エッセイ読む人読まない人
以前、あきらとさん(noteのお知り合いで、彼はnoteにおいてはエッセイストや企画の発案者として活動されています)とやり取りしてた時だったと思うのですが、〈小説を読む時の軸がもともと存在しないから〉小説の感想が苦手、的なことを言ってい(たよね?)て、その時は「なるほど~、普段読まないジャンルだろうしな~」なんて他人事のように思っていたのですが、よくよく考えれば、私は逆にエッセイを全然読んで来なかったので、エッセイを読む時の軸がしっかりとは備わってないことに気付きました。小説も、エッセイも、読んだありのままの感想を書き散らかしてきたことに変わりないのですが、小説を読む時に何を大切にしているのかはある程度言葉にできます(すべてはできない。そしてそれは重要なことだと思っている)が、エッセイはまだ言葉としてまとまらない部分が多い。実際に彼がどういう意味で、〈軸〉と使ったのかは分かりませんが、エッセイにおいても、私自身の〈軸〉がぶれ過ぎないように、もうすこし真面目に考えてみることにしました。
①エッセイって、何ですか?
「エッセイ」とは……、
1 自由な形式で意見・感想などを述べた散文。随筆。随想。
2 特定の主題について述べる試論。小論文。論説。(コトバンク「デジタル大辞泉」より)
なんてこんなものはどうでもいいんです!
すくなくとも今は必要ない。私にとって、作者が「エッセイ」と銘打っている文章はすべてが「エッセイ」です。それが小説のように見えたとしても、作者がそこに敢えて「エッセイ」と書くのなら、その言葉を信用し、エッセイとして向かい合うことにします。脚色があろうと嘘が混じろうと構いません。だって〈あなた〉の見た真実も、〈他人〉から見れば嘘かもしれないですから。〈あなた〉がツチノコを見たのなら、はっきり書けばいい。「ツチノコを見た」と。〈あなた〉にとっての真実に私は身を委ねたいのです。すべてが真実などと最初から思ってはいません。一抹の真実があればいいのです。何が嘘で何が真実か探すなんてそんな野暮で面倒なこと、する気にもなれません。極端な話をすれば、(もしも良心が痛まないのであれば)すべてがでっち上げた嘘でも、私は言葉の先にある〈あなた〉に関知して責め立てようとは思わない。
②小説は、どう読みますか?
細かい要素を挙げれば、きりがないので、今回は小説の魅力ポイントを四つに分けることにしました。
①キャラクター
②アイディア
③文章力
④ストーリー(またはプロットとも言う)
⑤その他(表現力、作品の熱量、時代考証の確かさ……etc)
つまり今回は⑤のその他を省く、ということです。〈あなた〉は作品を読んで、どのポイントに焦点を当てる(重視する)場合が多いですか? どれも大事? それはもちろん。今回はあくまでもどれを好むか、という話で、不要なものを探したいわけではないのです。
これは単純な好みの話ですが、私は、
キャラクター<アイディア<文章力<ストーリー
となります。
まずはキャラクターですが、ストーリーに適しているか、という観点でキャラクターを見がちなところがあるので、シリーズものの主人公だから、という理由で好きになることはすくないし、実は人気キャラのスピンオフみたいな作品もすこし苦手だったりします。何度も言いますがこれは個人的な好みの話で、良い悪いの話ではありません。
次のアイディアですが、短編の名手なんかはアイディアマンという言葉が使われるくらい小説においては大事な要素です。ただその人にしか生まれないアイディアというものはほとんどなく、大体どこかで誰かが書いている場合が多い。だからアイディア一発勝負の作品は、とてつもない危険を孕んでいるのです。アイディアの過信ほど怖いものはありません。
文章力は小説は言葉でできているのですから、一番に挙げるひとも多いでしょう。大切なものです。ただ、だからと言って文章が上手ければ(自分にとって)優れた小説になるかというと、まったく別の話だったりします。例えば巧拙の話で言えば、とてつもなく下手なはずなのに、感情を揺さぶる作品というものは確かに存在します。
ストーリーが何故、好きか、というと、〈何を〉書くかよりも〈どう書くか〉に依っている部分が大きいからだと思います。好きなジャンルの話を読む時は、〈何を〉だけでも楽しめるけれど、普段読まない(あまり興味のない)ジャンルは〈何を〉だけではやはり楽しめない。どうしても〈どう書くか〉が重要になってくるのです。
結局、これはエッセイでも当て嵌めることができるのです(ちょっとこじつけっぽいけど……)
③結局エッセイ、どう読むの?
さっきの例に従いながら、自分がエッセイを読む時の魅力を四つに分けたいと思います。
①誰が(キャラクター)
②何を(アイディア)
③どんな文章で(文章力)
④どのように(ストーリー)
⑤その他(構成力、専門性、共感性……etc)
ちょっと強引かな(笑) まあいいや。お遊びみたいなものだし。さっきの小説との一番の違いは、〈誰が〉の存在だと思います。「〈誰が〉書いたか?」をキャラクターとイコールで結ぶことに違和感を覚えたひともいるかもしれませんが、意図的に嘘を吐くことが分かっている小説以上に、本文と書き手が密接に繋がりやすいエッセイは、そのひと自身がキャラクター的な魅力を持ちやすい形式だと思います。
結局これも何度も言いますが単純な好みの話で、
誰が<何を<どんな文章で<どのように
と、なります。
他の説明は小説の時とそこまで変わらないので、ここでは〈誰が〉に焦点を当てて書きたいと思います。そのひと自身の魅力に惹かれることはあります。なのでこれも良い悪いの話ではないのですが、私は書かれてる言葉への興味が強く、書いている〈あなた〉自身に実はそれほど興味がなかったりします。先ほど書いた言葉とも重複しますが、私は〈あなた〉の書いた言葉こそが大事で、言葉の先にある〈あなた〉に(基本的には)関知したいと思っていません(したい時もありますが……)。その文章を書くためにどれだけ努力した、とか、苦しんだ、とか、そのひとの心根が優しいか、とか、美しいか、とか、実はあんまり考慮しない人間なんです(冷たい人間なので)。そんなことよりもその言葉をどんな言葉で、どのように書いたかを味わいたいのです。
文は人なり、という言葉がありますが、必ずしもそうでないのが、文章の面白いところだと思っているので。
言葉に渇いている私からあなたへ。あなたのエッセイを通して伝わっているかのように感じる借り物の顔など、見てくれなど、どうでもいい。あなたの言葉を、声を、叫びを、聞かせてくれ。そして初めて伝わってくる本人さえも知らなかったであろう真実の顔を見せてくれ。
……というなんとも曖昧な言葉でお茶を濁す。やっぱりすべては言葉にすべきじゃないと思うので、ここで閉めます。
好きに書け、こっちも好きに読むから!