し事してない?」

 怒ったように葉瑠が言ったのは、菱川と葉瑠が付き合っている、というあの噂から、すこし経ってのことだ。だから僕たちは五年生になっていた。僕の低かった背が一気に伸びて、菱川を抜いた年でもある。そこまで自分の身長にコンプレックスがあったわけじゃないけれど、背、大きくなったね、とほほ笑んだ葉瑠の表情を見ながら、嬉しくなったのを覚えている。

 もうその頃には、葉瑠の僕への話し方に他人行儀なものはなくなり、気軽な口調で接してくれるようになっていた。

「気のせいじゃないか?」
 と僕が首を傾げると、葉瑠は不満そうな表情を浮かべていた。

「嘘だぁ」
「いや、結構本気で言ってるんだけど……」

 彼女が何に対して怒っているのか分からず、僕は困惑していた。特に理由もなく、理不尽に、周囲に怒りをぶつけるようなクラスメートは確かにいたが、葉瑠はそういう子どもではなかった。

「結城くんと菱川くん、最近、怪しい。すごく怪しい」
「その、怪しい、って、変な意味?」
「茶化さないで」
「いや、茶化しているわけじゃなくて、最近よくそういうからかい多いだろ。あんまりそれ、好きじゃないんだ。だから」
「あぁ、それ、私も嫌い。でもそういう話じゃないよ。ふたりだけの秘密があるでしょ」
「ないよ」と言いながら、ふたりだけの、と聞いて、秘密基地のことだ、と気付いた。「そんなの、ひとつもない」
「結城くん、嘘つくの、下手だよね。いつも放課後、ふたりでどこ行ってるの?」
「どこ、って、菱川の家とか、だよ」
「また、嘘。前にすこし追いかけたことがあるから、違う、って知ってるよ」
「ストーカーだ……」
 僕の冗談に、葉瑠が笑う。
「変なこと言わないで。ほら、隠したいのは分かるけど、もうそろそろ諦めてよ」

 あの場所は、僕たちだけの秘密だった。

 だから言うわけにはいかない。そう思いつつ、葉瑠になら大丈夫かな、という思いもあった。他のひとなら、きっと菱川は怒るだろうけれど、それが彼女なら、まぁいいや、で終わらせてくれる気がしたのだ。

 言う、言わない、のやり取りをそのあとも何度か繰り返したあと、結局、僕が根負けした。さすがに、ふたりが悪いことしてる、って先生に言うから、なんて言われてしまっては、折れるしかない。葉瑠の性格を考えれば、告げ口みたいな真似はしないだろう。本気ではない。そう思ってはいても、もしかしたら、という不安もあった。ちょっと勝ち誇ったような彼女の表情に、どきり、としてしまった記憶はいまもしっかりと残っている。

 秘密基地のことを教えると、彼女が、行きたい、と言った。

 菱川に告げるかは、迷った。だって僕としては、秘密の約束を破っているわけだから。後ろめたい気持ちがあったのは間違いない。

 葉瑠とふたりで鰐川家の幽霊屋敷を訪れたのは、夜だった。不安を与えるような黒ずんだ空に、僕は嫌な予感を覚えていた。

「やっぱりやめない?」
「なんで? ここまできて、そんなの駄目だよ」
「時間も遅いし」
「遅くしよう、って言ったの、結城くんだよね」
「まぁ、そうだけど……」

 僕と菱川は、いつも夕方頃に秘密屋敷を訪れ、真っ暗な時間になる前には、家に帰るようにしていた。僕も菱川も決して門限の厳しい家ではなかったし、すこしぐらい遅い時間に帰ってきても、あれやこれや、と注意されることもなかった。それでもやっぱり多少の罪悪感があり、遅くなりすぎないようには気を付けていたのだ。

 だから本来なら、彼女と向かうべき時間も、同じくらいのほうがいいのかもしれないが、そうしてしまうと、ばったり菱川と鉢合わせする可能性があった。僕の知る限り、僕と菱川のどちらかが単独で、あの秘密基地に行くことはなかったけれど、もしかしたら、ということがある。そんなわけで、葉瑠とは夜に行くことになった。

「楽しみだね」
 彼女は僕の不安な気持ちも知らず、楽しげな表情を浮かべていた。

 もちろん幽霊に不安を覚えていたわけではない。当時もいまも、僕は、幽霊なんかよりも、人間のほうが怖い。つまり何に不安を覚えていたか、というと、まずは葉瑠の両親にばれることだ。彼女の両親を見たことは数回あるけれど、厳格な雰囲気で、ちょっと怖かった。

「ねぇ。葉瑠。お母さんには、なんて言ったの?」
「えっ。友達の家、って言ったよ」

 あっけらかんと彼女は言っていたが、つまりまぁ嘘をついたわけだ。僕の両親なんかとは違って、本当のことなんて伝えたら、猛烈に反対されることだろう。別に葉瑠の嘘を責める気はなかったけれど、とはいえ、もし真実を知ったら、彼女の両親からどんなふうに怒られてしまうのか、と想像し、それはちょっとした恐怖だった。

 菱川にばれることや他のクラスメートにふたりでいるところを見つかって、冷やかされるのも嫌だった。
 そんなふうに思い悩んでいるうちに、僕と葉瑠は、目的地に着いてしまった。乗っていた自転車からおりる。いつもは菱川と訪れる見慣れた場所が、普段隣にいる相手が変わるだけで、まるで雰囲気の違うところに見えた。夜の景色のせいもあったかもしれないが……。

 僕たちは手にハンドライトを持ち、ちょっとした肝試し気分だ。これはまだ明るい時刻に、菱川といた時にはなかった感覚だ。

「どきどきするね」
 怖がっている様子もなく、彼女が言った。その表情を見ていると、彼女に比べれば、僕なんて全然怖がりなのかもしれない。辺りを包む夜闇が、普段よりも僕に恐怖を感じさせた。色褪せた建造物を前にして、足取りが重くなる僕の先を行く葉瑠が、玄関の戸を開ける。

 やっぱりやめようよ、と言うタイミングは完全に失われてしまった。
 彼女を追って、僕も中に入る。

「へぇ、雰囲気あるね」と、葉瑠がハンドライトをぐるぐる回しながら、そんなことを言う。「で、これから、どうしようか?」
「えっ、何も考えてなかったの?」
「まぁね。だって目的は、怪しいふたりの秘密を暴くことだったから」
「じゃあ帰る」
「えぇ、嫌。せっかくここまで来たんだから、ちょっと、いようよ。ちょっとした冒険みたいで楽しいし」
「こんな場所にずっといるの、嫌じゃない?」
「それ、結城くんが言うの、おかしいよ。だって結城くんと菱川くんは、ここをずっと秘密基地にしてたんでしょ。私に内緒で」

 最後の言葉を、彼女は強調した。

「ここ、見つけたの、永瀬と仲良くなる前だよ」
「でも仲良くなってからも、ここ使ってたんでしょ。ふたりで。なんか、ずるいなぁ」
「ごめん、って……」

 彼女のむくれた表情に、僕は慌てた。女の子の、泣いている姿や怒っている姿に、どうしていいか分からなくなってしまったのだ。僕に限らず、このくらいの年齢の男子なら、誰でもこんな気持ちになるのではないだろうか。

 ハンドライトの光だけが頼りの暗い部屋の中、仕方なく僕は、彼女と一緒にいることにした。

「ここ、って、どんなひとが住んでたのかな?」
 ぽつり、と葉瑠がつぶやく。そうだった。彼女は知らないのだ。僕は、日記のことを語り聞かせた。日記の実物を見せてあげたい、とも思ったが、部屋の暗さのせいもあって、うまく見つけ出すことができなかった。記憶頼りの話になってしまったが、彼女は興味を惹かれたような相槌を打ってくれて、僕はほっとした。

 その時、だった。

 いまでも、はっきりと覚えている。
 僕が話を終えた時、室内に突然、白い光が放たれたのだ。ハンドライトの光は、まったく関係ない。

 声が、聞こえた。何を言っているのか分からない。ただ光の向こうに、ひとのような、何かがある。目を凝らすと、その姿は、女性に見える。

「ねぇ、あれ、って……」
 困惑したような葉瑠の声が聞こえて、安心した記憶がある。僕だけにしか見えないものではない、と。

 僕たちはあの日、見慣れた日常にはない、何かを見た。その正体について、すくなくともあの時点では、はっきりと言葉にすることができなかった。あれが幽霊だったのどうか、いまも自信はない。でも……、最初に幽霊を信じるきっかけがあるとしたら、たぶんそれは、あの瞬間だ。

 僕たちよりも、ずっと背丈の高い、人間の姿だ。白い光の先で、靄にかかったように、明確ではない。だけどおそらく女性だ。年齢はすこし若い感じがする。そう思ったのは僕だけではなく、葉瑠も同じだったようだ。

 葉瑠が、僕の肩を叩く。

「永瀬?」
「たぶんそうだよね。さっき話してた。数子さん」

 日記の主である数子さんについて、僕が知っているのは、あの日記に書いてあることだけだ。顔も、背丈も、外見に関しては、何ひとつ分からない。だけど他に考えられなかった。日記の登場人物の中で、若い女性に該当するひとは他にいない。

 僕は、おそらく葉瑠も、怯えるより、困惑していた。
 白い光が広がっていき、こちらに向かってきた。僕たちを呑み込んでいくように。

 実は、そこからの記憶はすっぽりと抜けている。

 いやたぶん葉瑠と一緒に逃げて、別れて、家に帰ったのだ、と思うが、その時のインパクトが強すぎたのだ。まったく思い出せない。

 翌日、僕は、きのうの出来事について話したかった。おそらく葉瑠も同じ気持ちだったはずだ。
 でも結局、話すことができなかった。相手の反応が怖くて。さらにそれとは別に、ちょっとした現実的な問題もあった。菱川と会話の途中、つい口を滑らせてしまって、葉瑠と秘密基地に行ったことがばれてしまったのだ。菱川と喧嘩になった。もうすこし大人になったあとなら、口喧嘩程度で済んでいたかもしれないが、残念ながらこの時の喧嘩は手も足も出るようなものだ。たぶん事前に伝えていたなら、菱川もこんなには怒らなかっただろう。内緒にされたのが、のけ者にされたみたいで、嫌だったのだ、きっと。

 お互いが謝って、仲直りをする。そんなやり取りはなく、数日後、自然にいつも通り、話すようになっていた。葉瑠には言わなかった。伝えてしまえば、彼女は罪悪感を抱いてしまうだろう。たぶん菱川も、彼女には何も言わなかったはずだ。

 でも……ちゃんと謝っておけば良かったかなぁ、という気持ちもある。はっきりと想いを言葉にしておかなかったことで、ちいさなわだかまりができて、それはゆるやかに広がっていく。それ以降も、菱川は、僕と仲良くしてくれたけれど、間違いなくいままでにはなかった距離ができた。ふたりで秘密基地に行くこともなくなり、ふたたび誰かと、あの場所に足を踏み入れることは一度もなかった。

 ひとりだけでなら過去に、一度だけ、あった。
 小学六年生の時だ。僕は久し振りに、あの場所へ、と向かったことがある。特別な理由はない。そう言えば、あそこはどうなったかな、とそんな気持ちで。近付くと、騒がしい声が聞こえてきて、あの頃の僕よりも、すこし年下の少年たちの遊び場になっている、と気付いた。遠くからそれを見て、僕はそこから離れた。僕たちの秘密基地はもうどこにも存在しない、と分かって、萌した寂寥感に、ふ、っと息を吐いたのを覚えている。

 あれは本当に、なんだったのだろうか。
 あの白い光と、その先にいた女性は。

 僕は、そして葉瑠も、数子さんの幽霊だ、と思っていた。でも本当にそうだろうか。僕が考えているのは、もっと突拍子もないものだ。

 僕たちは、未来、と対峙していたのではないだろうか。

『久し振り。そっか、もうそんなにおとなになっちゃったんだ……』

 背後から声が聞こえる。そこには白い光があり、その先に女性の姿が見えた。つまり十年近く前の、あの時と同じ状況だ。

 幽霊は幽霊でも、数子さん、ではない。
 葉瑠だ。
 おさない小学生の葉瑠ではなく、高校生の。

「久し振り……。いたんだ」
『嘘つき。ずっと前から、気付いてたくせに』
「ごめん」
『ようやく見つけてくれた。遅いよ』
「かくれ鬼をした時も、そんなこと言ってたね」
『あぁ、懐かしいね。本当、見つけるのが、遅いんだから』

 僕はまたすこし、過去に想いを馳せる。


7、かくれ鬼は、見つかる時を過ぎて。


 かくれ鬼、という遊びがある。
 僕は誰もが知っている遊びだ、と思っていたのだけれど、そうではない、と知ったのは、つい一年ほど前のことだ。どんなきっかけか、までは覚えていないが、大学の同級生と子どもの頃の話になり、僕がかくれ鬼の話を振ると、その同級生は困ったように首を傾げていた。何それ、と。

 かくれ鬼は、かくれんぼと鬼ごっこを一緒にしたような遊びだ。鬼がかくれんぼと同じ要領で、隠れている人間を探すが、見つかればそれで終わりじゃなく、そこから走って逃げることができる。

 仲良くなって、まだそんなに経っていない頃だから、僕たちは四年生だったはずだ。

 葉瑠にとっても、それなりに仲の良い生徒も増えつつあって、以前ほど周囲から見ても、孤独な雰囲気はなくなっていたが、それでもときおり、他の生徒たちとの間に、ちいさな距離がかいま見えていた。そんな時期だ。

 当時、僕たち男子たちの中で流行っていた遊びが、キックベースだ。野球とサッカーを混ぜたような遊びで、そんなに運動神経がよくなかった僕にとっては、あまり参加したい遊びではなかった。まぁただの偶然でしかないのだけれど、かくれ鬼にしろ、キックベースにしろ、当時の僕たちの間では、何かと何かの遊びを掛け合わせたものが流行っていたのだ。

 放課後の、よくキックベースに参加するメンバーの中に、最初は僕も入っていたのだけれど、途中でみずから外れることにした。別にのけ者にされたわけじゃない。ただチームリーダーがじゃんけんで自分のチームのメンバーを取り合うのだが、毎回僕が最後に残ってしまうくらい、僕はこの遊びに向いていなかった。わざわざそれを口にするクラスメートはいなかったけれど、やっぱりひしひしと伝わってくるものがあり、僕はそれとなく断るようになったのだ。

 菱川も、このキックベースには、ほとんど参加していなかったはずだ。
 確か秋頃だった。僕と菱川と、葉瑠、そしてあと何人かの生徒が、決まったメンバーとして、よく放課後の教室に残って、だらだらと話していた時期がある。僕と菱川だって、もちろんそんな毎日、秘密基地に行っていたわけではなく、この時期はあまり、あの屋敷には顔を出していなかった。放課後の教室で、気の合う同級生と複数人で話すのを、楽しんでいた頃だ。

「ねぇ、いまからさ。公園に行かない?」
 そう言ったのは、小林だ。彼女は、市内のテニスクラブに入っている、明るく活発な女の子で、静かに本を読んだりするよりも、身体を動かしたりするのを好む性格だった。男女分け隔てなく接するクラスの人気者で、いつも周りに自然とひとが集まってくるような、そんな子だ。僕は彼女と話す時、つねに緊張していた。小学校を卒業するまで変わらずに。嫌いだったわけではもちろん、ない。彼女を嫌いなクラスメートなんて、あの頃もしいるとしたら、その人気にやっかみを覚えていた子くらいだろう。

 眩しいくらいに、目立つ女の子だった。
 だからこの緊張は、気後れに近い。僕はどちらかと言うと、目立たない存在だったので、彼女との間に隔たりを、僕自身が勝手につくってしまっていたのだ。小林は、そんなこと何も考えていなかった、と思う。

 僕の小林への接し方を、葉瑠は勘違いしていたみたいだ。

「ねぇ、結城くん、小林さんのこと、好きでしょ」
 と言われたことがある。これに関しては何年生の時だったか、まったく覚えていない。
「小林のこと?」
「うん」
「なんで? 別に、そんなことないよ」

 そう返した時、僕はきっと驚いた表情を浮かべていた、と思う。隠していた気持ちを言い当てられたから、ではなく、なんでそんなことをいきなり言い出すんだろう、という驚きだった。もしも彼女から好意を持たれていたとしたら、僕は嬉しい、と感じるはずだ。だけど小林が、僕に恋愛感情を持っていたとは考えられない。僕にしたって、小林のことを、かわいいなぁ、と感じることがなかった、と言えば、嘘になるけれど、その心持ちが、恋だったか、というと首を傾げてしまう。

 まぁなんというか、僕と小林はそれくらいの関係だった。

 かくれ鬼の場所として、僕たちが選んだのは、学校の近くにあるそれなりに広々とした公園で、ブランコやシーソー、ジャングルジムなど多くの遊具が備えられていて、中央には広場があり、小高い丘を駆け上がると、そこには屋根とテーブル付きのベンチがあった。悩みのある時なんかは、僕はもうすこし大きくなってからも、そこによく訪れた。あまり褒められたことではないのだが、中学や高校の時、どうしても学校に行きたくない気持ちが限界に来ると、ひとりでこのベンチに座って、特に何をするわけでもなく、空を眺めていた。ただぼんやりと景色を見ていると、悩んでいる自分が馬鹿らしくなってくる瞬間がある。その一瞬を、僕はたびたび、この景色に求めたのだ。もちろん悩みの大きさ次第では、どうにもならないのだけど……。

 その時、一緒にかくれ鬼をすることになったメンバーは、僕、菱川、葉瑠、小林、あと三人、クラスメートがいた。全部で七人。男子が四人で、女子が三人だった。

 七人で円になって、鬼役決めの、じゃんけんをする。
 鬼になったのは、僕だ。隠れる場所自体はすくない、とはいえ、この広範囲の中から六人を見つけるのは、結構大変だった。木やベンチの裏、さすがに僕が入れないので女子はそんなことしないだろうけど、男子ならトイレの中、隠れやすそうな場所から探していく。

「菱川! 見つけた!」
 最初に見つけたのは、菱川だった。

 公園での注意事項などが書かれた看板の裏に隠れていたのだ。見つけてしまえば、僕より足の速い子はその中にはいなかった。そもそも運動が好きなタイプの男子は、ほとんどキックベースのほうに参加しているからだ。

 そのあと、次々と見つけていき、残ったのは、小林と葉瑠のふたりになった。
「もうだいぶ、遅くなってきたな……」
 そう言ったのは、菱川だ。辺りは橙色に染められていて、逢魔が時なんて言われるのが似合いの景色になっていた。

「私たちも手伝うから、早く見つけようよ」
 とクラスメートの女の子が言うので、僕たちはみんなでふたりを探すことになった。数人がかりだと、小林は意外とすぐに見つかった。木々と金網の間の、どうやってそんな場所に入ったのだろう、という狭い場所に隠れていた。

「どんなところに、隠れてるんだよ」
「へへっ、ごめん」
 と、僕の呆れた言葉に、小林が照れたように笑った。

 とりあえずこれで、あとは葉瑠だけだ。

 そう思った時、
 大きな笑い声が聞こえた。聞いた瞬間、あぁ嫌だな、と思う、そんな印象の。僕たちがその声のほうを向くと、中学校の制服を着たちょっと不良な感じのグループが数人集まって、大声を張り上げていた。うちの小学校の卒業生なのだろう、見覚えのある顔もいる。小学生をいじめている中学生の話を、その時期よく聞いていた僕たちは、その雰囲気から、彼らが犯人だ、と思った。

「とりあえず急いで永瀬を見つけて。逃げよう!」
 僕の言葉にみんなが頷き、僕たちはこっそりと行動した……つもりだった。

 だけど、こんな時に限って、タイミング悪く見つかってしまうのが、僕の運の良くないところだ。
 僕と中学生グループのひとりの目が合ってしまって、そのひとりが僕たちのほうへと向かってきた。

「逃げろ!」
 と、菱川の言葉を合図に、僕たちは散り散りになった。僕は小高い丘を駆けて、ベンチへと向かい、テーブルの下に隠れる。

 そこに葉瑠がいた。

「結城くん!」
「永瀬」
 僕たちは互いにびっくりした声を上げた。

「びっくりした――」葉瑠の言葉を止めようと、僕は慌てて自分の唇の前に、人差し指を付ける。驚きのせいか、想像以上に、その声が大きかったからだ。「どうしたの? 鬼でしょ。なんで隠れようとするの?」
 僕の行動に従って、彼女は声をちいさくしてくれた。

「実は、それどころじゃなくて……」
 僕は葉瑠の耳もとで、これまでの出来事を話すことにした。ここまでの経緯を聞き終えた彼女は、ごめん、と言った。

「すぐに見つかってたら、良かったね」
「いや、永瀬は悪くないよ。でも、ここ探した記憶が……」
「あっ、実はあんまり来るの遅いから、一度トイレに行ったんだ。その時に、もっと見つかりやすい場所にしようかな、って」

 もともとは茂みの中に隠れていたらしい。そこも探しているので、タイミングが悪かったのだろう。

「まぁ、見つかって良かった……。じゃあ、とりあえず反対の坂をおりよう」

 僕と彼女がテーブルの下から出ようとした時、叫び声が聞こえた。菱川の声だ。遠くから、その様子が見えて、中学生のひとりと追いかけっこをしているような状況になっていた。いまになって思えば、あれはとても滑稽な光景だったように思う。だけどあの頃の僕たちは必死だった。身の危険を感じるくらいの恐怖が、そこに確かにあったのだ。

 小学生にとって、三つ四つ離れた中学生は、強大で、とても凶悪な存在で、そんな菱川の姿を見ながら、助けなきゃ、と焦った。

「永瀬は、逃げて! 公園の外に!」
 僕はそう言って、菱川のもとへと、駆ける。

 そして僕は中学生のグループに、ぼこぼこに殴られて……走りながら、そんな不安が駆け巡った。怖い。逃げたい。自分の行動に後悔しなかったか、と言えば、それは嘘になる。

「お、おい、ちょ、ちょっと待てって……」
 近付くと、そんな声が聞こえてきた。声の主は、その中学生グループのひとりだ。状況に違和感を覚えたのは、その時だ。

 結果から言ってしまうと、彼らは小学生いじめの犯人ではなかったし、さらにとても優しい性格だった。ごめんなさい、と疑ったことを謝ると、おそらくそのグループのリーダーっぽい雰囲気の中学生のひとりが、

「いやぁ、顔を見た瞬間に逃げられたから、あっ、怖がられてる、って思って。なんとか勘違いされてるなら、解きたいなぁ、なんて思ってさ。追いかけたんだけど、余計、怖がらせちゃったな。こっちこそ、悪かった」
 と、言った。体躯は大きく、目つきも鋭かったので、外見の印象は怖かったけれど、穏やかなしゃべりかたには、安心感がある。

 僕たちの周りを渦巻く雰囲気が和やかになった。
 それを遠くから見て、察したのかもしれない。散り散りになっていたクラスメートたちが、集まってくる。葉瑠以外の、四人全員がいる。公園の外に出たものだとばかり思っていたので、その時には、本当にびっくりしてしまった。

 公園の中で、全員が隠れて、こちらの様子を見守っていたのだ。
 もう一度、中学生グループを相手にして、新たにかくれ鬼をしているような状況だったわけだ。ただ中学生たちの人柄が分かってしまえば笑い話でしかないけれど、それまでは遊びではない、緊張感があったわけだ。

「大丈夫、なんだよね……?」
 こっそり他のひとに聞こえないように、僕の耳もとに囁いたのは小林で、僕はそれに頷いた。

 それにしても無謀な行動をしてしまった。みんなが公園を出なかったのは、僕たちのことが心配だったからだ、と思う。それでも隠れていたのは、一歩間違えていれば、大惨事になっていたからだ。中学生くらいの少年が、自分よりもおさない小学生をいじめて、死なせてしまう、という事件は実際に存在するわけで、場合によっては僕たちがその当事者になっていたかもしれない。そう考えると、結局、運が良かっただけなのだ。

「永瀬、探さないと」
 菱川が、ぽつり、と言って、僕以外は葉瑠がまだ、かくれ鬼を続けている、と思っているのだと気付いた。

「あぁ、永瀬はもう帰ってもらったから、大丈夫。さっき偶然、見つけたんだ」
 だけど公園前の自転車置き場まで行くと、そこには葉瑠の自転車が残ったままだった。

「みんなで手分けして探す?」
 僕は首を横に振った。大丈夫だ、と。

 葉瑠がいる場所に、見当はついていた。きっと彼女は、そこにいる。

 小高い丘をのぼって、テーブルの下に隠れているだろう葉瑠のもとへと行くと、彼女はすこし顔を赤くして、ほおを膨らませていた。

「ごめん、遅くなって」
「見つけるの、本当に遅い。……あんな言い方されて、無視していけるわけないよ。それなのに、なんか楽しそうに話してるし……」
「見てたなら、くれば良かったのに」
「なんか、悔しくて」

 つまり彼女は、遠くから僕たちと中学生たちが仲良くなっている光景を見ていたらしい。それで自分だけ仲間外れになってしまったのが、嫌で、ここで拗ねていたわけだ。改めて隠れていたわけではなく。

 とりあえず謝り続ける僕に、ちょっと冷たい目を向けてはいたものの、彼女はテーブルの下から出てきてくれた。

 見回すと、辺りの景色は暗くなっていた。


8、占われても、未来は見通せなくて。


『私のこと、どこから気付いてたか、私には、分かるよ』
 回想に浸っていた僕の心を、現在に引き戻すように、彼女の声がした。

 高校生の姿をした葉瑠がほほ笑む。僕の人生でいままで見てきた誰よりも魅力的な女性が、この時の葉瑠だ。ただ容姿の話をしているわけではなく、たぶんそれは僕の彼女を見る目が変わったからだ。彼女に抱く気持ちがどういう種類のものなのか、自覚してしまったことによって。小学生の頃は、あまりにもそういう感情に無頓着だったのだ。

「じゃあ聞くけど、どこから?」
『電車に乗っていた時から』
「……当たり」
『ねぇ、むかしのこと、覚えてる? ふたりで、さ。このお屋敷に忍び込んだよね。あの時、私たちが見た幽霊、って私のことだったんだね』
「と、いうことになる、ね。この屋敷に幽霊として出てきちゃう縁でもある?」
『いや、全然。それに……いや、分かってて、聞いてるでしょ』

 そう、僕が見ないようにしていただけだ。確かにそこにいた、にも関わらず。

 僕が電車に乗っていた時点で、もう彼女の気配があった。地元を離れている間、近くに葉瑠のいる感覚を抱いたことはないので、もしかしたら彼女はこの地には縛られているのかもしれない。だけど、すくなくともこの屋敷の中だけで存在している感じではない。

「まぁ、ね。でも、僕たちが小学生の時に、未来の葉瑠、きみを見たのは、事実だ」
『あの時は、未来の自分が目の前にいるなんて、想像もしてなかった。ただ……なんとなく、懐かしさは感じてたかもしれない。なんで、たった一回しか来たことのない……ここで、あんな未来を見たんだろうね。あぁまぁ、今回で二回目か……、とりあえず生きている間、って話で、ね』
「ここ自体、普通な場所じゃないからね。あの日記の話、覚えてる?」
『私は、読めなかったけどね』
 葉瑠が拗ねた表情を浮かべる。

「仕方ないだろ。夜の、あんな状況だったんだから」
 すこしずれたところで文句を言う、そんな彼女らしさに、僕は思わず笑ってしまった。

『まぁ、いいんだけどね。それで?』
「僕だって、もちろん答えを知っているわけじゃないよ。ただあの日記を見る限り、この場所では、殺人か、もし殺人ではなかったとしても、それに近い惨劇が起こったことは間違いない。あの頃の僕たちは、そういうことに無頓着だったから気付かなかっただけで……、いや、もしかしたら無意識のうちに、気付かないふりをしていただけなのかもしれない。この場所には怨念が渦巻いていて、不可思議なものを引き寄せていた、といまになると、そんなふうに思うんだ。ただそれが、日記に書いてある通りのものだったのかは分からない。結果は無数に解釈できるけど」
『結城くんの口から、そんな言葉が出て来るなんて』
 ふふっ、と葉瑠がからかいを含んだ笑みを浮かべる。楽しげだ。

「だってむかしとは違って、いまは視えてしまっているわけだから」
 大人になるにつれて、現実を知り、人知をこえた不思議なものと寄り添うことはできなくなっていく、みんながみんな、そうではないだろう。ただ、多くはそうだ。僕の近くにいる一番の好例を挙げるなら、それはおそらく、姉だろう。

 視えないのは、いないのと同じなんだな、と思うようになってきて、と姉はそう言っていた。好奇心に満ちていたかつての瞳に、冷めたものが混じるように。ちょっと寂しくは感じるけれど、それは仕方のないことなのかもしれない。

 僕だって、いまの姉と同じような考えを持っていたのだから。

『小学生の時は、そんなこと言う子、馬鹿にしてたのに……。ほら、覚えてる? マキちゃんの、占いのこと』
「また、懐かしい話を。……いま聞いて、思い出した」
『六年生の時だったよね。占いで、予言ができる、って、女子たちで盛り上がってて』

 そんなこともあったなぁ。

 僕たちと同じクラスメートに、清水真希しみずまき、という女子生徒がいた。クラスでいつも注目を浴びるようなタイプの女の子ではなかった。いわゆるクラスカースト上位なんてふうにカテゴライズされるタイプの女の子でもなかった。ただ、周囲の気を惹きたがる、目立ちたがり屋の生徒であったことは間違いない。

 僕はその頃、大抵の同級生の女子を呼び捨てで呼んでいたけれど、彼女にだけは、さん、を付けていた。相手に対して優位性を取りたがる口調に対して、無意識のうちに、そうなってしまったのだ、と思う。

 その清水さんが、占いに凝っていた時期がある。

「女子たちは、よく一喜一憂してたね」
『女の子は、そういうものが好きなんだよ』
「女の子にだって色々いるでしょ。別にあんまり興味のない子だって、いたでしょ」
『まぁ、ね。そもそも、私があんまり興味なかったから。でも、ほら、ああいうことをしてる時のマキちゃんには、興味のある顔をしておかないと、あとで大変だから』

 将来、誰がどういうひとと付き合うのか。そんな未来を占うことができる、と清水さんの机に周りに女子が囲んでいる様子は、そのある一時期の見慣れた光景だった。

 同級生の〇〇くんと、将来付き合えるよ、なんて言われて喜んだり、〇〇くんへの告白はうまくいかないかも、なんて言われて泣いたり、と。清水さんの言葉に、ころころと表情を変える女子たちの姿を見ながら、そんなの気にしなくても、と思っていた記憶がある。ただ言ってしまうと、清水さんに何を言われるか怖かったから、口にはしなかった。

 葉瑠以外には。

「いまでも、清水さんの占いに関してはひとつも信じてないよ。あれはうわさ好きの清水さんが、女子たちの好きな男子を探って、それをうまく利用しただけだ、と思っている。だからあんなに具体的な名前が出たんだよ。もし本当に未来が分かるなら、僕たちの知らない未来の恋人の名前を挙げられるはずじゃないか。そんな身近なクラスメート同士だけじゃなくて」
『あの時も、同じこと言ってたね』
「そもそも、あの占いが当たっているなら、僕たちは付き合っていない、とおかしいわけだけど……」結局、僕たちは付き合わないままだった、と暗に添える。「そんなことなく、終わってしまった」

 私の未来の恋人は、結城くん、なんだって。

 困ったような表情で、僕を見るかつての彼女の顔がふとよみがえり、思わずどきりとしてしまった。その時も、さっきと似たような、占い自体を否定するような言葉を、僕は彼女に伝えた。もっと言い回しは幼かったけれど、内容はまったく一緒だ。

 葉瑠が不満そうな顔をする。

『まだ終わったわけじゃないよ。これから付き合う?』
「幽霊、と?」
『あっ、その言い方、ひどい』
「ごめんごめん」
『幽霊の私が言うのもなんだけど、幽霊に慣れすぎじゃない』
「まぁ、そりゃあ。慣れるさ……。話がだいぶ逸れたね。戻すよ。そう、ここが特殊な場所だったからこそ、トリガーのように、不可思議なものを引き寄せていたのかもしれない。だから僕たちは、ここであの時、未来を見た」
『こじつけ感が、すごいね』
「答えのないものに無理やり答えを出そうとしているんだから、どうしてもそうなるよ」
『ふぅん。……まぁ、でも実際そんなものかもしれないね』

 葉瑠がぼろぼろになった椅子に、腰を掛ける。手で、僕にも座るよう促すが、残念ながら僕はまだ、幽霊じゃない。こんな座った瞬間、壊れてしまいそうな椅子に体重を預けることはできない。

『さて……、そんな話なんて、本当はどうでもいいよ。大事なことは別にある。私にとっても、あなたにとっても』
「うん」
『なんで、戻ってきたの。私から、逃げたくせに』

 ここから思い出すのは、鈍色をした、これまでよりも、もっとあとの記憶だ。
 僕は彼女の顔を見ていて、窓の先にある景色なんてひとつも見ていなかった。だから音を聞いただけだ。強くなっていく、雨の音を。


9、失恋の後に、チェスを教えて。


 僕と葉瑠は違う中学校で、どこかで交差することもない日々を過ごした。だから彼女と僕の記憶をたどるうえで、あまり意味はないように思えるけれど、僕自身のその後を考えようとしたら、そこら中に重要なことが、ちらばっている。

「あなたは、たぶん私の先に、別の誰かを見ている」

 中学生の頃の記憶を振り返ろうとして、最初に浮かんだのは、そんな言葉だった。鮮明によみがえるのは、いつも苦い思い出ばかりだ。

 そう僕にほほ笑んだ日下亜美くさかあみとは、ほんのわずかだったけれど、恋人だった時期がある。違う小学校の出身で、だからはじめて見たのも、中学校に上がってからだった。誰とでも仲良く接する女性で、悪く捉えれば八方美人な性格とも言えるのかもしれないが、周囲と円滑にコミュニケーションを取る姿は、ちょっとした憧れだった。僕にはできないことだったからだ。

 はじめて亜美を認知したのは、当時のクラスメートの言葉だった。

「日下って、良いよなぁ」

 可愛いし、優しいし、とそんな気持ちを混ぜた遠い目をして、そのクラスメートが言ったのだ。小学校の時からは一転して、僕のいた中学はそれなりに生徒数の多い学校で、お互いに話すこともないまま卒業した同級生もめずらしくない。亜美のことも、クラスメートの口から聞かされるまでは、顔を知っているだけの生徒だった。失礼を承知で言うと、いわば女子生徒A、みたいな感じだったのだ。

 中学二年の時で、彼女は隣のクラスの生徒だった。

 これは自信を持って言えるのだけれど、亜美は男子から非常に人気があった。もともとの容姿もあったとは思うけれど、それ以上に、人当たりの良さが一番の理由だったはずだ。中学生くらいの年頃の、特に女子と縁のない男子は、勘違いしやすい。たとえば僕も、その中に含まれる。ちょっと優しくされただけで、あれっ、この子、俺のこと好きなんじゃ、と誤解してしまうのだ。もちろんみんながそう、というわけではないが、僕も含めて、そんなうぬぼれた男子をいままでいっぱい見てきたのだから、ある程度、真理はついている、と思う。

 ただ僕と亜美との最初のやり取りは、そんな勘違いなんて欠片も起きそうにないほど、最悪なものだった。

「なぁ、むかしからの仲だろ。頼むよ」
 と、彼から言われた時の怒りは、はっきりと覚えている。彼は小学校からの知り合いで、外見は体躯も大きく、端正な顔立ちをして、硬派な雰囲気に見えなくもないが、中身はひどく軽薄な男で、もともと特別嫌っていたわけではないが、好きにもなれない相手だった。

 ただこの言葉を聞いた時には、はっきり、と彼のことを、嫌いだ、と思った。
 今村はサッカー部に所属していて、女子からの人気も高かった。

 呼び出されたんだ。たぶん、告白されると思う。今村は日常の一コマについて語るように、何気ない口調だった。

 俺の代わりに断って欲しい、と彼は言った。

「自分で、行きなよ。そんなの」
「だって、何、言われるか、分かったもんじゃないだろ」
「正直に言えばいいだろ。彼女がいる、って。ちゃんとした理由があるんだから、問題ないだろ」
「いや……実は、さ。前に、彼女いるか、って日下に聞かれた時、さ。つい嘘ついちゃったんだ。あんな嬉しそうにしていた顔が崩れていくなんて、俺には耐えられないよ」

 今村はむかしから、物事を自分の都合の良いように考えてしまうところがあった。彼は、その言葉が優しさからくるものだ、と心の底から思っているのだ。そもそも自分の嘘が原因だ、という意識が稀薄なのだろう。

「頼む」
 彼の性格は知っている。断り続ければ、自分が頼んでいる側ということも忘れて、怒り出すのだ。そしてより面倒なことになる。

 僕は心の中でひとつため息をついて、
「分かったよ」
 と言った。

 なぜ僕に頼んだのか、というと、頼み込めば折れる相手だ、と彼も僕の性格を知っているのだ。お互いに相手の性格を知っているから、嫌でもこういう形になってしまうのだ。彼女も、こんな不誠実なやつを好きになった私が馬鹿だった、と自分自身の想いを捨てやすいかもしれない、と心の中で言い聞かせる僕に、話し終える直前、
「結城って、日下と話したことないから、何言われても平気だろ」
 と言ってきた時には、顔面を殴ってやりたいような気持ちになってしまった。まぁ暴力とは無縁に生きてきた僕に、そんなこと、できるはずもないのだが……。

 放課後、僕が向かったのは、彼女のいるクラスだ。
 教室には、彼女ひとりだった。そうなるように、彼女は準備していたのだろう。

「あれっ、確かチェス同好会のひと、だよね?」
 そもそも彼女としっかり顔を合わせるのさえはじめてだった僕は、どういうふうに話しかけるか、迷っていた。まず自己紹介をするのか、それとも単刀直入に事実だけを伝えて、すぐにその場から離れればいいのか。

 だけど彼女からの意外な言葉に混乱してしまって、事前のイメージトレーニングは狂ってしまった。

「そうだけど、なんで知ってるの?」
「私、真希と、仲、良いから」
「そうか、清水さん、と」

 清水さんとは、小学校から中学校まで同じで、部活も一緒だった。チェス同好会で……、という意味ではない。僕たちは将棋部で、その部の中に、非公式のチェス同好会があったのだ。だから僕は将棋部の幽霊部員で、チェス同好会の会員だったことになる。なんともおかしな感じだけれど、事実としてそうなのだから、仕方ない。どこかの部には絶対に所属しないといけないから、将棋部にいたのだが、興味のベクトルはチェスに向いていた。

 僕とあと数人の将棋部員でつくられたのが、チェス同好会で、存在さえも知らない生徒は多く、そんな相手からすれば、僕は将棋部でしかない。
 だから余計に、驚いたのだ。
 もし将棋部、と言われていたなら、そこまでびっくりすることもなかったはずだ。

「私、ひとを待ってるんだ。だから、ごめんね」
「あぁ、そのことなんだけど……」
「うん?」
 と、彼女がほほ笑んだまま、小首を傾げた。

 あんな嬉しそうにしていた顔が崩れていくなんて、俺には耐えられない。そんなふうに今村は言っていて、その言葉はいま考えても、本当に失礼だと思うが、すこしだけ分かる気がした。彼女の笑顔には、思わず見惚れてしまうような魅力があるからだ。一瞬、僕も、彼が来れなくなった、と嘘をついてしまおうか、という気持ちが萌した。

 だけど、真実を知った時にどうなるか、と考えると、そんなことはできなかった。

「実は――」
 僕の話を、彼女は静かに聞いていた。

 彼女は、変なことを言うな、と怒りもしなかったし、冗談でしょ、と笑いもしなかったし、ひどい、と泣くこともなかった。表情の変化は薄かった。だけど何も感じていないわけではない、くらいは分かっている。僕だって、そこまでは鈍感ではない。こんないきなり現れた変なメッセンジャーに感情の揺れ動きを悟られないように、とそんな精一杯の強がりだ。僕は彼女から眼を逸らすことができなかった。

「卑怯なやつだ。自分で、言いに来いよ」
 彼女が、ぽつり、と言った。

「僕も、そう思う」
「なのに、その頼みを引き受けるわけだ。いじめられてるの?」
「いや、そんなわけじゃないけど……」
 ただ人間関係のパワーバランスにおいて、僕が圧倒的に弱い立場なのは間違いない。

「断りなよ。あいつは卑怯なやつで、あなたは弱いやつだ。ひとの頼みを断れないのは、優しい人間じゃなくて、主体性がないだけ」

 その言葉にはかすかな自嘲が込められていた。彼女は陰で、八方美人、と呼ばれることもあったから、僕の行動に、自身の性格を重ね合わせて見ていたのかもしれない。だからこそ余計に、不快に感じていたのだろう。

「ごめん」
「怒る相手がいないね。ねぇ、代わりにあなたに怒りをぶつけたい、って言ったら、理不尽だって思う?」
「いや、すくなくとも日下には、何も思わないよ。……だから、いいよ」
「いいの? 私の、ビンタ、本当に痛いよ」

 そう言われると、緊張してくるのも事実だった。

「大丈――」

 僕の言葉が終わらないうちに、彼女の手のひらが飛んできて、
 それは、ひとつも痛くなかった。

「ありがとう。その表情を見ただけで、ちょっとすっきりした」
 と亜美がほほ笑んだ。

 一雫の涙が、彼女のほおをつたっていく。

 これが僕と亜美の出会いだった。そしてこの時はまだ、今後関わることもないだろう、と思っていたのだけれど、数日後、学校から帰ろうとしていた僕は、彼女から呼び止められた。亜美は眼鏡を掛け、そして髪を切っていた。失恋のために何かを変えようと思ったのか、あるいはまったく別の理由だったのか、それはまったく分からない。僕はそのことに触れなかったからだ。いや、聞きたかった気持ちもあるのは事実で、

「その髪……?」
 とは言ってみたのだけど、
「まぁいいでしょ、そんなことは」と、さえぎられてしまったのだ。「ちょっと、ふたりで話せないかな?」
 そして僕たちが向かったのは、将棋部の部室として使われている和室で、きょうは将棋部が休みの日なので、そこには誰もいなかった。

「じゃあ、そこ、座って」
 畳のうえに長机が置いてあって、僕たちは隣り合って座る。
「へぇ、はじめて入った」
 亜美は辺りを、はじめて入る好奇心からか、きょろきょろと周りを見回していた。

「普通の和室だよ」
「……そうなんだけど。普段、来ないから……。あぁごめんね。本題を言わないと、落ち着かないよね」
「まぁ、うん」
「実は、今村くんにも、ビンタしたんだ。……もちろん、あなたとは違う、本当に痛い一発を、ね」

 亜美が、ビンタのジェスチャーをする。それを見ながら、僕はなんで彼女がそんなことを言うのかを考えていた。もちろん彼女が、今村を叩いたことに文句があるわけじゃない。自業自得という言葉はあまり好きじゃないけれど、彼はひどい仕打ちをしたのだから。問題はなぜ僕に言うか、だ。今回の件に関わった僕への報告だろうか。

 彼女は、僕の気持ちを察したみたいだ。

「一応、あなたには言っておこうかな、と思って。……あと」
「あと?」
「チェスを教えて欲しいな、って」
「チェス?」

 意外な言葉に、思わず僕は、馬鹿みたいな声を出してしまった。

「いや、最悪なこともあったけど、せめてこれをきっかけに、何か良いことでもあったらいいなぁ、って気がしてね。こうやって縁もできたわけだし。嫌?」

 そしてチェス同好会に、新たな会員がひとり増えた。と言っても、将棋部に入るのは、別の部に入っているので無理だ、ということで、彼女の所属するバレー部が休みの日だけ、遊びに来る感じだ。将棋部の男女の割り合いは同じくらいだ。その将棋部の中でできあがるチェス同好会も僕と、男子と女子、それぞれひとりずつの、三人の構成だったので、どちらかの性別だから、といって肩身が狭くなるような環境ではなかった。彼女も居心地良さそうに過ごしていた。

 僕が亜美と、いわゆる恋人、と言われる関係になるのは、もうすこし先のことだ。でも、僕たちを、恋人、と呼んでしまうことに、すくなくとも僕は、ためらいを感じてしまっている。


10、チェス盤を挟んで、交わした言葉は。


「ねぇ、結城くん、って、亜美と付き合ってるの?」
「どういうこと?」
「いや言葉通りの意味だけど、で、どうなの?」

 そう聞いてきたのは、清水さん、だった。チェスがしたい、という理由で、いきなりチェス同好会に入ってきた友人の姿を見ながら、清水さんは僕との関係をずっと疑っていたみたいだ。確かにチェスのルールも知らず、それまで興味の欠片もなかったひとが、唐突にチェスをやりたい、と同好会に入ろうとしてきたら、何かチェス以外に特別な理由があるのでは、と考えるのは、自然なことかもしれない。

 亜美がチェス同好会に入ってから、十ヶ月近い月日が流れていて、亜美のチェスの実力は僕とそんなに変わらないようになっていた。最初の頃は、騎士ナイトの動きに納得いかなかったのか、なんで騎士の癖に、まっすぐ進めないんだ、と文句を言っていたくらいなのに。

「いや、そういうんじゃないよ……」
「またまた。いいよ、隠さなくて」
「隠してるわけじゃなくて、事実なんだけど」
「えぇ」と、清水さんは明らかに、納得していない、という表情を浮かべていた。「言っていることが、ふたりで違ってるよ」
「何のこと?」
「亜美に聞いたら、はっきりと言ってたよ。付き合ってる、って」

 誤解がないように言っておくけれど、この時点で、僕が亜美と付き合っている意識はなかったし、清水さんの言葉には、本当に驚いていた。確かにその頃の僕と亜美は、よく一緒に行動することが多かったし、清水さん以外にも、僕たちの関係が疑われているのは、察していた。だけどどちらかが相手に告白をして、僕たちが明確に恋人の形になった、という事実はない。

 清水さんのそれ以降の言葉は、まったく頭に入ってこなかった。

「どうしたの、そんな難しい顔して」
「亜美、清水さんから聞いたんだけど……」
 僕は彼女のことを、出会ってすこし経った頃から、下の名前で呼んでいた。それが周りの勘違いに拍車をかけていた、ということは、たぶんない、と思う。彼女は男女関係なく、将棋部全員に、亜美って呼んで、と言っていたからだ。バレー部では全員下の名前で呼び合うらしく、部活動での人間関係はそういうもの、という固定観念が、亜美にはあったようだ。最初は、気恥ずかしくて、あえて名前を呼ばないようにしていたのだけれど、まぁそれなりに時間が経つ、と慣れてしまうものだ。

「真希がどうしたの?」
 三年になると、僕たちは同じクラスになり、部活動以外でも、一緒にいる時間は自然と増えた。その日、亜美の所属するバレー部は休みで、ふたりで和室へと向かっていた。途中の廊下で、僕は聞くことにした。ちょうど誰の姿もなかったからだ。

「……あぁ、えっと」

 僕たち、付き合ってるの……?

 聞こうとして、自分は何を聞こうとしてるんだ、と強烈に羞恥心が襲ってきたのを覚えている。

「もしかして、付き合っているとか、付き合っていないとか、そんな話?」
 僕の内心を察したのか、ちいさく亜美が笑った。

「清水さんが言ってたんだ。亜美と僕が付き合ってる、って」
「ちなみに、結城はどう思ってるの?」
 亜美も、最初の頃、よく僕を下の名前で呼んでいたが、それがどうにも馴染めず、名字呼びにして欲しい、とお願いしたのだ。えぇ、と不満そうだったけれど、それ以降は、ずっと僕を、結城、と呼んでいる。

「だって、違う、だろ」
「私のこと、嫌い?」
「そんなことはないけど……」
「私も別に、結城のこと嫌いじゃないし。お互いが相手を憎からず思っていて、よく一緒にいるのなら、正式な言葉がなくても、それは恋人同士でいいんじゃないかな」

 そんな彼女の気軽な口調とともに、僕たちは恋人関係になった。

 ただ、いまになって考えるなら、気軽さを装っていただけなのかもしれない。そんなふうに考えてしまうこともある。僕たちの出会い自体があんな歪なものだったから、どこかためらいもあり、はっきりした言葉にすることを嫌った。当時の彼女の本心を知っているのは彼女自身だけで、いまの僕にはもう、想像することしかできないのだが。

 別に僕たちが恋人になったことを言い回ることもなく、たまにふたりでどこかに出掛けたり、と学校の外で会うことは多少増えたが、学校内での僕たちはあまり変わらないままだった。

 一度、ふたりで本屋に行ったことがある。商店街にある、いかにもちいさな町の、というたたずまいの本屋だ。

 亜美が当時読んでいた恋愛漫画の新刊を購入して、その帰る途中だった。タイトルさえも僕は聞いたことがなかったのだけれど、あの文芸書中心の、田舎町の寂れた本屋に置かれていたくらいだから、かなり人気の漫画だったのだ、とは思う。帰路を歩く道すがら、僕は亜美から、漫画の内容について教えてもらっていた。

 初恋と三角関係をめぐる、高校生たちの物語で、主人公の男の子と女の子は小学校からの知り合いで、お互いに初恋の相手。そんな内容だそうだ。

「初恋の相手と高校で、再会するんだけど、そのふたりを邪魔するように、恋敵の男の子がいるんだ。こう……なんて言うのかな、恋敵が分かりやすい悪人だったら、こっちも素直に応援できるんだけど、これがまた良いやつ、なんだ。……でも、初恋のひとと高校で再会って、夢があって良いよね」
「そうだね……」

 歩道橋のちょうど中間あたりに来たところで、亜美が立ち止まった。周りに僕たち以外は誰もいない。事故防止用の防護柵に手を置いて、僕を見る。

 彼女が、ひとつちいさく、息を吐く。

「ねぇ、私といて、楽しい?」
「楽しいよ」

 最近これだけ一緒にいるのに、なんでいまさら、と思った。

「そっか……。いや、ごめん、いまの忘れて」そして彼女が話を切り替えるように、言った。「そう言えば、結城は初恋のひと、っているの?」
「えっ」

 僕は、すぐに答えられるはずだった。亜美だよ、と。
 恋心、というものを、僕はそれまで明確に意識したことがなかったわけだから。だけど僕は言葉に詰まってしまった。彼女の背後に、僕は幻を見てしまったのだ。もちろんいまみたいな幽霊になっているとか、そんな話ではなく、本当にただの想像上の葉瑠が、僕の視線の先にいて、そしてすぐに消えてしまった。

「その反応は、私じゃない、ってことだ」
「あ、いや」
「ううん。ごめん。怒っているわけじゃないんだ。ただ、ちょっと、そうだったらいいなぁ、って思ってね。私だって、そもそも初恋は全然違うひとなのに、ね。本当に都合のいい話だ」

 僕が葉瑠の幻を見たように、亜美も僕の背後に誰かを見ていたりしたのだろうか。彼女は自分自身を、都合のいい、と評したけれど、同じく僕も都合のいい人間だ、と思った。僕だって葉瑠を思い浮かべながら、亜美が別の誰かについて考えている可能性を想像して、嫉妬のような感情を抱いているのだから。

 たとえば、今村だったら嫌だな、とかそんなふうに。
 失恋によって亜美が深く傷ついたあの一件が終わって二、三ヶ月経った頃に、亜美が今村と仲直りしたことを知っている。亜美から直接聞いたわけじゃない。たぶん亜美は、僕とその話題になることを避けていたのだ、と思う。クラスメートの男子が、言っていたのだ。

 今村と日下って付き合ってるのかなぁ? この間、仲良さそうに話してたけど……。

 その時は半信半疑だったのだけれど、僕自身も別の場所で、ふたりが一緒にいるのを見たことがあった。本当に仲直りしたんだ、とびっくりした覚えがある。僕がまだ亜美と付き合う前の話だったので、ふたりの関係にとやかく言うことはできない、と思いながらも、あんなひどい仕打ちをした今村に、ともやもやとした感情を抱いていたのも、事実だ。

「そんなことないよ。たぶん、初恋は亜美だよ。ちいさい頃の感情、って曖昧だから、ちょっと悩んだだけで」
「そっか……。嬉しい」
 その言葉はあまり嬉しそうではなかった。

 亜美が僕の言葉を、どう解釈したのかは分からない。僕が言ったのは事実だ。嘘をついたわけではない。なのに、僕自身が、自分の言葉を信用できなくなっていた。一度浮かんでしまうと、葉瑠の顔が、頭から離れなくなってしまった。忘れていたわけではない。だけど記憶から薄れつつあった、今後会うことがあるかどうかも分からない相手のことが、気になって気になって仕方なくなってしまう。

 どこかにしっかりと線を引けるほど、明らかなものではない。だけど僕たちの間に、距離ができるきっかけとなったのは、たぶんこの日だ。

 そして亜美のバレー部の引退や、僕たちの高校受験のこと、状況の変化も重なり、距離は、ゆるやかに、確かに開いていった。

「ねぇ、チェスしようよ。勝ったほうが、負けたほうの言うことを聞く。賭けチェス」
 もうすぐ卒業、という時期になって、僕は受験勉強のために、学校に残っていた時だ。亜美が、僕にそんなことを言った。

 その教室は残って勉強をしたい学生たちのための自習室として学校が用意してくれている場所で、普段から多くの生徒が使っているわけではないけれど、それでも僕ひとりだけしかいない、という状況はめずらしかった。

 あまり集中できず、数学の参考書を眺めていた僕は肩を叩かれ、驚いて振り返ると、そこに亜美が立っていたのだ。

「……びっくりした」
「やっぱり、ここにいたんだ。最近よく、ここにいるよね」
「家じゃ、どうも集中できなくて」

 言いながら、内心では、別にここにいても全然集中できていなかったけど……、とつぶやいていた。ただ勉強している中で、家族の声が耳に入ると、より内容が頭に入ってこない、というのは、あったように思う。思春期だったから、で済ませてしまうのは、あまりに雑な感じがしなくもないけれど、ちいさなことで家族に対していらいらしてしまう時期だったのだ。

「ふぅん。高校受験、だもんね、もうすぐ。どこの高校を受けるか決めた?」
 彼女は、まるで自分は違う、という他人事みたいな口振りだった。実際、亜美はそこまで受験に対してナーバスにはなっていなかったはずだ。

 亜美はもうどこの高校を受験するか決めていて、その学校は亜美の成績からすれば、絶対、と付けていいほど、落ちようのない場所だった。なんでそこにしたのか、と聞くと、バレー部の憧れの先輩がいる学校で、また一緒にやりたいから、だそうだ。交通の便もよく通いやすいのも、決めた理由のひとつだ、とも言っていた。

「いや、全然。特に行きたい学校とか、ないから」
「私と同じところでいいんじゃない?」
「もちろんそれもひとつの選択肢だけど……」
「まぁ特別な理由がないなら、もっと上の進学校目指したほうがいい、と思うけど、ね。ねぇ、ちょっと息抜きがてら、私と――」そして、亜美はさっきの言葉を僕に言ったのだ。「チェス、しようよ。勝ったほうが、負けたほうの言うことを聞く。賭けチェス。とてもとても健全な、賭け事」

 僕と机を挟んで、対面するように彼女が座る。
 チェスの盤を置き、僕たちは黒と白に色を成した駒を並べていく。なんか白と黒、っていうのがいいよね。はじめて盤上に並ぶ駒を見た彼女は、そう言って、笑っていた。白黒、勝負を付けましょう、って感じで。そんなふうに、続けて。

 駒を並べる彼女の目に、僕は決意の色を見た。ただ何の決意だったのか、その時点ではまだ、分からずにいた。
 でも……、
 亜美とチェスをするのはこれで最後になるんだろうな、という予感だけはすでにあった。

「ビショップ、ナイト、ポーン、クイーン……、最初は名前も覚えられなかったのに、いまになるともう、忘れるほうが難しくなってる。それまで日常になかったものが日常になる、って不思議だね。あることがもう、当たり前になってる」

 対局がはじまった。
 僕と亜美は互いに駒を動かしていく。
 彼女の実力はもう僕とあまり変わらないが、それでもまだすこしだけ僕のほうが上だった。

「ねぇ、変なこと聞いていい?」
「精神攻撃?」
「負けたくないからね。まぁ別に答えたくなかったら、答えなくていいよ」
「そっか。で、何?」
「好きな子、いる?」
「それ、彼氏に聞く質問?」

 僕のナイトが、ルークを刺したものの、すぐに彼女にクイーンに取られてしまった。優勢なのは僕だけれど、いつでもひっくり返されそうな雰囲気がある。

「彼氏が相手だからこそ、聞く質問」
「いるよ」
「私?」
「うん」
「たぶん、それは嘘だ、と思う。……ううん。ごめん。言い方が悪かったかもしれない。嘘、じゃないね。結城は間違いなく、私のこと、好きだ、と思う。彼女なんだから、このくらいのうぬぼれは許して、ね。でも、違うんだ。そういうことじゃない」

 彼女のクイーンが盤上を駆け回り、いつしか僕のキングを追い詰めている。

「違う?」
「あなたは、たぶん私の先に、別の誰かを見ている」
「誰か……、そんなの、いないよ」
 この言葉が嘘なのか真実なのか、自分でもよく分からなかった。

「私は、それが誰なのか、まったく分からない。もしかしたら私の勝手な想像に過ぎなくて、全然そんなひといないのかもしれない。でも一度気になると、もう駄目だった。怖くて、不安になって、あなたの前で素直に笑えなくなった」
「それは、気のせいだよ」
 力強い声が出ることを願いながら、僕の口から出た言葉はとても弱々しかった。その間も、対局は止まることなく、進んでいく。
「うん。そう、かもしれない」

「……負け、だね。僕の」

 盤上では、キングが、クイーンとナイトに挟まれ、僕と同じように逃げ場所をうしなっていた。

「じゃあ、私の願い事、言うね。嫌だったら、断ってね。本当に」
「分かった」

 ほおをつたっていく、その一雫の涙を見たのは、はじめて言葉を交わした、あの時以来だ。
 僕たちは正式な言葉とともに恋人同士になったわけではない。だから終わる時が来るとしたら、自然に消滅するような形になるんじゃないか、と心のどこかで思っていた。でもこんなはじまりだったからこそ、彼女はそんな終わりをよしとしなかったのかもしれない。

「私と、別れてください」
 と亜美が言って、僕たちの短い恋人関係は終わりを告げた。


11、会わなかった日々をたどって、再会の未来が近付く。


『いま、何を思い出してたの?』

 その言葉とともに我に返って、目の前の葉瑠へと意識が戻る。
 僕がぼんやりと思い出していたのは、亜美のことだった。だけどそれを口に出すのは、葉瑠に対してとても失礼な気がして僕は、いや中学の頃をちょっと、と言葉を濁した。

『ふぅん、なんで、私が目の前にいるのに、私と会わなかった時期のことを思い出してたのかな』
 僕が何かを隠している、と察したのか、葉瑠がどこか、からかうようなまなざしを僕に向けていた。

「さぁ。なんでだろうね」素知らぬ表情を意識する。「中学校の時って、こう。いま思い返すと、特別だったんだなぁ、って思ってさ」
『思春期なんだから、誰にとっても、特別だよ』
「そうとは限らない。人生のうちのどこを大事にするか、なんて、ひとそれぞれだよ。でもそういう言い方をする、ってことは、葉瑠にとっても、特別な時期だったわけだ」

 僕は、葉瑠の中学時代のことを、ほとんど知らない。高校になって、一緒にいた期間の中で、すこしは聞いた。でもそれは頭の片隅に運良く残った程度の、他愛もないものばかりだ。

 うーん、と困ったように、葉瑠が首を傾げる。

 僕たちは鰐川家の幽霊屋敷の、リビングから寝室へと移動していた。ふたつベッドが置かれた夫婦の寝室だ。おそらく数子さん夫妻が使っていたもので、その片方のベッドに僕たちはふたり並んで、腰をかけていた。

 ベッドの横のサイドテーブルに、ハンドライトを置き、暗がりで頼りになる光はそれと、僕がいま片手に持っているスマホくらいだった。

『特別だったかもしれない、ね。例えば、私が小説を読みはじめたのも、中学の時だったな。このお屋敷の夫婦も、そうみたいだね』そう言いながら、葉瑠は寝室の壁側に大きく陣取る、本棚に目を向けていた。『赤川次郎、小池真理子、乃南アサ、宮部みゆき……。心理サスペンスとか、ミステリが好きだったみたいだね。どっちの趣味だったんだろう。勝手に数子さんの趣味、って決め付けるのは、偏見に過ぎるかな』
「どうだろう。ただまぁ数子さんは日記を付けていたくらいのひとで、内容も……まぁ、後半はかなり雑で、歪だったけど、基本的には丁寧だったから、読んだり、書いたりは好きだったんじゃないかな。……それにしても、こんな暗い中で、よく背表紙のちいさい文字まで読めるね」
『私、もう人間じゃないから。暗くても、はっきりと見えるんだ。なんで、なんて理屈は聞かないでね。私だって分からないんだから』

 僕は立ち上がると、スマホの明かりで、棚に納められた本を確認する。先ほど、葉瑠の言った作者の他にも、東野圭吾や岡嶋二人、仁木悦子、筒井康隆といった名前もあった。当然、ある時期よりも前の作品ばかりが並んでいる。つまりそれ以降は、所有者の不在によって更新されることがなくなってしまった本棚、とも言える。

「繰り返し読んだのが分かるくらい、しっかりと読みあとが付いているね」
『本そのものよりも、内容を読むことを重視してたタイプだったのかもしれないね。私もそうだから、なんかすごい共感する』
「確かに、むかし葉瑠が貸してくれた本、結構汚れてたね」
『失礼な。そういうのは事実だとしても、言ってはいけません』
「別に悪いことだ、って意味で言ったわけじゃないよ」
『仮にそうだとしても、やっぱりそれは恥ずかしい。……数子さん、ってひとは、どんな生き方をして、巻き込まれたのは、どんな事件だったんだろう。同じ小説好きだから、親近感を覚えちゃってるのかもしれないけど、余計、気になっちゃうね』
「会ったこと、ないの?」
『数子さん、と? それは同じ幽霊同士だから、って意味? 残念ながら、いまのところは、まだ一度も会ったことないよ。まず私たちは勝手に、死んだ、って決め付けちゃってるけど、生きているのかもしれないし、あと何よりも言っておきたいのは、私は死んでから一度も、自分以外の死者を見たことがない』
「城阪、とも?」

 僕は、僕たちの高校時代の同級生の名前を挙げる。彼女がちいさく息を吐く。

『私も伊藤くんと結城くんが電車の中で話しているのを聞いて、はじめて知ったんだ。本当にびっくりした。事故って、どんな事故だったんだろう、康史くん……』
 康史くんか……。葉瑠は城阪のことを下の名前で呼んでいた。そう呼ぶのは自然なことだ。だってふたりは付き合っていたのだから。あの頃から知っていたことなのに、いまここにふたりしかいない状況で聞くと、ちりり、とかすかに胸が痛むような感覚があった。

「あの電車に乗っていた時、実は城阪の姿も見たんだ」
『それは、私と同じ?』
「そう、幽霊の、ね」

『何か言ってた? 私のこと、とか』
 すこし心配そうな表情を、葉瑠が浮かべた。

「声は、何も聞いてないよ」
『たぶん私なんかよりも、結城くんのほうがずっと見ていると思うよ。幽霊の姿を。本当は、数子さんの霊も結城くんには見えているんじゃないか、って疑いたくなる』
「それは本当に見てない。僕に見ることができるのは、実際に関わったひとだけみたいだから」
『そう、なんだ。まぁ死んだひと全部見れたら、日本中がひとで溢れかえってるか。そうなったら、もう生きている人間と死んでいる人間の区別も付かなくなるね』

 いまの時点でも、こうやって話していると、葉瑠はまだ生きているのではないか、と勘違いしてしまいそうになる瞬間がある。だけど誰もが僕と同じように、彼女を認識できない以上、生者のように扱ってしまうのは、傷付ける結果になるだろう。

 葉瑠が、本の背表紙を指でなでる。

『康史くんと話してなかったよね、電車で』
「城阪も気付いてなかったみたいだし、僕も何を話せばいいか分からなかったからね」あぁそう言えば、と僕はすこし強引に話を変えようとした。城阪の話を彼女とすると、どうしても息苦しくなる。勝手な話なのは、分かっているけれど。「さっきの話に戻りたいんだけど、中学の時、小説を好きになった理由、って?」
『私、ね。憧れのひとがいたんだ。中学の時に』

 その表情は、ほんのすこし寂し気に見えた。

「憧れ……」
『うん、まぁ、初恋、みたいなものかな』
「それは男子? それとも女子?」

 僕がそんな聞き方をしてしまったのは、僕の中にある、ちっぽけなプライドが原因だろう。僕だって、中学の時、付き合っている女の子がいたのに。そんな自分のことは棚に上げて、彼女にそういう相手がいるのは嫌なのだ。はっきりと言ってしまえば、くだらない嫉妬なわけだけど、城阪に対してよりも、そんな感情がストレートにわき上がってくるのは、彼のことはすでに知っている、という関係性によるものだろう。

『どっちも外れ』
 くすり、と葉瑠が笑う。

「外れ?」
『男の子にしろ、女の子にしろ、なんで、子ども、って決め付けるのかな。残念ながら、私があの頃憧れていたのは、もっと上の年齢……まぁぶっちゃけて言うと、先生だよ。国語教師だった、担任の先生』
「それが、初恋?」
『当時は、恋、だって思ってたけど、いまになって考えてみると、もしかしたら恋じゃなかったのかもしれないね。漠然とした、大人への憧れ、だったのかもしれない。実際、告白さえできなかったからね。……もし告白したとしても、断られてた、と思うけど。あのひとは、そのへんの倫理観はしっかりしてたと思うし、その想いを受け取るようなひとだったとしたら、私はたぶんあのひとに憧れなかった気がする。そういう憧れ、って、きみにはなかった?』
「あったような、なかったような……」

 振り返って、考えてみた時、いくつか浮かぶ顔はあった。先輩や教師、そんな年上の綺麗な異性に見惚れたことは何度かある。ただ恋心とはすこし違うような気もするし、彼女の言うところの、憧れ、とも微妙にニュアンスは異なるように思う。

『曖昧だね』と、葉瑠は楽しそうに、言った。僕と、というより、誰かと久し振りに話せるのが嬉しくてたまらないような感じだ。『まぁとにかく、そんな憧れを、私は中学校の先生に持ってたんだ。で、その近付きたい一心で、先生の趣味を真似るように小説を読みはじめた。先生に、お薦めの小説を聞いたりして』
「国語教師だから、小説が好き、というのは自然な感じがするね。その先生も嬉しかったんじゃないかな。自分きっかけで小説を好きになろうとしている生徒がいたら」
『うん。すごく嬉しそうに、色んな小説を教えてくれたよ。まず読みはじめたのが、先生の好きな小説。先生、地元のちいさな出版社からSF小説を出したことがあるくらい、SFが好きだったんだ。一番好きな小説を教えて欲しい、って言ったら、迷わずアンナ・カヴァンの『氷』って言ってた、っけ』
「その小説は覚えてるよ。確か高校の時、僕に貸してくれた……」
『そう、断念した、って言ってたよね。返してくれた時』
「分かった振りしようかな、とも思ったけど……」

 あの時、僕は彼女に嘘でもいいから感想を返そうと、通販サイトに書かれた書評や感想を色々調べた記憶がある。でも途中で、やめてしまった。嘘がばれた時の、葉瑠の反応が怖かったからだ。正直に、断念した、と言った僕を見ながら、やっぱり、と彼女は笑っていた。

『結城くんと同じ。私も、はじめて読んだ時、何が面白いのか、さっぱり分からなかったんだ。でも、さ。私は、先生の印象に残りたかったから、結城くんと逆で、分かった振りをしちゃったんだ。文学、ってこんなすごいことができるんですね、って、知ったようなこと言っちゃって。そしたら、先生、笑ったんだ』
「笑う?」
『もちろん、浅はかな女子中学生をあざ笑ったとか、そんな話じゃないよ。別に気にしなくて正直な意見を言えばいいよ、ってね。そんなふうに、笑ったんだ』
「良い、先生だね」
『うーん。どうなんだろう……。私は憧れていたけど、みんなから好かれている感じの先生じゃなかった気もするな。のほほんとしたところもあったし、生徒に親身なタイプって感じでもなかったから。好きなことをただひたすら突きつめていく、求道者みたいなひとだった』
「求道者か……」

『誰かが好きだから、きみまで同じように好きでいる必要はない。好きなものを、好きなように、好きなタイミングで読んで、楽しむ、それが小説の魅力だって僕は思うんだ。まぁ僕の場合はすこし仕事になってしまっているところもあるから、なかなかこれを実践するのが難しいな、と思う時があるんだけど、ね。でもきみは誰かから、強制されているわけじゃないんだから』

「葉瑠……?」
『……、って先生が言ったんだ。この言葉、私の人生で』まぁそんなに長い人生じゃなかったけど、と添えながら、葉瑠が続ける。『ずっと大切にしてた言葉なんだ。先生への告白を諦めてからも、この言葉は心に残り続けてた。先生への想いがどうだとか関係なく、小説と関わり続けようと思ったのは、間違いなくあの言葉があったからだよ』

 ねぇ、結城くん、って文芸部に興味ない?
 高校で葉瑠に再会して、すこし経った頃のことだ。彼女は、僕にそう言った。

 高校時代のことは、あまり思い出したくない。

 悪い想い出ばかりではない。良かったことだって、もちろんある。だけど城阪と、そして葉瑠との暗い記憶が、僕の心に深い影を落とす。

 でもこうやって葉瑠と再会してしまった以上、その記憶を無視し続けることはできない。
 彼女が目の前にいるせいで、記憶はどこまでも明瞭になっていく。

 かつて再会した春も、雨が降っていて、
「春に長く降る、こういう雨を、春霖、って呼ぶんだよ。雨、って普通は……、すこし哀しい感じがするものだけど、春の、特に小雨が長く続くような雨は、どこか明るい感じがして、好きなんだ。まぁ哀しい感じ、って、私が勝手にそう思ってるだけ、なんだけどね」
 と葉瑠が、僕の隣で、つぶやいたのだ。

 時間としては短く、だけど体感としてはどこまでも長く思える回想は、ようやく高校時代へ、とたどり着く。ようやく、という表現はどこか待ちわびている色合いもあるけれど、正直なところ、いますぐにでも忘れてしまいたい記憶だ。

 葉瑠は、そんなことを絶対に許してくれないだろうけど……。


第2部 雨と、僕たちの終わり

12、新たな人生の中で、懐かしい彼女が。


そのくせ、私は幽霊がないよりはあったほうがいいと思っている。理由は簡単だ。幽霊が存在しないよりは、存在したほうが世の中がたのしいからである。――――「恐怖の窓」遠藤周作

 新しい同級生たちの中に、知っている顔はひとつもなかった。それは自ら望んでいたことで、想像通りだったにも関わらず、実際にその状況に置かれた時に萌したのは、寂しさだ。全員が全員、初対面からのスタートだったなら、また違っていたのかもしれないけれど、すでに顔見知りの生徒たちの間で、いくつかのグループができている。どれだけ願っていたとしても、生まれ変わらない限り、まったく一からのスタートなんてないのだ、と、高校の入学式を終えて、改めて実感してしまった。

 人生を最初からやり直す、なんて夢物語だよ。
 そう言ったのは、姉だ。

 僕が受験する高校を選んだ際、誰よりも反対したのは、姉だった。両親よりも、僕に対する言葉は辛辣で、姉ならこういう考えを応援してくれるに決まっている、と思っていた僕は、落ち込むよりも前に、驚いてしまった。

 その当時、姉は高校三年生で、進路のことや、あるいは付き合っている恋人との破綻しかけた関係に苦しんでいた。あとから知ることで、この時から知っていたわけではない。ただ漠然と、なんとなく生きている感じのする僕が、許せなかったのかもしれない。

「なんで、そんな高校を選んだの?」
 と、姉は僕に聞いた。
「知っているひとが全然いない場所で、新しい人生を、って思って」

 言いながら、中身のないハリボテのような、とても空虚な言葉だと思った。姉の言葉にとっさに返しただけで、そのあとにこの考えも悪くないかな、なんて思っていたのだから。

 言葉が、心に馴染んでないのだ。

「人生を最初からやり直す、なんて夢物語だよ」
 そして姉は、話の終わりに諦めたような口調で、そう言った。

 姉の言葉通りになった、とは思いたくない。だけど、どこを歩もうとも、結局それまでとそれ以降を切り離すことなんてできない、と僕は入学初日から感じていた。

 僕の通っていた巽高校は、僕の住む地域から遠く離れた田舎町に広大な敷地を持つ、生徒数八百人程度の私立高校だ。特別偏差値の高い学校ではなく、ただスポーツには全般的に力を入れていて、運動部を理由に選ぶのであれば、魅力的な学校だった。それ以外の生徒は、大抵公立の進学校の滑り止め、という場合が多い。ただその滑り止めにしても、僕の地域の生徒だったら、基本的には別の、近所の高校がほとんどで、巽高校を選ぶ生徒なんてほとんどいない。

 なんで、と姉から聞かれた僕の答えが、先ほどの考えなわけだけれど、
 本当の理由は、結局わずらわしかっただけなのだ。近所の高校へ行けば、顔見知りの同級生は自然と多く、その環境は、学校は変わっているのに、どこか区切りなく地続きな感じがして、それがひどくストレスになりそうな気がした。

 それでこの高校を選んだくせに、いざ入ってしまえば、寂しい、という感情をまず抱いているのだから、勝手なものだ。
 入学式が終わって数日経って、部活を決めるためのオリエンテーションがあった。巽高校には、高校が所有するにしては立派に過ぎる映画館か劇場と見間違うような大講堂があり、段差になって、上へと向かって並ぶ席の、座り心地も良かった。

 僕はどこの部活にも所属するつもりはなかった。
 一応、その高校にも将棋部はあったけれど、中学の時だって、そこまで将棋に熱心ではなく、残念ながらまた以前のように、そこでチェスの同好会を作って、というのは現実的ではない。あれは偶然、周囲が許容してくれただけで、狙ってできるようなものではないからだ。

「なぁ、結城はどこに入るか決めた?」
 オリエンテーションが終わって、教室に戻った時、僕にそう聞いてきたのが、城阪だった。

 高校時代の僕は、特進クラスにいた事情もあり、三年間同じクラスメートと学校生活を過ごした。城阪はそのクラスメートのうちのひとりだった。文武両道、なんて言葉があるけれど、城阪ほど、この言葉にぴたりと当てはまる同級生はいない。強豪と言われた巽高校の野球部でやがてエースとなる彼は、スポーツ推薦での入学が可能だったものの、一般入試を選び、特進クラスに入ってしまったのだ。理由はスポーツ科が嫌だったから、らしい。

 勉強ができて、運動神経も良くて、性格も優しく、周囲から人気があった彼を見ながら、神様、って本当不平等に人間をつくったなぁ、と思うこともあった。

 他のクラスメートと比べて、僕たちが特別、仲の良い関係だったわけではない。だけど特進クラスは生徒数がすくなかったこともあり、話す機会は多かった。

 はじめて話した時、結城と城阪、ってしりとりなら続くな、と笑った彼を見て、やけに明るいやつだな、と思った覚えがある。

「まだ、全然決めてない。体験入部期間は、一週間って言ってた、っけ?」
「あぁ。色々回れるし、楽しそうでいいなぁ」
 と、彼は心底、羨ましそうに言った。

「別に、城阪だって、好きなところ行けばいいじゃないか。まだ野球部に入る、って決めたわけじゃないんだろ」
「ま、そうなんだけどな。でも、結構もう外堀から埋められている、って感じで。なかなか断れない雰囲気なんだ。困ったもんだ」
「断りたい?」
「いや、もともと入るつもりだったから断る気はないよ。ただこう色んな部活があると、どうしても目移りはする、かな」
「で、興味ある部活は? 別に体験入部なら行っても大丈夫なんじゃないか?」
「先輩の目もあるから、さすがに、な」

 この時点で、彼はまだ正式な野球部員ではなかったけれど、すでに他のスポーツ推薦の新入生に混じって練習していたらしい。この事実が、城阪への期待値の高さだった、と言ってもいいのかもしれない。

 放課後、それぞれの教室や多目的室などに、各部活が散らばり、勧誘をおこなっていた。野球部、サッカー部、バレー部、卓球部、といったどこの高校にもあるような部活から、まだ部活として認められていないクイズ研究会、フェンシング愛好会、テレビゲーム研究会なんていう活動もあり、すこし歩いただけで、色々な先輩たちから声を掛けられた。帰宅部になるだろう、という予感はありつつも、まぁもし興味を持てるものがあれば、とそんな気持ちだったのだが、さっさと帰れば良かった、と後悔していた。

 目当てのものがなく、うろうろとしていた僕は、格好の標的でしかなかったのだ。
 かなりしつこく勧誘してきた部活もいくつかあった。人気の部活はそうでもないけれど、どうしても部員を集めたい、と躍起になっている部活の先輩方は押しも強く、なかなか大変だったけれど、逆にそういう態度で来られたことが、僕から、どこかの部活に入ろう、という気持ちを奪っていった。

 きょうは帰ろう、と正門を出る。雨が降っている。ここ数日ずっと、雨続きだ。
 傘置き場に、自分の傘が見当たらない。もしかして盗まれたのだろうか。最悪だ。僕はちいさくため息を吐く。

 雨がもうすこし落ち着くのを待って、僕は正門玄関の庇の下から、ピンクに色づいた桜を眺めていた。濡れた地面に貼り付く花びらは、もともと儚い桜の寂しさを、より際立たせていた。

 選んだ学校、本当にここで良かったのかな、と心の中でつぶやく。
 人生を最初からやり直す、なんて夢物語だよ、と。
 思い出すのは、姉の言葉だった。

「あれっ」
 感傷的な想いに浸っていた僕の背後から声が聞こえて、振り返るとそこに、ひとりの女子生徒がいた。

「えっと……」
 その付近には、僕以外に誰もいなくて、その言葉は明らかに僕に向けられたものだった。
 困惑しつつも、見覚えはある。

 長く、つやのある髪が印象的だった。どこか幼さの残る顔立ちに、昔の面影が重なり、僕は、あっ、と声を上げそうになってしまった。僕は彼女を知っている、と。

「やっぱり、結城くんだ」
 嬉しそうな表情を浮かべる彼女の顔を見ながら、僕は焦っていた。どうしよう……、名前が思い出せない、と。彼女が僕の名前を覚えていただけに、余計に困ってしまった。

「あれ、覚えてない? 私のこと?」
「も、もちろん。覚えてるよ」

「そっか。じゃあ当ててみて」
 絶対当たらないね、と彼女の顔は、そう語っていた。その表情を見て、僕は素直に謝ることにした。

「ごめん。分かりません」
「ふふ。最初からそう言えばいいんだよ。永瀬葉瑠……、どう? 思い出してくれた?」
「永瀬……、そうか、永瀬か。久し振り。い、いや、これだけは信じて欲しいんだけど、顔と名前が一致しなかっただけで、顔はすぐに思い出してたよ」
「別に疑ってないし、それに仮に忘れてたとしても、何も思わないよ。こんなに、久し振りなんだから。それで、どうしたの?」
「どうしたの、って何が?」

「いや、だって」葉瑠はずっと楽しそうな表情を浮かべていて、あの頃よりもずっと大人になったその顔を見ながら、お互いもう小学生じゃないんだな、と実感していた。「なんか雨を睨んでたから」
「そんなつもりはなかったんだけど。睨む、って……」

「ごめんごめん。でも本当に、そんな顔してるように見えたから。こういう雨、春霖、って言うんだよ」
「春霖?」
「そう」と葉瑠が頷き、言った。「春に長く降る、こういう雨を、春霖、って呼ぶんだよ。雨、って普通は……、すこし哀しい感じがするものだけど、春の、特に小雨が長く続くような雨は、どこか明るい感じがして、好きなんだ。まぁ哀しい感じ、って、私が勝手にそう思ってるだけ、なんだけどね」

「難しい言葉、知ってるね」
「前に小説で読んで、美しい言葉だな、って思ったから」
「そう、なんだ」

「傘、ないの?」
「まぁ、うん」
「電車で通ってるんだよね? 私もそうだから。良かったら、入ってく?」
「いや、それは……」

「あっ、照れてる。大丈夫、堂々としてれば、誰もたいして気にしないよ」
 そう言って、葉瑠が傘を広げ、その下に、僕も入る。

 葉瑠が、春霖、と呼んだ雨は、結局その日、僕たちが別れるまで続いた。そして家に着いた頃には、雨は上がっていた。

 これが高校生になった葉瑠との再会だ。


13、小説を読まない僕は、文芸部に誘われて。


「ねぇ、文芸部に興味、ってない?」
 と、葉瑠が僕に言ったのは、再会してから半年ほど経ち、季節が秋に入った頃だ。僕と葉瑠はクラスも別で、学校内でそんなにしゃべることはなかったけれど、帰りのタイミングが同じになった時には、隣同士に並んで座り、一緒に電車に揺られることもあった。彼女が文芸部に所属していることは知っていた。

 この時はまだ、幽霊になった彼女から聞かされたいまのように、憧れの先生がいて、そのひとがきっかけで小説を好きになった、なんてことも知らなかった。ただ趣味が増えたんだな、と思ったくらいだ。小学生が高校生になっていく過程の中で、それはあまりに自然なことで、おかしい、と感じることのほうが不自然な態度じゃないだろうか。僕だって、小学生時代は、チェスに興味なんて、欠片もなかった。

「文芸部……?」自分自身を指差して、僕は言った。「永瀬。僕がそんな小説、読むように見える?」
 この時はまだ、葉瑠を、永瀬と呼んでいた。

「そんな、って言い方する以上、いままでには何冊か読んだことあるわけでしょ」
「まぁ、そりゃあ。ほとんど教科書か読書感想文くらいだけど」
「『ライ麦畑でつかまえて』とか『車輪の下』とか?」
「あぁ、いやうちの中学は、一冊本を好きに選んでいい、って形だったから。書店でいっぱい積まれている本を選んだかな。『アヒルと鴨のコインロッカー』とか『容疑者Xの献身』とか」

 夏休みの時に、一度だけ書店に行き、面白そうな小説を一冊だけ買う。それまでの僕と本のつながりなんて、基本的にはその程度だったけれど、ちいさな町の本屋の持つ雰囲気、紙のにおい、そこだけ他の場所から切り離されたように、ゆるやかに流れていく時間は好きだった。そう、以前には亜美とも一緒に行ったことのある、あの書店だ。だから多少、苦さも混じっているけれど、それも含めて、想い出、なのだろう。

 ふんふん、と、癖なのだろう、葉瑠が自分のほおを指でなでながら言った。
「好きなのは、ミステリ、って感じ?」
「そう、かな。……というか、本なんて、それくらいしか」
「本は、一冊でも読めばもう、誰もが自由に語っていいんだよ。すくなくとも私は、そう思ってる」
 彼女の顔が、僕に近づく。

 葉瑠はその日、普段は掛けない眼鏡を掛けていて、そのいつもとはすこし違う変化が、僕を余計にどきりとさせる。基本はコンタクトレンズを付けているのだけれど、たまに眼鏡を掛けるのだ、と葉瑠自身が言っていた。理由を聞くと本人も、分からない、らしい。完全に気分で決めているそうだ。

「とはいえ、さすがに僕が文芸部、っていうのは、あまりに不向きでしょ」
「別にそんなことを思わないけど、入ってから好きになったら?」

 電車は市内を過ぎたところまで来ていて、車窓越しに見える景色から、マンションやビルといった高い建物が減っていき、周囲には田舎町に似合いの田んぼが広がっている。この辺りから、乗客は極端にすくなくなる。

「というか、そもそもなんで、そんなに僕を文芸部に入れたがるんだよ?」

 冗談の意を含めて、もしかして気でもあるの、と言ってみたい衝動に駆られたけれど、そんな度胸もない。言ってはいけないと分かって頭に浮かべているだけで、実際に口に出してしまえば、その自分自身に気色悪さを覚えて、一週間は落ち込むはずだ。

「え、いや、実は部の存続の危機と言いますか……」
「そんなに部員すくないんだ?」
 それまで僕は、葉瑠が文芸部にいる、という以外、文芸部について何も知らなかった。

「実は私以外、全員三年生で、いなくなったら私だけになるんだ」
「そんなすくなかったんだ……」
「部として認められるとしたら、最低、三人は必要だから、ね」
「でもひとりになるなら、別に部じゃなくても――」
「あ、それ以上は言ったら、駄目だよ」葉瑠がほほ笑み、人差し指を自分の口に当てる。「いままでの先人たちが築いてきたものを、私で終わらせたくないからね」
「そっか」

 葉瑠は驚くほど真剣な目をしていて、断りづらい。いや実際、そこまで断りたい、とも思ってはいなかった。小説に興味のない人間がいきなり小説好きなひとたちの中に混じるのは、ためらってしまうが、葉瑠しかいない状態ならば、その辺の問題がクリアされるからだ。

「実は、もうひとり、誘っているひともいて」
「ちなみに、誰?」
 少人数で活動するとなると人間関係は特に、大事な問題だった。

未希みきちゃん。知ってる? 傘原未希かさはらみき

 話したことはないけれど、隣のクラスの子で、葉瑠と一緒に歩いているところを何度か見たことがあった。特別悪い印象を持ったことはないが、はじめて話す相手だと、やっぱり緊張はしてしまうだろうなぁ、と考えていると、
「でも、未希ちゃん、幽霊部員を公言してる」
 想像もしていなかった言葉が返ってきた。

「幽霊部員?」
「うん、もちろん本当の幽霊じゃないよ。そう言えば、むかしふたりで、幽霊屋敷に忍び込んだよね。懐かしいなぁ。まぁ私も、たぶん結城くんもだと思うけど、幽霊とか信じてなかったから、全然怖がってなかったね」と、くすくす、と過去を懐かしむように葉瑠が笑う。「ねぇ、幽霊、っていまでも信じてない?」
「うん、まぁ。でも……、あの時、確かに僕たちは、数子さんの霊を見たわけだし」
「やっぱりあれは、そうだよね。というか、よく覚えてたね。あそこに住んでいたひとの名前」
「なんとなく、覚えやすい名前だったから。まぁ半信半疑ではあるし、それ以外に幽霊を視た記憶なんて一度もないから、まだ信じていない寄り、かな」

「ふぅん。私も、同じようなものかな。でも、いたほうが良いな。これからの人生、分からないことが多いほうが楽しいし、ね」
 幽霊になるなんて思ってもいなかった頃の言葉で、特別な意味なんてひとつもなかっただろう。だけどその後の葉瑠を知っているいま、この時から何か予感のようなものがあったのではないか、と勘違いしてしまいそうになるから、不思議になる。

「そっか」
「……って、話が逸れちゃったね。未希ちゃんの話だけど、未希ちゃん、バイトしてるから、ほとんど部には顔は出せないけど、名前を貸すだけならいいよ、って言ってくれて。あっ、勘違いのないように言っておくけど、学校にはちゃんと許可取ってる、って言ってたよ」
「別に言わないよ」
「なら、良かった」

 巽高校では、原則としてアルバイトが禁止されている。隠れてアルバイトをしている学生が多く、僕のクラスにも何人かそういう生徒がいた。だから彼女としても、そんな言葉を付け加えたのだろうけれど、もちろん言うつもりはなかったし、そもそも告げ口をするメリットがない。

「まぁ、考えておいてよ」
 と話を締めるように葉瑠が言ったのは、もうすぐ彼女の降りる駅に着くからだ。小学校を卒業してすこし経った頃、ふたつ隣の町に葉瑠の家は引っ越してしまったらしく、もう不治見町には住んでいない。

 葉瑠と別れて、また電車が揺れはじめた。不治見町を目指して。

 確かその翌日だったはずだ。
 教室で過ごす中で、城阪がときおり僕のほうを見ていた。最初はたまたまかな、と思っていたのだけれど、途中からは確信に変わった。休み時間に、城阪は別のクラスメート何人か、と野球の話をしていた。城阪は中日ドラゴンズの当時エースだった吉見のファンで、きのうの試合に勝ったとか、勝利投手になったとか、そんな話をしていて、興味はなかったのだけれど、彼らの結構大きな声がこっちの耳にも入ってきたのだ。ただその会話中に聞こえる城阪の声は、どこか心ここにあらず、という感じで、その時にも何度かこちらに送ってくるような視線があり、それが確信に変わった瞬間だった。

 何か僕に話し掛けたいことがある、と気付きはしたものの、普段の城阪はちょっと聞きにくいようなことでも積極的に尋ねてくるので、すごく不思議に感じていた。

 その視線は放課後になるまで続き、僕が下校しようとした頃になって、
「なぁ、結城、いいかな。すこし残らないか?」
 と、城阪が言った。

「どうしたの?」

 ずっときょう、変だったよ、と言いたい気持ちをぐっとのみ込み、自然な表情を意識した。

 放課後の教室で僕を呼び止めた彼は、他のひとがいなくなるのを待っていたのかもしれない。僕と彼の、ふたりだけになった教室で、ようやく彼が話をはじめた。

「悪い。残ってもらって」
「いや、いいよ、別に。それより野球部の練習はいいの?」
「終わったら行けばいいさ。うちの監督は放任主義、というか、わりと緩いひとだから」
「ふぅん」
「で、まぁ本題なんだけど、単刀直入に聞くよ。永瀬、って、結城の彼女?」
「えっ、いや。違うけど。小学校の時、一緒だったんだ」
「そっか、彼氏とか、いるのかな?」
「いや、知らないけど、聞いたことはない」

「かわいいよな……。実は、ちょっと気になってるんだ。ほとんど話したことはないんだけど。ま、でも、前に結城と仲良さそうな姿を見たから、もし付き合ってたり、結城が永瀬のこと好きなら諦めようと思ってたんだけど、……ちなみに、彼女のこと、好き?」

「いや……。恋愛感情とか、だったら、あんまりそういうのは考えたことない」
 緊張して、かすかに言葉は震えていたはずだ。

 たぶん僕は、葉瑠に好意を持っていた。それは恋愛感情、という意味合いでも。ただ、感情の自覚している部分が、あまりにも曖昧過ぎて、はっきりと口にする自信がなかったのだ、と思う。

「そうか……良かった。仲を引き裂くような真似だけはしたくなかったから」
 城阪が、朗らかに笑った。

 例えば彼がとても嫌なやつだったなら、とそんなふうに考えてみたこともある。もしそうだったなら、葉瑠と想いを深めていたのは彼ではなく、僕だっただろうか。いや、それは分からない。ただすくなくとも、三人のうちの誰かがもうすこし違う性格だったならば、僕たちの関係がこんなにも歪な結末を迎えることはなかったはずだ。もしも、の話なんて何の意味もない。それはそうなのだが、それでも考えてしまうのが、もしも、の話なのだ、きっと。

「もしかしたら、この後、好きになることがあるかもしれないけど、……いまは、違うよ」
 絞り出した、精一杯の言葉だった。城阪は鈍感ではない。まったく気付いていなかったわけではないだろう。

「そっか、まぁ未来のことは、誰にも分からないさ」

 そう、あんな未来にたどり着いてしまうなんて、誰が予想できるだろうか。


14、たったふたりの部活動に、筆談を添えて。


「いままで見ていた景色が、それまでと違って見える。小説の魅力って、色々あると思うんだけど、私は小説のそういうところに惹かれたのかもしれない」

 文芸部に僕が入ったばかりの頃、葉瑠がそう言ったことがある。言葉の内容それ自体よりも、楽しそうに話す彼女の表情のほうが記憶に残っている。

 高校の図書室にはじめて入ったのも、文芸部の一員になってからのことだった。一員、という言葉に僕自身が違和感を抱いてしまうのは、部員が三人しかいなくて、その中でもうひとりの部員の傘原が、幽霊部員を公言していたからだ。だからこの文芸部には、僕と葉瑠のふたりしかいなくて、目的とするコンテストみたいなものがあるわけでもなかったので、僕たちの趣味の延長線上みたいなものだった。

 一週間に二冊の本を読んで、感想を言い合う。あるいはその作品をきっかけに、小説に関する雑談をする。活動内容はそれに尽きる。他の学校の文芸部では、実際に小説を書いて、部員たちを前に発表するみたいなこともしているらしいのだけれど、僕たちはそんなこともしなかった。お互いに、読むほうに興味のベクトルが向いていて、書くほうにはあまり気持ちが向かなかったのだ。

 活動をはじめたのは、一年生の冬頃だった。
 僕はその日の放課後、図書室にいて、〈自由図書〉を選んでいた。
 僕たちの間で取り決めたルールとして、一週間に読む二冊の本のうち、片方は自分で読みたい本を選び、もうひとつはふたりで話し合って選ぶ。それを僕たちは読書感想文のコンクールのように、〈課題図書〉と〈自由図書〉と呼んでいた。

〈課題図書〉が、スティーヴン・キングの『キャリー』だった時の週だ。小説を読むうちに、僕はミステリやSF、ホラーといったジャンルが好きだ、と気付き、それを知った彼女が、〈課題図書〉は僕に合わせてくれていたところがある。

 超能力、いじめ、血塗られた光景……、『キャリー』は中々にヘビーな小説だったこともあり、比較的、穏やかな作品を選ぼう、と思って、僕は新たに読む本を探していた。

「何に、するの?」
 書架におさめられた本の背表紙を眺めていると、背後から声がして、驚いて振り返ると、そこに葉瑠が立っていた。

「……びっくりした」
「ごめん、ごめん。何を選んでいるのか、気になって」
「というか、葉瑠。きょうは傘原と用事がある、って言ってなかった?」

 同じ部活に所属することになった時、葉瑠に下の名前で読んで欲しい、と言われた。文芸部の慣習として、下の名前で呼び合う、というものがあったらしい。その言葉に、ふと亜美の顔が浮かんだ。亜美も似たようなことを言っていた。僕たちふたりだけしかいないのだから、そこまで踏襲する必要ないのに、というのが、僕の本音だ。葉瑠も、僕のことを下の名前で呼ぼうとしたのだけど、それはなくなった。まだ、そういう関係ではないし、純粋に恥ずかしかったからだ。この片方が名前で呼ぶ感じも、亜美の時と同じだな、と思って、僕はちいさな罪悪感を抱いた。いまを、まるで過去の恋と重ねているような気がして。

「そう、〈ラ・テリア〉の期間限定メニューが食べたい、って約束してたんだけど」葉瑠の言葉の、歯切れが悪くなった。「急に、予定が入った、って」
〈ラ・テリア〉は岐阜市内にある地元チェーンのコーヒーショップで、その時期に一ヶ月間限定のケーキが販売されていたそうだ。

 傘原とは、一応同じ部員になってから、何度か話している。最初の頃は、明らかに僕に対して好感を持っていなくて、その理由を聞いたのは、関わり合うようになって、だいぶ経ってからだ。僕と葉瑠が付き合っていると勘違いしていて、そのことをあまりこころよく思っていなかったから、らしい。

 私、もし男に生まれてたら、葉瑠と結婚したかった。そのくらい、好きだったから。
 そう傘原は言っていた。だから、悪い虫、だった僕に信用が置けなかったみたいだ。

「ドタキャン?」
「まぁ、そうだね。未希ちゃん、好きな男の子がいるんだけど、私との約束破って、そっち、優先したんだ」葉瑠がちいさくほおを膨らませる。「ひどいと思わない?」
「それは、ひどいね」
「言葉に感情が、ひとつもこもってないよ」
「いや、あんまり残念そうじゃなかったから」
「実は、あんまり甘い物、好きじゃないんだ。行きたくなかったわけじゃないけど、別に無理して何がなんでもいきたい、って気持ちじゃなかったから。……それで、どんな小説を、今回は選ぶ気?」
「うーん、まだ決めてないけど……。でも、ほら、今回の『キャリー』が結構暗い感じの話だから、そうじゃないのにしたいかな」
「じゃあ、恋愛小説にしてみる? 私は、これとか、好きだよ」

 葉瑠が棚から抜き出した一冊の文庫本は、川上弘美の『センセイの鞄』だった。

「恋愛小説、かぁ……。どうなんだろう……、いままでまったく読んでこなかったジャンルだから」
「だったら、今回は敢えて、選んでみたら」

 言葉を重ねるようになるけれど、僕たちの活動は趣味の延長線上にある、というか、ほとんど趣味みたいなもので、教育の一環でもなんでもない。だから読む本を決める時なんて、いつもこんなような感じだ。

「じゃあ、そうしようかな……、いやでも、恋愛小説かぁ」
「嫌?」
「読まず嫌いは良くない、とは思うけどね」
「いいじゃない。恋愛、恋愛」

 やけに恋愛小説を推してくる葉瑠は、どこかいつもと違う感じがした。僕たちは図書室の四人掛けの対面式の机に、隣り合って座る。机の前に、先ほど葉瑠に薦められた『センセイの鞄』の文庫本を置く。

「で、何かあった?」
「何か、って?」
「いや、やけに、恋愛、を強調するなぁ、って思って」
「気付いてた?」

 うちの高校の図書室は、おそらく他の高校に比べてちいさく、あまり利用者も多くない。運動部に力を入れているから、そのぶんのしわ寄せがこういう部分に来ているのではないか、と僕は勝手に思っているのだけれど、実際のところはどうか分からない。ただ蔵書が充実しているとはお世辞にも言えない。その代わり図書室に蔵書する本を選定したひとは、自由奔放に決めたのか、どこの図書室に置いてありそうなものがなくて、反対にどこの図書室にもなさそうなものがあった。

 葉瑠は何かを言おうとして、だけどちらり、とすこし離れた机で勉強している生徒に目を向けた。

「ひとに聞かれたくない話?」
「聞かれてもいいけど……」
 その言いよどみは、どう考えても、周りに聞かれたくないひとのものだった。

 かばんから大学ノートを取り出して、一枚、破り取ることにした。葉瑠が、僕の行動を不思議そうに眺めている。紙の上に、シャープペンで、僕は文字を綴る。ちょっと崩れた字は、よく読みにくい、と言われる。ただできる限り、丁寧な文字を心掛けた。

『じゃあさ、筆談で話そうか?』
 その言葉を読んだ葉瑠が、笑った。

『分かった。いいよ。ある男子から、告白された、とかじゃないんだけど、ちょっと興味がある、みたいなこと言われたんだ』
 ちりり、とした胸の痛みには気付かないふりをする。
『ちょっと興味がある、ってなんか嫌味な言い方だね』
 葉瑠が苦笑いを浮かべる。

『私がいま勝手に言い回しを変えただけで、実際の言葉はもっと違うものだよ』
『ちなみに、誰か聞いても?』

 誰の、言と隹が離れて、まるで別の文字のように見える。そんなどうでもいいことをわざわざ考えてしまうのは、不安のせいだろうか。彼女は誰の名前を書くのだろう、という。

『結城くんと同じクラスの、城阪くん。仲、良い?』
 城阪と聞いて、僕は以前の彼との会話を思い出していた。言葉を綴る指先は、かすかに震えている。気付かないでくれ、と願っていた。

『仲、どうだろう。悪くはないよ。嫌いじゃない。だけど城阪は誰とも仲が良いから、特別な友達、って関係じゃないかな。葉瑠が話しているところなんて見たことないけど』
『うん。私も、前に何かで一言、二言話したくらいで、ほとんど話したことはなかったよ。だからすごくびっくりした。どう思う?』
『どう思う、って?』
『私が、城阪くんと付き合ったら、あなたは、どう思う?』
『葉瑠が付き合いたいなら、僕の気持ちは関係ないだろ。応援するよ』

 応援するよ。その言葉は本心を隠すように、やけに丁寧な文字になった。
 葉瑠の僕を見る眼差しは、どこか寂し気に感じられた。気のせいだろうか。

『そっか。まぁ城阪くん、イケメンだからね』
 そう書くと、彼女は立ち上がった。

「この話は、ここまで。じゃあ私、行くね。ゆっくりとその本でも読んで、また感想聞かせてね」
 僕はこの時の葉瑠の感情をよく分かっていなかった。……いや、いまになって客観的に考えてみれば、たぶん僕は、分からないふりをしていたのだ。その自覚もなく、ほとんど無意識に。

 葉瑠は手を差し出していた。僕が手を伸ばさなかっただけで。

 それから数日経って、放課後、家に帰ろうとしていた僕を呼び止めて、城阪が、
「一緒に帰らないか? きょう練習、休みなんだ」
 と言った。

 先日の葉瑠との会話があったから、その件だ、ということは予想がついた。だけど彼からどんな言葉が飛び出すか分からなくて、みょうにどきどきしたのを覚えている。

 僕の隣で、城阪は自転車を引きながら歩く。
 一緒に帰る、と言っても、彼は自転車通学だったから、駅までだ。それほどの距離ではない。勾配のゆるやかな下り坂で、冬だからか、もう夕暮れの陽が辺りを染めていた。

「なぁ、最近、永瀬と話した?」
「まぁ、同じ部活だし」
「なんで、同じ部に入ったんだ? やっぱり――」
「部の存続の危機だから、って誘われたんだ」
 先を制するように、僕は言った。

「でも、誘う相手として、真っ先に選んだのが、結城だったわけだ」
「小学校から知ってる関係だったし、誘いやすかったんじゃないかな」
「まぁ、そうなんだろうな……」
 その言葉は僕に、というよりは、虚空に向けてつぶやくような感じだった。そして城阪には似合わない、嫌な言い方だった。

 強く吹く寒風が、道路の両脇に生える木々の、枝葉を揺らしている。

「変な関係じゃないよ。疑うような。彼女とは」
 僕の言葉は、どこか言い訳のようにも、僕自身、感じていた。

「この間、彼女と話してみたんだ。友達から、って言われた。これって、期待したほうがいいのかな。それとも駄目だって、諦めたほうがいいのかな?」
「それは、僕には分からない」
「そう、だよな」
 話しているうちに、駅につき、僕たちは別れた。その直前、彼は何かを言いかけて、やめた。

「実は、俺、もっと……あ、いや、なんでもない、と」
 葉瑠のことになると、彼は、いつもの彼らしくなくなった。それが、恋、なのかもしれないし、もしかしたら僕も、普段の僕ではなかったのかもしれない。

 夜の景色に消えていく彼の背中に、僕は悲しみを見ていた。理由は分からない。


15、旅行先の海では、雨が降っていて。


「ねぇ、海、見に行こう」
 と、唐突に葉瑠が言った時、僕たちはもう高校二年生だった。春を過ぎて、時期は夏になっていた。首すじの汗を手の甲でぬぐって、意味ありげにほほ笑んだ。

「岐阜に海なんてないよ」
「知ってるよ。もちろん。だから、遠出をしましょう」
「遠出?」
「そう、福井」

 こんな会話だったから、僕はふたりで行くものだ、とばかり思っていた。真実を知って、緊張を返せ、と言いたくなったのを覚えている。

「残念だったね。ふたりで旅行できなくて」
 僕の内心を察したのか、それともただからかってみただけか、助手席に座っていた傘原が振り向き、後部座席の僕に言った。

 僕と葉瑠、そして傘原の三人を乗せたワゴン車が海沿いの県道を駆けていた。車窓越しに見える海面は、大きく波打って、荒れていた。前日までの快晴続きの空が嘘のようだ。真夏に雨が降り、葉瑠は申し訳なさそうな苦笑いを浮かべていた。

「雨女、本領発揮しちゃった。ごめんね」
「いいよ、いいよ。私は、葉瑠と一緒に泊まれるだけで、嬉しい」
 と、慰めるように傘原が言った。

 僕たちの高校が夏休みに入ってすぐ、葉瑠から連絡があった。すこし話したいことがある、と。葉瑠の自宅近くの市立図書館で落ち合う約束になった時、僕はこんな話になるとも思わず、別の不安を感じていた。

 いくつか本を選んで借りた僕たちは、図書館の前のベンチに座って、そして、海に行こう、という話になったのだ。ふたりきりの海。そんな勘違いは、ほんのわずかな間だけだった。

 そもそものきっかけは、叔父が海沿いの街で民宿を経営している、なんて、傘原が葉瑠に話したことだった。叔父さんから良かったら来ないか、って言われているんだけど、葉瑠も行かない、と誘ったらしい。海なんて人生でほとんど見たことがない、と葉瑠は嬉しそうだった。岐阜は周囲に海もないので、実は僕も片手の指で数えるほどしか、海を見たことがなかった。

 福井駅を出ると、傘原の叔父さんが待っていた。車に乗せてもらって、叔父さんの運転で、民宿に向かう道中のことだった。

 雨女。
 小学生の時から葉瑠はよく、自分のことを雨女と言っていた。実際、葉瑠との想い出にある特別な日は、雨が多かった。
 雨が好きだったことはない。ただこの雨も含めて、彼女との想い出、と言うなら、ひっくるめて好きになれそうな気がした。

 民宿に着いたら、当初は海へ向かう予定だった。だけど、さすがに海水浴場に向かうには、天気が悪すぎた。
 僕たちは民宿の中で、のんびりすることにした。三泊四日、滞在することになっていたので、そのうちに晴れるだろう、と軽い気持ちだった。

 傘原の叔父さんは、四十を過ぎた、冗談の多い無邪気なひとだった。二十代後半くらい、と聞かされても、納得できそうな若い外見をしていて、年上に対して失礼を承知で言えば、友達みたいな雰囲気だ。

 部屋は当然、同部屋になることはなく、僕と彼女たちで、二部屋に分かれた。

 三畳の部屋だ。一番ちいさな部屋とは聞かされていたけれど、これだけあれば、僕としては、じゅうぶんだ。一応無料ではないけれど、サービス料金、ということで、ほとんど無料と変わらない値段で泊まっているのだから、これで文句を言えば、罰が当たってしまう。

 畳に荷物を置き、僕は横になって、持ってきた文庫本の続きを読みはじめた。山本文緒の『恋愛中毒』だ。これは彼女のお薦めだった。いまは夏休み中なので、これといった文芸部の活動があるわけでもないのだけれど、気付けば何か小説を読んでいるのだから、僕も立派な本の虫になりつつあるのかもしれない。

 旅行中、部屋にこもって読むのも、と思いつつ、気付けば没頭してしまった僕は、ノックの音にも気付かなかった。

「わっ」
 と耳もとで大きな声が聞こえて、僕は思わず飛び上がってしまった。

 声の主は傘原だ。

「びっくりした……」
「ごめんごめん。全然気付いてくれないから」
 傘原とは、最初に会った頃は、そこまで良い関係ではなかったけれど、二年生に進級するくらいには、お互いに打ち解けあった感じがある。

「それにしても、やりすぎだ……。いや、まぁいいや。それで、どうしたの?」
「せっかくだし、リビングに来たら。叔父さんお手製のアイスがあるから、良かったら一緒に食べようよ。部屋にこもってないで」
 リビングに行くと、そこには傘原の叔父さんがいて、葉瑠の姿はなかった。

「あれ、葉瑠は?」
「外に散歩だって。一緒に行く? って聞いたら、断られちゃった。こんな雨の中、悪いから、だって」
「というか、こんな雨なのに、なんで外に行ったの?」
「海沿いの景色なんて、めったに見れないから、できる限り、見たいんだって」
「そうなんだ。葉瑠、楽しみにしてたからね。……美味しい。そう言えば、話変わるけど、傘原の叔父さんの外見、ってすごく若く見えるよね」
「うん。私のお兄ちゃん、って言っても、ぎりぎり通りそうな気もする」そこで傘原は、声を潜める。「お母さんはただの若作りだ、って馬鹿にしてるけど。……あんまり仲良くないんだ。むかしからふらふらとしてる、って。でも、私は自由な感じが好きなんだけど」

 あとになって聞いた話だが、傘原の叔父さんは彼女の親戚のほとんどから、あまりよく思われていなかったらしい。ただ傘原自身はこの叔父さんのことが好きで、この民宿を定期的に訪れていたそうだ。だからこの時、僕は事前に、彼女が両親に許可をもらったうえで、ここに来ている、と思っていたのだけれど、内緒にしていたみたいだ。

 自由に生きる、と言葉にするのは簡単だ。だけど実際に行動に移すのは、思いのほか、難しい。傘原の叔父さんは実際に行動をしたひとで、その姿に憧れたのかもしれない。

 傘原は高校卒業後、周囲の反対を押し切って、この民宿で働きはじめた、と聞いたからだ。

「でも口調とか雰囲気とか、すこし傘原と叔父さん、って似てるよね」
 僕がそう言った時、傘原は苦笑いを浮かべながらも、どこか嬉しそうだった。

 テーブルを挟んで対面に座る僕たちはアイスを食べながら、すこしの間、無言だった。そして沈黙を破るように、傘原が言った。

「葉瑠と結城、って付き合ってる?」
「急に、なんだよ」
「いや、気になって。こう、ほら葉瑠のいるところだと聞けないから。ねぇ、教えてよ」
「もちろん……付き合ってないよ」

「そっか……、あぁうん。本来なら、ほっとしたほうが良いんだろうけど。実は、ちょっと気になる噂を聞いて、さ」
「噂か、たぶん、その噂、僕も知ってる」
 夏休みがはじまる前に耳にした。聞けるならば葉瑠に直接聞きたいけれど、いまだに聞けずにいることだ。葉瑠の口から飛び出す答えが怖くて。

「私、たぶん誰が葉瑠と付き合ったとしても、嫌な気持ちになった、と思う。前にも言ったけど、私はそれぐらい、彼女のことが好きだから。……でも、もしも誰かと付き合うんだとしたら、私は結城が良かったかな、って、そう思ってる」

 私は結城が良かったかな。
 その言葉は意外な音となって、僕の心に届いた。

 俺、さ。彼女に告白しよう、と思ってる。

 言葉がふいによみがえる。彼からその話を聞かされたのは、彼の所属する野球部の、春季大会が終わってすぐのことだ。城阪はその大会の時点で、すでに野球部のエースになっていて、春季大会では、優勝候補だった私立の強豪校を相手にノーヒットノーランをした、とちょっとした話題になっていた。優勝こそ逃したものの、準決勝まで進んだ。

 学内という枠をこえて、当時の城阪は名の知れた高校生だった。

 ただ春季大会が終わって以降の彼は、どこか表情が荒んでいた。教室にいる時も、以前に比べて素っ気なくなった。野球部のほうが大変なのだろう、と思っていた。実際、その考えは間違ってはいなかったのだろうけれど、それだけでもなかったのだ、きっと。

 あれは五月の中旬頃だった。
 梅雨の時期で、小雨が降る中、僕は補習のために放課後も学校に残っていた。終わって、帰ろうと校門を出ると、もう雨は止んでいた。グラウンドの前を通って歩く僕の姿を呼びかける声が聞こえた。

 グラウンド端のネットまで走ってきたのは、城阪だった。泥の付いたユニフォームを着ている。

「結城! 俺も、もうすぐ終わりなんだけど、ちょっと待っててくれないか?」
「えっ、あ」
「もしかして急いでる?」
「いや、そんなことないけど……。まだ練習、終わってないだろ」

「終わる終わる」
 と言って、彼が監督のもとに走っていった。

 仕方ない、と僕は正門玄関の段差部に座って、すこしの間、彼が来るのを待つことにした。急いでユニフォームから変えたのか、制服は着崩れている。練習の後らしく、城阪からは、土と汗の混じったようなにおいがした。

「ごめんな。待たせて。実はちょっと話したいことがあったんだ。どっか、行かないか?」
 そんな話になって、僕と城阪は近くのちいさなスーパーマーケットに行くことになった。店の前の庇の下に置かれたベンチに座り、彼が僕にコーラを一本奢ってくれた。ベットボトルのふたを開けると、ぷしゅり、と気の抜ける音がした。彼は手にブラックの缶コーヒーを持っている。ジュースの類は野球部の監督から禁止されているそうだ。

 時間帯のせいだけではなく、もともと流行っていないこともあり、店を出入りするお客さんはほとんどいなかった。

「永瀬のことが、好きだ」まわりくどい言い方はせず、彼は単刀直入に言った。「俺、さ。彼女に告白しよう、と思ってる」
 その素直さは僕にはないもので、心底、羨ましい、と思う。

「そうか……頑張れよ」
「怒らないのか?」
 そう言った彼の口調のほうが、どこか怒りを感じる。

「なんで?」
 僕はできるだけ何気ない態度を心掛けた。ちいさな自尊心が邪魔をして、僕は彼のように素直になれなかった。

「だって、永瀬のこと、好きだろ」
「前も言ったけど、僕たちは変な関係じゃないよ」
「ふぅん」

 僕と彼の間に、わずかな沈黙が流れた。短かったけれど、その時の雰囲気はすごく嫌だった。彼がどう思っていたかは分からないけれど……。

「本当だよ」
 重ねるような僕の言葉は、かすかに掠れていた。

「心のどこかで思ってたんだ。俺、自分が優しいやつだって、ね。だけど違うみたいだ。お前たちふたりを見てると、さ」
 自分の持っていた缶コーヒーを飲みほした。そしてベンチの背もたれに体重を預けると、大きな息をひとつ吐き出した。

「優しいやつは、そんなこと言わないよ」
 すこし冗談めかした口調を意識して、僕は言った。
「それも、そうだな」

 あの時の会話を思い出しながら、ずっと考えていたことがある。僕に抜け駆けして、葉瑠に告白をしようとする自身の行動を、優しくない、と評していたのだ、と。僕はそんなふうに捉えていた。

 だけど僕はその意味を取り違えていたのかもしれない。それこそ、幽霊になった葉瑠を前にして、過去を回想する、いまのいままで。


16、深夜の海に、一本の線が引かれて。


 草木も眠る丑三つ時、という言葉がある。しん、と静まりかえった真夜中のことだ。

 いま思い返せば、ちょっと危険なことをしてしまった自覚はあるけれど、深夜の海水浴場に、僕と葉瑠は訪れていた。

 民宿に来て、三日目の深夜の話で、翌朝には岐阜に帰ることになっていた。
 夜、寝ている僕の部屋に、葉瑠が起こしに来たのだ。葉瑠にしても、前日の傘原にしても、何故こうも相手を驚かせてくるのだろう、とすこし不満に思う気持ちもあった。

「ねぇ、いま晴れてるよ」
 と、悪いことに誘うような表情を浮かべて、葉瑠が言った。要は、どうしても海に行きたい、ということだ。

 葉瑠の気持ちも分かる。
 一日目、僕たちが雨を理由に、海岸へ行くことを諦めた時、どうせ三日もいるし、この時期なんだから、他の日は晴れているだろう、と楽観的だった。

 さすが雨女、なんて言ったら、きっと葉瑠は怒ってしまうだろうから口には出さない。
 二日目は初日よりも雨が降り、そして三日目は、もっと強くなった。日が進むにつれて、葉瑠の表情は暗くなり、僕と傘原が気を遣う形になった。

 海岸へ行くと、汀に寄せる波音が聞こえてきた。事前に怖そうな集団がいたら帰ろう、と話していたのだが、僕たち以外、誰もいなかった。水平線の上に、月がある。その明かりが、海面を照らしていた。

「静か、だね」
「夜の海なんて、そんなもんだよ。きっと」
 海岸に来るなんてはじめてのくせに、僕は知ったふうなことを言った。言葉の嘘を察したのか、彼女が、くすり、と笑う。

「嘘つき。嘘は、小説の中だけにしておかないと嫌われるよ。それにしても……。あんまり綺麗じゃないね」
「そう? 綺麗な景色だ、と思うけど」
「うん、夜空の景色は、ね。ただ」と葉瑠は、視線を下に向けた。「ゴミ、結構残ってるんだ」
 ペットボトルや空き缶のビール、花火の残骸。確かに、月明かりに照らされた夜景の美しさには似合わない。

「夜の海なんて、そんなもんだよ。きっと」
 同じ言葉を重ねる僕に、彼女が笑う。

「そんな嘘はいいから。そう言えば、未希ちゃんと、何、話してたの?」
「何、って?」
 どの話のことを言っているのか分からず、僕は困惑していた。

「ほら、ここに来たばっかりの時、私が散歩から帰ってきたら、仲良さそうに話してたから。最近、ふたりよく楽しそうだね」
「まぁ会ったばかりの頃が、ひどかったし、いまはだいぶ、ましになったと思うよ」
 葉瑠が海へと向かって歩いていく、すこし離れれば夜の闇に混じって見えなくなってしまいそうなその背中を、僕は追った。

「いつも喧嘩してたよね。そんなに会う回数も多くないのに」
「喧嘩じゃなくて、僕が一方的に言われてただけのような気もするけど……」
「きっと、言いやすかったんだよ」

 それだけじゃないだろう。

 私、もし男に生まれてたら、葉瑠と結婚したかった。そのくらい、好きだったから。
 僕にそう言った時の、傘原の表情は、冗談、と呼べるようなものではなかった。傘原が、葉瑠に向ける感情が、恋愛のそれだったのかどうかは分からないが、特別な存在だったことは間違いない。

 波打ち際の手前で、葉瑠が足を止める。
「言われるほうは、つらいけど」
「それがいまじゃあんなに。……で、何、話してたの?」
「いや、たいした話じゃないよ。どうでもいい雑談」

 さすがに、葉瑠について話していた、とは言えない。
 気になる噂、と傘原が僕に話したのは、予想通り、城阪のことだった。野球部のエースで、人気者の城阪に、最近恋人ができた、と女子たちの間で噂になっている、と。傘原も別にそれだけなら、ただのよくある噂だと聞き流していただろう。

 だけど……。

「うーん。なんか、悔しいな。ふたりだけで秘密を共有している感じが」
「傘原を取られた、みたいなこと?」
「もちろんそれもあるけどね。逆も、あるかな。……ごめん、いまの忘れて。ちょっと言ってみたくなっただけだから」
 また歩き出した葉瑠がサンダルを履いたまま、寄せる波を踏む。海水を足首まで浸して、僕を見る。

「結城くん、って、好きな子いる?」
「いや、……どうだろう」
「何、その曖昧な言い方。もしかして、やっぱり未希ちゃんのこと?」
「違うよ」
「じゃあ、私?」
 葉瑠が、自分自身を、指差す。

 波打ち際をへだてて一本の線を引くように、僕と葉瑠の間には距離がある。どのくらいの距離があったのかは分からない。手を伸ばせば、もしかしたら届く距離だったかもしれないのに、僕が手を伸ばそうともしなかったからだ。

「違う、よ」
「……そっか。ねぇ、小学校の時のこと、覚えてる? ほらっ、清水さんが私の未来を占ってくれた時のこと」
「なんだった、っけ?」

 覚えていてとぼける僕の表情の癖を見抜いた葉瑠が、もうっ、と言った。

「分かってるくせに。ねっ、みりゃいの恋人さん」
 と、からかうように彼女が笑う。ただ、未来、を、みりゃい、と噛んだのは、彼女自身も恥ずかしかったからだろう。

「噛んでるよ」
「似合わないこと、言うもんじゃないな」と葉瑠が、ほおを指でかく。「まぁそんなことはどうでもいいんだよ。話を本題に戻すよ。そう清水さん、清水さんの占いで、私、まぁ将来、結城くんと付き合う、って言われたわけだけど、あれ、実はずっと信じてたんだ。さすがに中学に入ってからは、もう会わない、って思ってたから、気付けば忘れてたんだけど、でも……、高校に入って、久し振りに結城くんに会って、私、最初に思い出したの、あの占いの結果だったんだ。運命の再会かな、って。あっ、ロマンチストすぎる、って笑わないでね。私にとっては、そのくらいのことだったから」

「笑わないけど、恥ずかしい」
 きっと僕の顔は真っ赤になっていたはずだ。

「さっきは、好きな子いるか、って聞き方したけど、本当に聞きたいのは、これじゃない、ね。……結城くん、私のこと、どう思ってる」

 葉瑠に告白する、と言った城阪の言葉が頭に浮かぶ。

「葉瑠……?」
 すこしだけ悲しそうな表情を浮かべて、彼女が言った。まだ僕が何を答えたわけでもないのに。

「あ、やっぱり、やめた」表情の翳りを消し、葉瑠が、いつも、を振る舞おうとするのが分かった。「どっちの答えが返ってきても、結城くんの性格だったら、逆の可能性があるから。結局また悩みそうになる。……清水さん、って言えば、実は前に一度、会ったんだ。高校に入ってすぐの頃だったかな。アルエーで。あの口の軽い感じ、とか、全然変わってなかったね。でも、かわいくなってた」
 アルエーは県内に数軒建つ、ショッピングモールだ。

「変なこと、言ってなかった?」
 清水さんは同じ部活だったから、関わりは多かった。葉瑠に何を話したのか、はどうしても気になる。

「言われて困ることでも?」
「困ることはないけど、恥ずかしいことなら、あるかな?」
「彼女がいた、って聞いたよ。かわいい子だった?」一瞬、葉瑠の隣に、亜美のイメージが浮かんで、消える。「モテるね。羨ましい限り」
「怒ってる?」
「別に、怒ってないよ」

 葉瑠の言い方には、どこか怒りを感じる。理不尽だ、と思った。僕は現在進行形で、僕以外の誰かから好意を寄せられている葉瑠を見ているのだから。噂のことは、葉瑠も知っているだろう。城阪が、葉瑠と付き合っている。そんな根も葉もありそうな噂まで出ているのに、こっちに気のある態度を取る。こっちのほうが、怒りたいくらいだ。

 僕は思い切って、聞くことにした。
「葉瑠こそ、城阪と付き合ってるんじゃないのか?」
 葉瑠がひとつ、大きく息を吐いた。彼女の表情に驚きの色はなかった。僕からこんな言葉が来る、とすでに想像していたのだろう。

「……さぁ、どうかな」
 夏の夜気が、葉瑠の髪を揺らした。

「それなのに――」
「もうすぐ、雨が降りそう」
 言いかけた僕の言葉をさえぎるように、葉瑠が言った。はぐらかしているのだ、と思った。

「そんな気配なんて、ひとつもないけど」
「雨女の予知を舐めないで、ね」と、彼女が笑う。「だから、もうきょうは帰ろう。ずっと行きたかった海に来れたし、とりあえずは満足」
「帰ろうか……」
 僕も葉瑠の言葉に、頷くことにした。別に無理やり聞き出したいことではなかった。本当に僕に言う必要がある、と感じているなら、彼女はみずから言うはずだ。

「でも今度は、もうちょっと明るい時間が良いな。またいつか行こうよ」
「……そうだね」
 僕たちは民宿に戻った。

 話を逸らそうとしたのか、それとも本当に雨を察知できるのか。実際のところは分からない。ただひとつ確かなことがあるとすれば、三十分後、この三泊四日の間で、一番の大雨が降った。

 そして僕たちの短い旅行が終わった。
 一週間後、ふたりで市立図書館に行った時、葉瑠がノートの端に言葉を綴った。その姿を見ながら、学校の図書室で交わしたやり取りを思い出していた。

 葉瑠が、にこり、とほほ笑む。

『城阪くんと、付き合いはじめました』


17、僕の知っている、すべてのこと。


 試合は、雨天決行だった。

 高校生三年生になった僕たちは、その時、岐阜市内にある地方球場のスタンドにいた。傘差す僕たちの前方では、タオルを首に巻き、透明のレインコートに身を包んだブラスバンド部の部員たちが、『タッチ』のテーマ曲を高らかに鳴らしている。

「やっぱり来ないほうが、良かったかな」
 全国高校野球大会の地方予選は、準々決勝まで進んでいた。優勝候補で、去年の夏の大会で準優勝だった頃とは違い、今年はいつ負けたとしてもおかしくない状況だ、と語っていたのは、城阪だ。僕に言っていたわけではなく、たまたまそう話しているのを耳にした。野球に対して、彼はネガティヴなことを言わない印象があったので、意外な気がしたのを覚えている。

「行かなかったら、あとで城阪に文句言われるよ」
 ぱっ、ぱっ、と傘のビニール部分に当たる雨の音が、やけに耳の奥に残った。

「康史くん、そんなこと言わないよ。たぶん」
 康史くん、か……。一年前には、彼女の、彼への呼び方がこんなふうに変わるなんて想像もできなかった。もう慣れてしまった、とはいえ、いまだに胸の先に、ちりり、と痛んでしまうような感覚がある。

『城阪くんと、付き合いはじめました』
 そう綴られた言葉を見て以来、僕たちの関係が変わったか、というと、あまり変化はなかった。すくなくとも表面上は。僕の心に多少、空虚なものは生まれたが、文芸部を辞めることもなく、たったふたりの活動は続いていた。

 康史くんは、ちょっと嫌がるんだけど、ね。ため息まじりに、葉瑠が、僕に言ったことがある。彼が、そんな独占欲にも似た感情を直接言葉に出すのは、すこし意外な気もした。

 じゃあ、文芸部、辞めようか。
 葉瑠の話を聞いて、僕はそう伝えた。怒りでも、投げやりなものでもなかった。ただ純粋に気後れがあったのだ。だって僕が逆の立場になっていたら、城阪と同様、あまり良い気持ちはしなかっただろうから。

 それは結城くんが決めればいいよ、と葉瑠から言葉が返ってきて、どうしようかな、と迷っているうちに、ずるずると来てしまった形だ。

「でも、私が来なかったら、晴れていた、と思わない?」
「否定できないのが、怖いところだね」

 マウンドに立っているのは、城阪だ。雨をわずらわしそうにしながらも、七回の裏が終わって、相手チームを無得点に抑えている。相手は優勝候補の一角だが、うちの高校が一点差で勝っている。

 城阪はいまも変わらずプロ注目のエースだ。
 学校で一緒にいる時は、同じただの高校生にしか思えないのだけれど、こうやって野球部として活躍している姿を見ていると、同い年の高校生、という事実を忘れそうになってくる。

 八回表、先攻だった相手の高校が簡単に三者凡退に終わる。簡単に、と僕は観客でしかないから言えてしまうけれど、試合中の彼らにしてみれば、必死だろう。

「そう言えば、なんできょう、来る気になったの?」
 試合の合間を縫うように、葉瑠が言った。

「なんで、って?」
「だっていままで、野球部の試合に来たことなんて、一度もなかったよね」

 過去に何度か葉瑠に野球部の試合に誘われたことがある。僕はそのたびに断っていたし、なんでわざわざ僕にそんなことを言うのだろう、とそんな未練を残した人間らしい想いもあった。

 なんで?
 そんなの、決まっている。表情の翳りに気付いてしまったからだ。

 付き合ったあとの、城阪と葉瑠がどんな日々を過ごしていたのか、僕は知らない。僕ができるだけふたりの関係に目を閉じ、耳をふさごうとしたからだ。でも最近の葉瑠の表情は明らかに暗い。葉瑠は隠せているつもりなのかもしれないけど、それなりに付き合いがあれば、すぐに分かってしまう。僕だけではない、傘原も気付いている様子だった。

「葉瑠。城阪くんとうまくいってない気がする」
 以前、傘原がそんなことを言っていた。

「どうなんだろうね」
「何、その興味のない返事。自分の物にならなかった女の子は、どうでもいい?」
 冗談めかして、傘原が言った。でもそこには僕に対する嫌味も込められていたはずだ。どうも傘原はあまり城阪に良い印象を抱いていないみたいで、実はこっそりと言われたことがある。あんなのと付き合うくらいなら、前も言ったけど、結城が良かったな、と。

 八回裏。先頭打者がヒットを打ち、打順は三番の城阪だ。

「せっかくだから、高校のうちに一回くらいは、って思って」
 と、嘘をついた。
「ふぅん……」
「まぁ、なんとなくの興味だよ」

 かきん、と金属音が響く。城阪の振ったバットは、大きな飛球になり、スタンドへと向かっていく。だけどそれはファールになってしまった。

 すこし雨足が強くなった。

「……そう言えば、康史くん、雨が嫌いなんだって。中学生の時、雨の日の試合で、押し出しの死球で負けたことがあるらしくて、それ以来、雨の試合はトラウマ、って言ってた。やっぱり来なきゃ良かったかな」
「でも、きょうの試合はまだ勝ってる。その時は負けたかもしれないけど、勝てばそのトラウマだって、払拭されるさ」

 反射的に出た言葉だった。城阪の心を知ったように、僕が言うのも変な話だけれど。

「そう、だね」
 言葉の歯切れは悪い。

「もしかして、だけど……」
「うん?」
「最近……、あっ――」
 僕の言葉をさえぎるように、また金属音が鳴り響く。

 快音だった。

 だけど打球はファーストライナーになり、走者も戻り切れず、タブルプレーになってしまった。そして続くように四番打者は三球三振だった。

「駄目だったね。……それで何、言いかけてたの?」
「あ、いや。たいしたことじゃないから、大丈夫」

 もしかして城阪とうまく行ってない?

 そう聞くつもりだったけれど、いまの打球音によって、気持ちがそがれてしまった。それに本当に、彼らがうまくいってないのかどうか、僕には分からない。頼りになるのは、傘原の言葉だけで、良好な関係のままだったとしたら、ただ僕が恥ずかしい想いをするだけだ。聞きたくても聞けない感情に、僕は内心で折り合いをつける。

 九回表、相手チームの攻撃がはじまった。
 三振、三振、とふたつアウトを重ねて、あとアウトひとつで試合終了、こちらの勝利、となるところで、明らかに城阪の様子がおかしくなった。
 ヒット、四球、四球、と満塁になり、そして相手の四番打者に打順が回る。

 そして試合を決定づける大きな音が鳴った。
 それが僕の人生ではじめて見る、テレビ以外でのホームランだ。
 九回裏の攻撃は劇的なドラマもなく、凪いだような三者凡退だった。

 彼らの負けが決まったと同時に、雨が、止んだ。

 泣いている同級生の姿を、泣くことさえもせずにぼんやりと虚空を見続ける城阪の姿を、見ていることができずに、僕たちは球場をあとにした。

 帰り道、彼女がぽつりとつぶやいた。

「私がいなかったら、勝ってたのかな」
「……それは、さ。たぶん、必死で練習してきた彼らに失礼だと思うよ。僕には言ってもいいけど、城阪には絶対、言っちゃ駄目だよ」
「言わないし、言えないよ。それにもう言える関係でもないんだよ」
 ちいさく、寂しそうに葉瑠が笑った。

 別れ際、とても意味深な言葉の答えを、彼女は教えてくれなかった。

 そのまま夏休みに入った。その年の、高校最後の夏休みの間に、僕たちが顔を合わせることはなく、ゆるやかに、これと言って特別なこともないまま過ぎていった。

 夏が終わり、学校がはじまった頃、僕は葉瑠から、放課後、コーヒーショップの〈ラ・テリア〉に誘われた。
 コーヒーカップから、湯気が揺らめいている。

「結局、最後まで文芸部は三人のままだったね」
「まぁ、まったく勧誘もしなかったから、当然の結果のような気もするけど」
 コーヒーを持つ葉瑠の手が、すこしだけ震えていた。

「文芸部、解散しようか?」
「あんなに部としての伝統を、って言ってたのに」
「口実だよ、そんなの。私の三年間だけであっても欲しいな、っていう、私のただのわがままだから。気付いてなかった?」
「気付かなかった」
 もちろん気付いているに決まっている。だけど言わなかった。

「それで、どうする? 実は未希には、もう話したんだ。そしたら、文芸部は私の部であって、私の部じゃないから、ふたりで決めるといいよ、って言われた」
 幽霊部員を公言していた傘原は、最後まで幽霊部員だった。たぶん参加しようと思えば、いつでも参加できたはずだ。でもある時期から、意識的に幽霊部員であろうとしていたようにも見えた。だから傘原と文芸部との関わりは、僕に不信感を持っていた、最初の頃くらいだ。それ以外の三人で括られる僕たちは、部活なんて関係のない、ただの友人同士だった。

「じゃあ、解散しようか?」
 葉瑠が、その答えを望んでいるように思えたからだ。葉瑠はちいさく息を吐き、そして頷いた。

「……ふたりきりの時間も、もう終わりだ、ね。ちょっと残念。でも、受験勉強とかしてるの? どこの大学に行く、とか決めた?」
「まぁ候補はいくつか……」
 と言いながら、いつかもこんなシーンがあったな、と思った。その時の相手は葉瑠ではなく、場所も中学校の教室だったけれど、なんだか懐かしくなってしまった。

 ふぅん。高校受験、だもんね。もうすぐ。どこの高校を受けるか決めた?

 と、かつて亜美の言葉がふとよみがえる。いまこの場に、亜美はまったく関係ない。なのに僕は、亜美はいま、どうしているのだろうか、と考えてしまっていた。無意識に葉瑠から意識を逸らそうとしていたのかもしれない。

 葉瑠が、僕に何かを伝えようとしている。表情からは察していたけれど、それが何かまでは分からないけれど、文芸部のこととか、大学受験のこととかは、話の本筋ではない。

 意を決して、僕は葉瑠に聞いた。
「何か、あった?」
「何か、って?」

「僕に伝えたいことがあるから、ここに誘ったんでしょ。学校じゃなくて、わざわざこんな場所に。いままでのことなら、別に学校で話しても良かったことだと思うし」
「鋭いね。いつもは鈍感なくせに。……なんだと思う?」
 やっぱりいままで見たことのないほど、葉瑠は緊張している。

「具体的なことは分からないけど、……城阪のこと、かな」
「当たり。別れたんだ。ずっと黙ってたけど、夏の、ちょっと前くらいに。彼に、振られたんだ」
 葉瑠は、別れた理由までは語らなかった。ただ、その事実だけを語った。そこからの僕たちの会話は明らかにすくなくなった。

 店を出ると、辺りは暗くなっていた。やっぱりその日も、雨が降っていて、僕が傘を差すと、葉瑠が僕の傘の下に入った。相合傘だ。葉瑠も、傘を持っているのに。僕の表情から気持ちを察したのか、

「まぁいいじゃない。たまには」
「いや、恋人同士なら分かるけど……」
「じゃあ、私と恋人になろうか。いまの私は、フリーだよ」
 そして葉瑠は傘を握る僕の手に、自分の手を重ねる。

「何、言って――」
「……って言ったら、どうする?」
「なんだ、冗談か……」
「さぁ、どうかな」
 葉瑠が、笑った。

 暗くよどんだ夜の闇に、街灯の光だけがあらがっていた。

「本当に、葉瑠といると、雨が降るね」
「それが、私、だからね」ねぇ、と彼女が続ける。「これからふたりで、どこか遠くへ行かない。ふたりで。他の誰もいない。お願い」

 彼女の手の震えが強くなるのを、触れ合うこの手が、確かに感じた。怯えている、何に怯えているのかは分からなかったけれど……。

「どこに?」
「海に。ほら前に約束したでしょ、また行こう、って」
「こんな夜中に?」

 僕は、もしかしたら、といまでも本気で考えていることがある。彼女は冗談なんて何ひとつ言っていなくて、僕が迷わず、行こう、と頷いていたら、僕たちはまったく違う未来を歩んでいたのではないか、と。

「冗談だ、よ」
 と、葉瑠の手が僕から離れる。傘の下から出て、雨にぬれる彼女が、寂しげに僕にほほ笑んだ。
「葉瑠?」
「ごめんね。変なこと言って。私、きょう、もう帰る。また、ね」

 走り去っていく葉瑠の姿は、闇に消えていった。
 これが生きている葉瑠に会った最後だ。

 数日後、彼女は死んだ。みずからの命を絶った、と言われている。僕に彼女の死を伝えてくれたのは、城阪だった。なぜ城阪がわざわざ僕にそんな電話してきたのかは分からない。気が動転して、とにかく誰かに伝えたかったのかもしれない。

 城阪にそんなつもりはなかったはずだ。だけど泣きながら、僕に葉瑠の死を告げる言葉を聞きながら、僕は責められているような気持ちになっていた。僕があの時、彼女の震える手を取っていたなら、彼女はまだ、と。

 もしかしたら城阪も、いや城阪のほうが僕に責められている気持ちになっていたかもしれない。だって死んだ葉瑠は、その数か月前に彼に失恋していたのだから。僕なんかよりも、自分自身を責めていてもおかしくない。

 葉瑠が死んでから、僕と城阪はお互いに会話を避けるように、しゃべることはなかった。すれ違った時の挨拶くらいだ。だけど一度だけ、ふたりで話したことがある。

「なぁ死んだひとのこと、いつになったら忘れられるのかな」
 と彼が言った。僕はどうしてもこの言葉が許せなくて、つい聞いてしまったのだ。

「葉瑠のこと、振ったんだろ」
 彼は、僕の言葉に驚いた表情を浮かべていた。

「何、言ってるんだよ? 俺はずっと、最初から最後まで、彼女が好きだった。確かに別れはしたけど……」
 葉瑠同様、城阪も別れた理由については教えてくれなかった。僕としても無理に聞くことはできない。結局、僕は彼らの関係において、部外者だから、だ。

 その頃からだ。

 僕が、幽霊を視認できるようになったのは。最初はその事実が信じられなかったけれど、確かに僕の周囲に死んだひとたちが、実際に目に入ってくるのだから、疑いようがない。幽霊か、あるいは僕の頭がおかしくなっているのか、のどちらかだ。だとすれば、幽霊であって欲しい、と僕は自分自身で、あれは幽霊なんだ、と決め付けることにした。

 たぶん彼女の死が、この能力を得るトリガーになっていたのだ、と思う。
 タイミング的にもそうだけど、何よりも最初に視た幽霊も葉瑠だったから。合っているか、なんて分からない。勝手に僕がそう考えているだけだ。

 その頃の幽霊だった葉瑠とは、話していない。

 怖かったからだ。幽霊が、という意味ではない。あの時、葉瑠が伸ばしていた手をしっかりと握っていれば。そんな僕の後悔を、彼女自身に指摘されてしまうことが、怖くて怖くて仕方なかった。

 だから僕は、死者となった彼女を無視し続けた。
 僕は受験しようと思っていた地元の大学を、県外の別の大学に変更した。合格した僕は、逃げるように、岐阜を出た。

 これが、僕が彼女について知っている、すべて、だ。
 そして長い長い回想を終えて、僕は、いま、へと戻っていく。


18、回想を終えて、真実と向き合って。


『久し振りだね。小学校以来かな。この公園に来たの。俊くん』
「なんでいきなり下の名前?」
『ずっと結城くん、って呼んでたけど、本当は、こう呼んだりしてみたかったんだよね。ほら、小学校の時、誰にでも下の名前を呼ぶ女の子っていたでしょ。結構そういう子、って女の子から嫌われたりしてたけど、実は私、ちょっだけ、憧れてたんだ。だから文芸部で一緒になって、チャンス、って思ったんだけど、ね』

 屋敷を出て、僕たちはふたり並んで歩いた。夜の町で、白くぼやけて浮かび上がる葉瑠は、どこか幻想的だ。周囲には誰もいない、仮に誰かいたとしても不審者だと思われるのは、僕だけだろう。彼女はきっと、他の誰にも見えないはずだから。

 幽霊屋敷をあとにして、僕たちが目指したのは、むかし、僕たちがかくれ鬼をした公園だ。特別な理由があったわけではない。古い記憶を語り合う中で、懐かしさが萌したのだろう、葉瑠が、行きたい、と言ったのだ。

 雨は変わらず、まだ降り続いている。
 僕の差す傘の下に、葉瑠も入っている。あの頃を思い出すような相合傘だ。

「思うんだけど、さ。幽霊なんだから、傘に入る必要ある?」
『空気の読めない男は嫌われるよ。良いじゃない。こういうのは、雰囲気が一番大事なんだから』
「そうは言っても、さ。こっちは肩が濡れて――」
『はいはい』
 と言いつつ、葉瑠はとても楽しそうな表情だ。その表情を見ていると、もう死んでいるとは思えない。

 僕もこの公園に来るのは、本当に久し振りだった。最後に訪れたのは、確か葉瑠が死んですこし経った頃だ。冬に入ったばかりの時期で、小雪がちらついていたのを覚えている。小高い丘から、ただ景色を眺めていた。感傷に浸ることで、ほんのわずかでも葉瑠に関するあらゆることから逃れたかったのだ。だけど結果は、葉瑠との記憶を、より鮮やかにするだけだった。

 深夜の雨降る公園に、ひとの姿はない。僕たち以外は。

「結構、寂しくなったね……」
 公園に入ってすぐに、ぽつり、と葉瑠がつぶやく。以前はあった遊具の多くは撤去され、公園は、遊び場らしさをうしなっていた。

「どこ、行こうか?」
 僕の言葉に、葉瑠が小高い丘に向けて、指を差す。そこには当時のまま、屋根付きのベンチが残っている。隣に並んでベンチに座る。街灯を頼りに見える景色は、雨の音をともなって、寂しげだ。葉瑠がベンチの前に置かれたテーブルの表面を撫でた。かくれ鬼をした時、葉瑠はこの下に入っていたわけだ。思ったよりも狭く、子どもの頃だから入ることができたのだ、とあらためて感じる。

『私に何か聞きたいこと、あるでしょ?』

 なんで、葉瑠は死を選んだのか。
 僕はそれをずっと聞きたい、と思っていた。葉瑠とふたたび会うまでは。

 だけど僕は、勘違いしていたのだ。記憶にしかない過去をめぐる中で、僕は違和感を覚えていた。たぶん彼女に聞くべきは、そんな言葉ではなく、もっと別のものだ。

「……さっきは言えなかったんだけど、さ。数子さんの日記の犯人、って誰なんだろう」
『どうしたの、急に』
 脈絡もない僕の言葉に、葉瑠が戸惑った表情を浮かべている。

 あの屋敷でむかし僕が見つけた日記。あそこに書かれていたのは、浮気を疑った数子さんが義理の両親に相談して、それをきっかけに夫である弘也さんから、強い怒りを買ってしまう、というものだ。もともと嫉妬深い性格だった弘也さんは、数子さんを叩いたりもしていたらしい。久し振りに叩かれた、という表現を使っていた以上、一回や二回のことではない、と考えるべきだろう。

 そして日記の最後には、自身の死がほのめかされている。

 かつて僕と菱川はそれを見ながら、どっちが犯人か語り合った。幼い頃は、好奇心に駆られて探偵ごっこを楽しんでいたけれど、いま思えば、そんな過去こそが憎らしくなってくる。

「あれの犯人、僕はやっぱり日記に書かれている通り、夫の弘也さん、だったんじゃないかな、って思うんだ。言葉の内容は、すべて真実だったんだ」

 嘘、だった。
 日記の内容なんて、実はどうでも良かった。彼女に何があったのか、僕はすこしずつ気付きはじめている。
 この言葉で、同じような境遇にあったのかもしれない葉瑠が、どういう反応をするだろうか知りたかったのだ。

 だけど彼女に、動揺した素振りはない。
 何故、かつての僕たちは、あの屋敷で未来の葉瑠を見たのか。さっき彼女と話した時は、ここが特殊な場所だったから、不可思議なものを引き寄せていたのかもしれない、とそんなふうに答えてみた。でも僕のあの想像は間違っていたような気がする。これも結局は想像でしかないのだけれど、もうひとつ浮かんだ考えがある。

 いつか訪れる葉瑠の未来が、屋敷に住む数子さんの人生と重なり、その共鳴が、ほんのわずかな幻想を浮かび上がらせたのかもしれない。

 ただの想像に過ぎないのだけど、僕はそちらの可能性を信じたくなった。

『言葉を読む時、ね。言葉をそのまま読むんじゃなくて、言葉の先にいるひと、その心を想像してみるといいんじゃないかな。そうしたら、同じ言葉でも、まったく違う何かが浮かび上がってくるかもしれないよ』
 彼女がちいさく笑って、言った。

 それは高校時代にも、何度か聞かされたことのある、彼女の口癖のような言葉だ。

 僕はもっと考えるべきだった。
 言葉の先にある、その心について。

「ずっと、なんでだろう、って思ってたんだ」
『何を?』
「なんで、みずから命を絶ったんだろう、って」僕のせいかもしれない、と自分自身を責めた回数は数えきれないくらいだ。「僕は前提から間違っていた。だからすべてがおかしくなる」

『どういう前提?』
 葉瑠が、僕をじっと見る。僕の口から出る言葉が何か、もう察しているような表情だ。

 どこかで気付いていたような気もする。でもそんなことはない、とこの前提だけは、意識の外へと弾いていたのかもしれない。

「葉瑠、きみは殺されたんだね――」


19、葉瑠が知っていたこと、僕が知らなかったこと。


 僕の言葉に、葉瑠は否定も肯定もせず、ただひとつ息を吐いた。

『どこから、話そう……。じゃあ、私が康史くんにはじめて告白された時の話をしようかな。高校二年の、彼の春季大会の途中だった、と思う。好きだ、っていきなり言われて……、いや、突然でもなんでもないか。予感はあった。良くも悪くも彼は自分の想いをストレートにぶつけてくる、すごく分かりやすいタイプだったから』
「春季大会の途中? 終わった後、じゃなくて?」
『うん?』なんでそんなこと聞くの、と葉瑠が首を傾げる。『途中だったよ。これは間違いない。告白される前まで、私に、次の試合緊張するなぁ、って言ってたから』

 告白する、という宣言を、僕が城阪から聞かされたのは、春季大会のあとだった。もしかしたら僕はこの時点ですでに、大きな勘違いをしていたのかもしれない。

「それで告白の結果は?」
『もちろん……断ったよ。好きなひとがいる、って』
「好きなひと……」
『想像にお任せします。……でも嬉しい気持ちもあった。嫌いなひとならなんとも思わなかった、と思うけど、康史くんのことは嫌いじゃなかったから。ただ一番じゃなかっただけ。友達のままじゃ駄目かな、って私が答えた時も、彼は爽やかで、ごめん、変なこと言って、なんて笑顔のままだった。優しいひとだな。そんなふうに思ったけど、たぶんあれは違うんだ。自分自身の感情を必死に抑えるための方法が、それしか思い付かなかったんだ、と思う。彼は、とても弱い心を持ったひとだから』

 葉瑠は寂しげに、すこしだけ棘のあることを言った。

「弱いなんてイメージ、ないけど……」
『ううん。もちろん私も、あなたも、誰しもがひとつやふたつは心に弱さを持っている、と思うよ。彼だけが特別だって言いたいわけじゃない。でも彼は、いままで弱さを見せる隙もなく生きてきたからか、心のもろい部分に、どう折り合いを付ければいいのか、分からなかったのかもしれない』
「詳しいね」
『恋人だったから、ね』その声の響きには、どこか虚しさがある。『一度断ったあとのことだった。知ってる? 私と彼が付き合っている、って噂が流れてたの?』
「まぁ、一応、は」

 海へ行った時、僕が聞きたくても聞けなかった、あの噂だ。

『あの頃、結構大変だったんだよ。康史くんのことが好きだった子たちから陰口言われたり。……彼も否定してるんだろうな、って思ってたら、肯定も否定もしてなくて、思わせぶりな態度を取ってたんだ。はじめて違和感を覚えたのはその時かな。まぁでも怒るほどじゃないし、格好つけたかったのかな、って思うくらい』

 葉瑠は苦笑いを浮かべている。

「でも、そのあと本当に付き合ったのは……」
『もう一度、告白されたんだ。一回負けたくらいで終わりにはしない、って思うところが、スポーツマンな感じだよね。誰かさんと違って』

 僕を見る彼女の目に耐えられず、顔を逸らした。

 心のどこかで思ってたんだ。俺、自分が優しいやつだって、ね。だけど違うみたいだ。お前たちふたりを見てると、さ。

 葉瑠に告白することを僕に伝えた時の、彼の言葉を思い出す。抜け駆けするような態度を取ってしまったことへの罪悪感から来ているものだとばかり考えていた。でもそれよりもずっと前から彼は、彼女に告白をしていた。だったら、なんで城阪はあんなことを言ったのだろうか。

「その告白は、いつ?」
『三人で海に行った時より、ちょっと前かな。ふたりで遊びに行きたい、って言われて、その帰りに。断るつもりだった』
「つもり……?」

『まぁさっきも言ったけど、私には好きなひとがいたから』ねぇこっち向いてよ、と葉瑠が僕のほおに手を添える。手のひらの感触はない。改めて、彼女が幽霊だと実感する。『そしたら、康史くんが言ったんだ。結城には好きなやつ、いるよ、って』

「なんでそこで、僕の名前が?」
『分かってるくせに。俊くんのそういうところ、良くない、と思うな』
「そうだね。ごめん」

『素直でよろしい』ようやく目を合わせた、と葉瑠が続ける。『だから私、海で聞いたでしょ』
 結城くん、って、好きな子いる?
 あの時、葉瑠はどんな気持ちで、この言葉を吐き出したのだろう。

「葉瑠……それは――」
『大丈夫。もちろん嘘だって分かってる。でもやっぱり気にはなるから、一応は聞いておこうと思って。無いとは思うけど、もしかしたら未希ちゃんかも、って悩んだりもしたんだよ』

 雨が強くなる。だけど屋根に守られて、ベンチにまで侵入してくる様子はない。
 星でも瞬いていたなら、すこしこのどんよりした気持ちに変化をくれただろうか。だけど黒ずんだ雨雲に隠れて、見ることは叶わない。

「僕は、好きなひとなんて、いなかったよ」
『いなかったの?』
「ひとり以外」

 彼女が、ふふ、と笑う。

『ありがとう。……って言って、全然別のひとだったら、恥ずかしいね』そんなことは絶対にない、と分かっているような表情だ。『確実と言えるくらいに自信があったわけじゃないけど、康史くんが嘘をついてるんだろうな、っていうのは、分かった。そこまでして私と付き合いたいんだったら、別にそれでも良いかな、なんて気がしてきて。憎からず思っているひとから好意を向けられたら、やっぱり嬉しいもんだよ』

 それに一番のひとは、私の差し出した手に気付きながら、握ろうともしなかったからね。

 葉瑠の目が、そう語っているような気がして、僕はなんて返していいか分からなくなった。

「うん」
 と、自分でも感情の不明瞭な相槌が、ひとつ口から出ただけだった。

『責めてるんじゃないんだ。……ただ、もしも、の世界を考えてみてるだけ。もうひとつの世界での私はいまごろ、どういう人生を送っているんだろう、って。幸せに生きてるのかな。どう思う?』
「それは、分からない。僕もその世界の住人じゃないから」
『そっか。でもそういう時は、嘘でも、幸せにしてみせたよ、くらい言えるようにしておくといいよ。あぁだめだ。仮定の話は、虚しくなる。……話、戻すね』葉瑠の表情が、すこし翳りを見せる。『それで、二年生の夏頃か。その辺りから、康史くんと付き合いはじめたんだけど……、うん、最初はとても楽しかった、かな。優しかったし、爽やかな彼は、たぶん彼氏としては完璧に近いひとだった。一点だけ除いて、とても完璧な』

 葉瑠が立ち上がり、机のうえに座る。話すことへの、かすかなためらいがあるのかもしれない。

「葉瑠、もし話したくないなら、別に話さなくてもいいよ」
『大丈夫。聞いて欲しいから。私が知っていること、見てきたこと。本当は生きている間に言いたかったんだけど、あなたを前にすると、言えなくなった。あなたを巻き込むのが怖くて、もあるし、何より知られることで嫌われるのが、怖かった。きっかけは三年生になる、ちょっと前くらいだったかな。確か学校で、ね。康史くんが告白されたらしくて。断ったんだ、っていう話を、彼が、私にしてきたんだ』
「でも確か、その頃、って……」
『うん。もうほとんどみんなに知れ渡っているような状況だったから、もちろんその子も知ってたよ。私たちよりひとつ年下の女の子で、ほら、よく男子が学校で一番かわいいなんて言ってた、あの子』

 その言葉を聞いて、ぼんやりと顔が浮かぶ。不確かな記憶を頼りにしているから、自信はない。ただとても美人な女の子だった記憶がある。

古山ふるやまだっけ、古瀬ふるせだっけ……。確か、そんな名前だったよね」
古川ふるかわさん、だよ。……あぁでも、彼女は何も悪くないし、関係ないんだ。問題はそのあとの、私たちの会話。俊くんの件でもそうだけど、康史くんは、嫉妬深くて、他人を過剰に束縛してしまう性格で、根底にはつねに危うさがあるんだ。……私、なんて言ったんだったかな? わざわざ言ってくるなんて怪しい。隠れて付き合ってるんじゃないの、とか、確かそんな感じのことを言って……。ちょっとした冗談のつもりだったんだけど、どうも、触れちゃいけない場所を刺激しちゃったみたいで』
「それで、結城は?」
『顔を真っ赤にして、怒鳴り散らしてた。俺がそんなことするわけないじゃないか。なんで、そんな言い方するんだ。それこそお前のほうが、みたいな、ね。その時、康史くんが、お前だって、こっそり結城と、なんて言ってきて。私は全然気付かなかったんだけど、付き合ってからも、彼は、私とあなたの関係をずっと疑ってたみたい』
「僕たちは本当に、何もなかった」
『それは私が一番、知ってるよ。私は完全に諦めたつもりだったのに、勝手に疑われるなんて、ひどい話だ』

 苦笑する葉瑠はどこか楽しげだ。楽しい話でもなんでもないのに。もう彼女にとっては、過去、でしかないのだろう。

「葉瑠……」
『そんな顔、しないで。そんな顔、されたくない。……で、どうする? 続きを聞く。ここからは、楽しい話なんか、何ひとつ、ないよ』

 その顔は、いまの僕なんかよりも、大人びて見えた。

「聞くよ」

 色彩のない世界を語るように、葉瑠の言葉は淡々としていた。
『何から、話そうかな……。まずは文芸部の活動だね。これは許してくれたけど、でも必要以上に結城には関わるな、って言われたな。なんであなたが勝手に決めるの、って思ったから、すこし逆らった面はあるけど、やっぱり以前のようには、話せなくなった。ごめんね』
「謝らないでくれ」

 葉瑠は謝ったけれど、本当に謝るべきは僕のような気がする。だって僕は、いままで通りの変わらない関係だ、と違和感さえ覚えていなかったのだから。

『うん。ありがとう。あとはなんだろ、他のひとでも、そう。特に男子と私が関わるのは、絶対に嫌だ、って怒ったり、泣いたり、してたな。そんな無茶な、って思ったけど、本気のトーンで言ってくるから、何も言い返せなかった。未希ちゃんにも相談したんだ。そんなやつと別れたら、って。でも、こうなんて言うのか……、このまま彼を見捨てていいのかな、みたいな気持ちもあって、迷い続けてた』

 傘原、知ってたのか……。
 あんなのと付き合うくらいなら、前も言ったけど、結城が良かったな。
 傘原は確か、そんなことを言っていたはずだ。あんなの、という言い方はやけに辛辣だな、と思ったけれど、葉瑠から相談を受けていたのだとしたら、その言葉もしっくりとくる。

「でも、別れることにしたんだ、よね?」
『うん』
「そっか」
 逆だ、とずっと思っていた。振られた、という〈ラ・テリア〉で最後に会った時の、彼女の言葉を鵜呑みにして。

『夏の大会がはじまる前に、ね。私のことなんて忘れて、野球に打ち込んでください、って、そんな気持ちだった。でも、もしかしたら、私の判断は間違ってたのかもしれない。まぁ、どうしたら良かったか、なんて、結局は分からないんだけど、ね。別れてからが、はじまりだった。嫌がらせ、されるようになったんだ』
「どんな――」
『聞きたい? 家の前でずっとうろうろしたり、スマホに大量のメッセージを送ってきたり、もう別れてるのに、まだ恋人だって周りに言ったり。簡単に言えば、そんなこと。でもどんなことを言われたとか、詳しいことは言いたくないな。あまりにひどすぎて』

 ストーカーになった彼のイメージが頭に浮かぶ。ぴんと来ないのは、僕が彼の暗い一面を知らなさすぎるからだろう。だけど確かに、事実としてあったことなのだ。

「大丈夫、聞かないよ」
『……うん。それから、夏が終わった頃だったかな。私の心は、もう限界だった。穏便に済ませることができないくらいに。自分でも驚いたんだけど、私ってこんなに強く相手を攻撃するような言葉、口から出せるんだな、って。たぶん康史くんより、私自身のほうが驚いてた、と思う。でも、そうしないと、終止符が打てないような気がして。……その次の日だったかな。〈ラ・テリア〉にあなたを誘ったのは。俊くん、本当に鈍感なんだから』

 葉瑠が眼をつむる。瞳の奥にある悲しみを、見られたくなかったのかもしれない。彼女の言う通り、本当に僕は鈍感だ。何も気付くことができなかったのだから。あの日、コーヒーカップを持つ葉瑠の手は、震えていた。震えの裏に隠されていたのは、僕が想像する以上の、恐怖、怒り、緊張、だったわけだ。

「僕は――」
『でも私は、俊くんがそのくらい鈍感で良かったな、って思ってる。私はあの日、あなたに打ち明けようと思ってた。でも同時に、私の底にある暗い部分は絶対に見られたくもなかった。矛盾した気持ちがあったから。あれで良かったんだ、きっと。ありがとう。鈍感で、いてくれて』
「気付いていたら、きみの死はなか――」
『さっきも言ったけど、仮定の話は虚しくなるだけだよ。お互いに。現実として、死んだ私が、ここにいる。……あなたと別れたあと、私、高熱が出てね。何日か、私、学校休んだんだ。それでようやく熱が引いてきた時だったかな。お見舞いに来たの。康史くんが。私の住んでるマンションに。両親も仕事でいなくて、私ひとりだった。たぶん彼もそのタイミングを狙ったんだ、と思う。入れるか迷ったんだけど、いままでのこと謝りたい、って言われて。部屋の中に入れるのは嫌だったから、私が外に出て、屋上で話すことにした。他のひとには見られたくなかったから』
「屋上、って……」

 嫌な言葉が、頭に浮かぶ。飛び降り自殺。かつて僕が新聞で見た言葉だ。

『だって仕方ないでしょ。彼から嫌がらせみたいなことはされたけど、やっぱり心の底では信じたい、って気持ちはあったし、それに、そもそも自分の身近なひとがあんなことをするなんて思わないよ。そんなのは遠い世界の出来事だ、って』
「あんなこと……」
 もうそれ以上は、聞きたくない。だけど制止する言葉を、自分の口から出すことができなかった。

『私の住んでたマンションの管理人さん、って悪いひとじゃないんだけど、管理がずさんで、本来なら立ち入り禁止にしてないといけない屋上へ行くドアに、いつも鍵を掛けていなくて。柵もないマンションの屋上で、彼に言われたんだ。私の前の攻撃的な言葉に絶望したのかもしれない。もう俺は、お前のいない世界で生きていけない。関係を戻せないなら、一緒に、ってね。彼が屋上の端に向かって歩き出して、慌てて止めようと近づいた私は……、突き飛ばされたんだ。ふらついて落ちそうになって、私、必死に手を伸ばして、た。彼に向かって、ね。だけど、私の手を掴んでくれることはなかった。一緒に死ぬために、先に私を殺そうとしたのか、それともただの勢いだったのか、私には分からない』葉瑠が一度、言葉を切る。『軽率な行動だって、もちろん分かってる。でも、さっきも言ったけど、遠い世界の出来事、って思ってたから。ひとがひとを殺そうとする現場に自分がいる、ってなかなか思えないものだよ……』
「でも、事故でも殺人でもなく、自殺になった」

『警察のひとが、どう判断したのかは分からないけど、私、部屋に遺書を残してたから。もしかしたら、そのせいもあったかも』なんで遺書なんて、と僕が聞く前に、彼女が言った。『あの時期は、本当に精神的に参ってたから、つい勢いで書いたやつがあって。私が死んだ後、警察と康史くんの間に、どんなやり取りがあったかは知らないけど、自分が原因です、なんて絶対に言わないだろうし、ね』

 彼が逮捕された、という事実はない。その結果を、僕は知っている。
 疲れを吐き出すように、葉瑠が、ひとつ息を吐く。幽霊でも疲れるのか、と僕はそんなどうでもいいことを考えていた。

 ふたりが屋上にいた、ということは、雨はまだ降っていなかったはずだ。だけど、彼女の死体は雨に濡れていた、と僕は後になって、クラスメートから聞かされている。死んだ葉瑠に降り注いだ雨は何を思っていたのだろう。血だまりに眠る彼女をすこしでも綺麗にしたかったのかもしれない。彼女は、雨に愛されていたから。

 なぁ死んだひとのこと、いつになったら忘れられるのかな。

 城阪の言葉を思い出す。やっぱり彼は卑怯だ。一緒に、と言いながら、彼女が死んだ後も、生き続ける道を選んだのだから。でも人間なんて、そんなものなのかもしれない。

「城阪が死んだの、転落事故だって聞いたけど、もしかして……」
『この姿になったあと、彼と再会したのは、偶然だよ。私は意識的に、彼を避けていたから。もし会えば、私の感情がおかしくなってしまいそうな、そんな気がして、ね。でも……駄目だった。会いたくないひとに限って、会っちゃうから。誓って言うけど、私は何もしてないよ。彼が勝手に、私に怯えて、それで、まぁ、そういうこと……。あなたと同じで、私が視えるみたいだった』

 雨がすこし弱くなった。このまま晴れれば、雨夜の星でも見られるだろうか。

「逃げて、ごめん」

 僕の言葉に、葉瑠が笑う。

『突然、言わないでよ。まぁあの時は無視されて、悲しかったけど……。私に気付いてるくせに、ってね。せっかく幽霊が実際にいたんだから、もっと楽しそうにしてくれれば良かったのに』と葉瑠が、からかうように言った。『まぁこうやって、また会えたから、良いよ。許してあげる』
「うん」
『あっ、やっぱり、いまの無し。許してあげない。……許す代わりが欲しい』
「代わり?」
『約束、守って。海へ行く、って』
「いまから?」
『さすがにこんな遅くに電車は動いてないから、あなたが帰る時でいいよ。……だって、ひとりは寂しすぎるから』
「本気?」
『さぁ、どうでしょう?』

 葉瑠が、僕に向けて、手を差し出す。実体のないその手に触れることはできない。

 彼女は、僕を連れていくつもりなのかもしれない。海へ、という意味じゃない。この誘いに乗ってしまえば、僕はもうこちら側へと戻ってこれないかもしれない。幻想が、死者の世界に、僕を引っ張ろうとしている。

 確証はない。ただ、そんな気がしただけだ。
 でも……。

「いいよ、行こうか。ふたりで、海に」
 それでもいい、と思った。
 
 はじめて僕は、彼女の手を掴めた気がした。


エピローグ

20、雨上がりと、終わる物語。


 翌朝、きのうから降り続く雨を見ながら、僕は荷物を担いだ。リュックに、たいした物は入っていない。何冊かの本とノートパソコン、折りたたみの傘や最低限の筆記用具、あったら役に立つようなものばかりだけど、いまの僕にとっては、必要のないものだらけだ。

 両親と姉に、
「ちょっと急だけど、帰ろうと思ってるんだ」
 と告げると、三人とも驚いた表情をしていた。それはそうだろう。きのう久し振りに帰省したばかりなのだから。急ぎの用事を思い出したんだ。大学の単位のために教授に会いに行く必要ができて。そんな適当で、下手な嘘をついた。両親は分からないけれど、明らかに姉は、僕の嘘に気付いていた。

 僕が家を出る時、姉が言った。

「どういうつもり?」
「何が?」
「あんな分かりやすい嘘までついて、どこに行くつもり?」
「ちょっと遠いところ」
「嫌なことがあると、すぐ遠くに行こうとする癖は変わらないね」
「……姉ちゃんは、幽霊、信じてる?」
「いきなり何それ。それにまた、その話……。きのうも言ったけど、視えないのは、いないのと一緒だよ」

 そう一緒だ。だから仕方ないじゃないか、視えちゃったんだ。大切な子がひとりで寂しがっているんだから。

「ごめん、変なこと聞いて。もう行くよ。じゃあね」
 困惑する姉にそう告げて、僕は背を向ける。姉が、僕の肩に手を置いた。振り返ると、深刻そうな表情をしている。本当に察しがいい。

「また、会えるよね?」
「何、言ってるんだよ。もちろん。ただ帰るだけだから、また来るよ」

 僕はまた、背を向ける。決意が鈍ってしまいそうで怖くなったのと、
 ほおからつたう涙を見せたくなかったからだ。

 これから僕はどうなるのか、自分でも分からない。

 駅に着くと、切符を買い、改札を通って駅のホームに入る。そこにはすでに葉瑠の姿があった。僕の姿を見つけて、嬉しそうに近寄ってくる。だけど葉瑠は僕に何も言わなかった。

 周りにはひとの姿があるから、気を遣っているのだろう。僕たちにとってはふたりの会話も、周りからすれば、ただのひとりごとだ。

 電車に乗ると、僕たちは隣同士に座った。乗客はそんなに多くはない。

『すこし眠ったら? 全然寝てないでしょ』
 葉瑠が言った。

「そうだね」
 葉瑠の言葉通り、僕は、ほとんど寝ていない。揺れる車内からぼんやり外を眺めていると、睡魔が襲ってくる。
 彼女の言葉に甘えて、僕はすこしの間だけ睡眠をとることにした

 眠りに落ちる直前、声が聞こえた。ごめんね、と言われたように思うけれど、自信はない。ありがとう、だったのかも、さよなら、だったのかもしれない。

 目を覚ますと、葉瑠の気配は消えていた。かつてふたりで見た、あの海へと向かう電車は、すでに故郷の岐阜を離れている。そのせいだろうか。いや違う……。もう二度と彼女とは会えないような気がした。

 葉瑠は、僕を連れていかなかった。

 どうしてだろう。どれだけ考えたところで、理由を知る唯一のひとは、もうどこにもいない。寂しくはあるけれど、それが彼女の選んだ道なら従うしかない。手を引かれなかった僕は、これからも生きていくしかないわけだ。

 車窓越しの景色も、姿を変えていた。
 雨は、もう上がっている。

 弧を描いた虹の向こうで、晴れた世界を象徴するような太陽がきらめいている。明るさの増していく空を見ながら、僕は気付いてしまった。

 雨と僕たちの物語がいま、終わりを告げたのだ、と。


「雨、晴れる時」了