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非難と批判

 ヒナン、と、ヒハン。

 語感がとても似ています。だけど意味は全然違いますよね。

 似ているのは語感だけ。

 どうも、最近は無言で自作の小説にスキが付くと、「あっ、俺の作品が凄すぎて声も出ないんだな。ふへへへ」と無言なのを都合よく解釈して、悦に浸っているサトウ・レンです。

 私はたまにtwitterやらnoteを思考の記録のメモ代わりにしたりするのですが、とはいえひとの目に触れるところに書く文章なので、もちろん内容によっては避ける場合もあります。スタンス的には(基本的に)表現はどこまでも自由なものである、と考える人間ではありますが、それはどこまで書くかは各々の判断に委ねたらいい、という意味でもあり、もちろん自分で自身に制約を掛けたりすることはあります。例えば今回の話も、強くではないものの、緩やかに、言葉にはしないようにしていたことです。なぜか、というと、「あの話では?」と読んだひとに勘違いや邪推を与えてしまうのではないか。そんな心配があったからです。

 でも昔からつねづね考えていたことで、今何かあったから書こう、と思ったわけでもない。

 ただよくよく考えてみれば、どの時期に書こう、と何らかの問題と被りそうな気がしたので、特に現在起きているなんらかの問題とは一切関係ない、と前置きして、きっちりと言葉にしてみようかな、と。そもそも誰かのトラブルとかに関しては、情報に疎くて知らないことが多いのです。もちろんどう受け取るかは読んだ方の自由ですが、これが本心である以上、私としてはこう言い続けるしかありません。

 昔から色々な議論や言葉のやり取りを見ながら、批判と非難を一緒くたにしている感のあるひとを見掛けて、すごく危ういなと思うことがあります。最初に感じたのは、危うさ、というより、違和感だった気がします。このひとはその言葉を非難と捉えているみたいだけど、その言葉が丁寧に言葉を尽くしているように私には見えるから、どうも腑に落ちない、という、そんな違和感……。

 言葉のやり取りの中で、受けた言葉に対してそのひとがどう受け取るかは、そのひとの自由です。とはいえ非難ではなく批判ならば、相手にそれを言葉にする意図や理由があり、それを無造作に非難と捉えて、相手の発言を潰そう(あるいは過剰な怒りをぶつける)とする行為それこそが非難となる可能性は自分自身への戒めとしても頭にとどめておきたいな、とよく思ったりします。

 ただこれは批判する側に立った場合にも言えて、自分なりには丁寧に言葉のやり取りをしているつもりでも熱を帯びた言葉は、自然と非難と批判その境界を曖昧にしていきます。批判だ、と思っているのは自分だけ、という状態になっているかもしれません。

 言葉って難しいですよね。

「そんなこと言ってたら何も書けないじゃないか!」と言うひともいるかもしれませんが、言葉って時にそのくらい繊細なものにもなる、とつねに頭の片隅に置きながら言葉を外へと出していくほうが、自分にとってはより良い結果に繋がりやすいように、思ったりもします。

 言葉が扱えるのは特別でもなんでもありません。だから多くの言葉がそこら中に飛び交っています。

 そういう意味では、たかが言葉、なのかもしれません。

 でも、たかが、の後には大抵、されど、が付くことは忘れないようにしないとな、なんて、そんな思考の記録をここに置いていきます。