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コメントが書けない私は

〈前書き〉

 先日完全にではないものの(返信と自分の記事のシェアくらいはするので)twitterから距離を置くことにしました。最近はずっと感想はtwitterのシェア機能を使っていたので、「よし久し振りにnoteのコメント機能を使おう!」と思ったのですが、どうもうまく書けない……。何人かにはコメントを送りましたが、実は送れずに途中まで書いて削除してしまったひとのほうが多い。以前はよく利用していたのに、何故だろう、と思いましたが、よくよく考えれば以前もコメントを書くのが苦手でした。

 それは決してシェアが気楽というよりは、性質の違いのように思います。本来拡散のために使うシェアは(私にとって)レビューの要素が強く、本人に伝わることは多いものの、あくまで文章自体は第三者に向けています。コメントは(これも私にとって)ファンレターの要素が強いため、途端に気恥ずかしくなり何を書いていいのか分からなくなります。ラブレターの書けない中学生男子みたいなものです。

 ということで最近面白かった記事の紹介に、自分のnoteを使わせてもらうことにしました。と言いつつ、twitterでシェアしたことのある記事も、これを機に紹介させていただきます。


「ガールフレンド」/「アストロノーツ」い~のさん

 前者が「踊り狂うパスタ」、後者が「ブロッコリーを傘にする女」をお題を元にして作られた作品で、『アストロノーツ』は『ガールフレンド』の続編になっています。絹子と糸子。この物語にはふたりしか登場しません。まるで、その世界にたったふたりしか存在しないような静寂に包まれた幻想性を感じさせられる物語に、ずっと浸っていたいような気分になりました。

 二作品を通して二人の関係や絹子の存在、糸子の傷の理由について、などが明示されることはありません。その必要がないからでしょう。絹糸で織り上げられた絹織物の手触りが、はっきりとした明瞭さを持たないようなぼんやりとして幽かな世界で、いつまでも消えずに確かさとして残ります。

 いくつもの可能性を読み手に委ねてくれる物語なので、私が言葉にすればするだけ野暮になっていくだけでしょう。ここで閉めたいと思いますが、最後に……、

傘の代わりになりそうだったのがこれしかなかった。というのが彼女の弁。左手にはスーパーの袋。右手にはブロッコリー。
どちらも絹子さんと同じく綺麗さっぱり濡れていて、みんなで一緒になって私の部屋に雨の匂いを連れてきた。

 このお題でこの二作品を書かれたい~のさんのテーマの使い方がとても好きです。


「潮騒の家」上田聡子(ほしちか)さん

 小さな漁港があるだけの小さな町に住む、大学受験を控えた高校三年生の佳乃は、折り合いの悪い祖母と母の二人とともに暮らす中で、早く家を出て行きたいという気持ちを持ちながらも、成績が上がらずもやもやとした思いを抱えていた。学校生活では同級生の有沢君と付き合いだし……〈今〉が描かれる中で、変わりゆくもの、終わってゆくものの予兆が佳乃の心情と重なるように語られ、物語は進んでいきます。

ぽつりともれた祖母の本音に、私はああそうか、と思うと同時に、祖母もいろいろ考えていたんだな、と思った。とすれば、この家には、母一人が残されることになる。私にはきょうだいはいないので、父、母、祖母、私はばらばらになる。それは家族が解体するのと同じことになるのかもしれない。

 かろうじてつなぎとめられた家族と高校時代の終わりを重ねて紡がれる、変わりゆく日常。その変化をどこかで願い、戸惑い、不安になる。そんな矛盾した感情を抱いたことを、私も確かにあります。それは私が主人公と同様に海沿いの田舎町に生まれたとかそんなことは関係ないでしょう。誰しもが一度は抱える普遍的な悩みなのだと思います。だからこそ、その日常の変化の中で佳乃に湧いた感情は、多くのひとの琴線に触れるものだと思います。

家族はいつの日か解体する。でも、みんな、新しい家族を作っていく。
私の脳裏に「解体」の「そのあと」がふいに浮かんだ。

 優しい余韻が残る、青春の一区切りの時期を丁寧に切り取ったとても素敵な小説だな、と思いました。


「ミッドナイト・イン・インド」嶋津亮太さん

さぁ、準備は整った。グラスが重なり合う音が響けば、ミッドナイト・イン・インドのはじまりだ。「今」という瞬間が、15年前のあの日に戻る。それではいいかい?

 嶋津亮太さんのインド旅行記である本記事は、一人の人間の知識と体験を通して形作られた物語を追体験していくような楽しさがあります。その旅は決して順風満帆なものではありません。だからこそ誰かが代われるものではなく、その人しか体験できない心惹かれる物語となるのです。仮に私がインドに行ったとしても、それはまったく別の物語になるだけでしょう。

 代替品のない旅を振り返りながら紡がれる、

けたたましいエンジン音、ガソリンの匂い、インド人のスパイシーな香り。僕は今、インドにいる。はじめての海外。はじめての一人旅。

 そんな言葉に身を浸らせながら、私は今、インドにいる。私はインドに行ったことがない。だけど確かにインドにいるような感覚。それも嶋津さんしか体験したことのない唯一無二のインドに。言葉、そして物語の力を信じたくなる素敵な旅をありがとうございます。


「線路」ケイさん

人混みがなくなり空間の広くなった列車内で、明るい時間帯に移動することで初めてみた景色に、ランドマークとなる給水塔があった。

 日常の一幕を切り取った掌編小説なのですが、実は最初に冒頭を読んだ時、エッセイだと思っていたんです。どこにでもある日常が、琴線に触れる美しい物語へと自然にスライドしていく一篇です。感染症の影響で人混みに余裕のできた電車の窓越しから見える給水塔を通して、最初から色付いたものがあるわけではなく、自身の目が物事を色付けていくのだ、と作品からそんなメッセージを受け取りました。

 見方ひとつで世界はどこまでも変わります。それは良い場合もあれば、悪い場合もあります。ほの暗い時勢の中、見方ひとつで、ささやかな希望を提示した……そんなこの作品のようなを大切にしたいな、という気持ちになりました。


「言い訳」あきらとさん

そんな日々に偶然のように会えた君。
個室に入ろうとした僕の目にとびこんだ背筋の伸び。
凛とした声で放たれるやわらかい言葉。

 この記事だけは、レビューというより、直接あきらとさんに向けた要素が強いかもしれません。これこそファンレターみたいなものなので、すこし長めです。

 小説の記事を貼り付けておいて、申し訳ないのですが……小説の内容にはあまり触れません(ごめん。あきらとさん!)。実はこの小説を読んで、右も左も分からずに小説を書き始めたことを思い出したんです。小説の原体験に触れるような感覚と言ってもいいかもしれません。

(私みたいな素人とかでも)小説ばっかり書いていれば、多少なりとも(いわゆる小説的な)文章力や表現力、構成力も多少はましになってきます。でもそれって小説らしい体裁を整えるのがうまくなってきているだけのことで、その〈らしさ〉をでっち上げだすようになると長所に見えたそれが、短所になってきます。小説っぽさに逃げる。多分小説を書いてるひとでそんな悩みを抱えているひとはいっぱいいると思います。

 でも……、こう書くと怒られるかな……、

 失礼を承知で言いますが、あきらとさんは普段小説を書かないからか、小説っぽさにあんまりこだわっていない様子が見受けられなくて、嬉しかったんです。

 今後、あきらとさんが小説を書くかは分かりませんが、もし書く時があるなら、小説〈らしさ〉ではなく、あきらとさん〈らしさ〉を探して、育ててください。あきらとさんの小説にまだ白紙に近いからこそ持ち得る、言語化しにくい魅力を感じたんです。

 ……と「何様だよ」という感じで偉そうでしたね。日頃のよしみで、許して~(笑)

 めったに小説を書かないと知っているからこそ、また気が向いた時に書いて欲しいな~、ということで小説書きとしてのあきらとさんを応援したくなってしまったんです。内容もテーマ頼りになっていなくて、とても好感の持てる内容ですので、まだ読んでない人は、ぜひ~。

(というか……あきらとさんのこういう時に言及したくなる雰囲気って何なんでしょうね?)