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雑記20210113

 実は最近いくつかの投稿サイトにて、投稿サイト内の作品を批評する(あるいはレビューする)文章を色々と読んでいて、理由は誰が何をどんな風に読んでいるのだろうか、という興味からなのですが、読むのはもう終わってしまった企画が多く、仮に現在も行われていたとしても、あまり参加の意志は無かったりします。ただそこに書かれているレビューを読んで、作品に興味を持てば、その批評の対象になった作品も読む、というだけで、素晴らしく丁寧に作品と向かい合っているな、と心惹かれる評もあったものの、その逆、読みながら何度も引っかかりを覚えてしまった批評/レビューにも出会って、とても残念な気持ちになりながら読み進めることもありました。何度も引っかかってしまったもののひとつに、〈小説はこうあるべき〉的な考えは、どんなものであっても一意見に過ぎないはずなのに、それを絶対的なルールとして前提に置いて、全体に共有している印象を受ける、というものがありました。個人的にはやはり残念……。

 もうそろそろ色々な場所のレビュー企画みたいなのを見に行くのはやめようかな、なんて思っていたところ、まさかnoteのほうでもそんな評とこのタイミングで出会うとは思っていませんでした。その方の評もひとつではなく、いくつかの作品に対する文章を読ませていただきましたが、同様に首を傾げてしまった、というのが正直な気持ちです。

 最初に言っておきたいのが、各々がこれまでに読んできて、書いてきて、培ってきた小説観というものもあるでしょうから、別に〈小説とはこうあるべき〉という考えが根幹にある小説評があっても、〈悪い〉とは思いません。例えば、小説に絶対的なルールを作ることへの違和感も、私のひとつの意見に過ぎませんから。批評も文芸のひとつのジャンルであり、どう表現しようと自由だ、と私は思っています。ただ小説が作品であるのと同じく、批評/レビューも作品なのだ、と私は考えていて、駄目ではないけれど、評価の俎上に置いて、私の物差しで判断することができます。すくなくとも私の読んだ評(という名の作品)に関してはあまりにも恣意的で受け入れがたいものでした。それは多分に上記の理由が絡んでいるのだ、と思います。

 小説観の相違、あるいはジャンルの畑が違う奴、部外者が横やりを入れるなと言われればそれまでなので、ここ最近見てきた色々な感想に対する全体的な雑感を言うに留めておきたい、と思ったのですが、二言だけ……、作品内容に対しての良し悪しではなく作者の創作への姿勢に踏み込むのは、自身の物差しによる優劣の判断をこえて、ひとの人生を軽視しているように感じますし、曖昧に過ぎる表現やあまりに作品によって批評の一貫性が欠けた文章に信頼を置くのは難しい、とその想いを強めました。

 でも、私が受け入れられなかったのは、評の内容、それだけです。その先にあるやり取りには一切関知しません。そこからは、小説と批評、ふたつの作品をこえた、当事者同士の問題ですから。実際にいまどうなっているかは知りませんが、こういう時に当事者以外の周囲がいっせいに、相手の人格攻撃や批評という行為自体を雑にまとめて叩く、みたいな流れになったら嫌だな、なんて思ったりはします。

 ちなみに辛辣な言葉を受けた時、私は、どんなにすごいひと、実績があるひとの言葉であろうと、それが自分にとって必要、納得できるものでなければ、口汚くて申し訳ないのですが、心の中で「知るかバーカ」と呟いて済ましています。十人十色ですからね、こんなもん。よくこういう話の時で、「プロや実績のあるひとの言葉以外は無視していい」みたいな言葉を見掛けたりしますが、私はちょっと考えが違っていて、肩書きよりも言葉の内容で決める、と心に誓っているのです。

 一年以上前に、私は存在していない本のレビューを書くという、このスタイルで言うと、スタニスワフ・レム『完全な真空』や赤野工作『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』とかが有名ですね(と言いつつ、この二作、未読なのです。申し訳ない……)。そんな実験小説のようなものを、シリーズにして書いていたのですが、その中にこんな作品を書いていて、

 これ実は、もうその方の名前も、書いていた媒体も忘れてしまったのですが、十年ほど前に読んだ私の人生の中でもトップクラスに不快だった書評が発想のきっかけになっていて、その作品の評価らしきものはまったくせず、作者の見た目など延々と作者自身への失礼な言葉が続く、というものだったのですが、当時まだ十代を終えるか終わらないくらいのサトウ青年は、それがプロかそれに準ずる立場だったことを知って、「あぁこれで、このひとは文章を生業にして、お金を得ているのか……」と思ったものです。人間だし、私怨でもあったのか、と想像を広げて作品にしてみたりもしましたが、肩書きだけを信じていたらこういう時、判断を見誤ってしまうような気がするのです。

 それに、どんな小説を読み、どんな小説を好きになって、(実作者ならば)どんな小説を書きたい、と思うのかは千差万別です。たとえば、以前twitterのちょっとしたやり取りで、こんなことをしてたのですが、

 ぜひ読みたい本の参考にでもして欲しいのですが、みんなあまり被らなくて、これこそ誰かの心に刺さる小説はひとそれぞればらばら、ということを表している、って私なんかは思ってしまうんですよね。

 どんな趣味でもそうですが、入り口は無知だからこそ狭くて、だけど視野の広がりとともに、「分かる」ことなど不可能に感じ、分からないことこそが魅力的に思えて、全景を眺めることのできないほどの果てしなさが面白くて仕方ないんですよね。

 最近はnoteとの繋がりは薄いことは承知しているので、書いたもんか迷ったのですが、まぁこういう考えの人間もいる、というのは、はっきり言葉にしとこうかな、と。別にこれが正しいとは思いませんが、こちとら正しさを求めて小説を書いたことがないので。

 ちなみに唯一のnoteの繋がり、となりつつあるのでは……と感じている、〈#note墓場〉は参加者が増えつつあって嬉しいものです。ホラーを書いてもらって、私が怖がるだけの企画です。