半歩先を歩く

 

 あいつはいつもぼくより半歩先にいた。

 背はぼくよりすこし高くて、ぼくよりすこし足が速くて、ぼくよりもすこし勉強ができる。幼い頃の記憶は色褪せることなく、今でも夢の中にまで現れる。夢の中のぼくは傷付いた表情を浮かべていた。あの日のぼくはこんなにも脆かったのか。夢でしか知りえなかった表情に、妙に納得してしまう自分がいる。

 覚醒していても、あの日の光景はくっきりと思い描ける。ぼくのすこし前にふたりの姿があり、ふたりはぼくとすこし離れた場所で近い距離を保っている。半歩の距離に疎外感を覚えるしかなかったあの時の感情を考えれば、表情に出るのは当然のことだったのかもしれない。

 自身の繊細さを眠らせるように努め始めたのは、もっと後のことだ。鏡の前で育てた作り笑顔は、引きつった不自然さを経て、自然なものへと変わっていった。だけど何よりも不自然だ、とぼくだけが知っている。

「礼儀正しい。いい子ねー」という言葉に、
「もっと生意気なくらいがちょうどいいんですけどねー」と父が返すやりとりを何度聞いただろうか。

 無邪気さや生意気さを持つあいつに向けていたのは羨望の眼差しだったのだろうか、きっとそうなのだろう。認めたくはなくても、認めるしかない感情というものは間違いなく存在する。

 あいつは、いつもぼくより半歩先にいる。

「すべてがお前より劣っているぼくは、ずっとお前に勝てないのかな」先日のあの一件でぼくが耐え切れずに投げかけた言葉に、あいつはただ驚いた表情を浮かべていて、ぼくは不思議だった。

「良いところ悪いところなんて人それぞれなんだから」その言葉を吐けること自体がぼくよりも半歩前を歩けている証だった。「くよくよするなよ」

 ぼくの肩に乗せたあいつの手はかすかに震えていた。

 劣っている、という悔しさには慣れてくる。一度でも何かに勝っていたならば、慣れずに悔しがり続けられただろうが、もうぼくは悔しいという感情さえ手放してしまっていた。

 ……と、すくなくともぼくはそう思い込んでいた。

 最初の悔しさと重なるような想いを感じるまでは。

 何ひとつあいつに罪はない。もしあるとしたら、それはぼくの人生の半歩前を歩き続けたことだ。

 病室のベッドで本人が意識しているのかどうかさえ分からないような涙を流しながら、譫言のようにあいつの名前を呟き、あいつの手を握りながら死んでいく父を見ながら、ぼくはあいつの半歩後ろで的外れな憎しみに苛まれていた。的外れだと自分がよく分かっている。

 驚くほどの悔しさだった。自身のすべてを否定されたような感覚だったのだろうか。自分でもよく分からないし、もうそんなのはどうでもいいことだ。

 今、ぼくの部屋であいつは血を流し、横たわっている。

「許さなくていい」ぼくに目を向けるあいつはただ怯えと苦しみを浮かべていた。「許さないでくれ」

 死ぬ間際まで、ぼくの半歩先を行かないでくれ。

 頼むから。

「父さんはいつも兄さんのことばかりで、結局、最後までぼくには気付いてくれなかったね」

 兄さん……。

 いつもお前は、俺の半歩後ろにいた。

 何を考えているか分からず、冷たい笑みを顔に貼り付けたお前のことが怖かった。

「すべてがお前より劣っているぼくは、ずっとお前に勝てないのかな」

 突然そう言われた時、お前が何を言っているのか俺には分からなかった。背は確かにお前よりすこし高かったかもしれないが、お前は子どもの時から何をやっても俺の上を行けるはずなのに、わざとすこしだけスポーツが出来ない振りをしたり、勉強が出来ない振りをしていた。すくなくとも俺にはそう見えた。

 わざと俺の半歩後ろにいて、「あぁ兄さんには勝てないやー」と感情のこもっていない声で言う、お前が不気味で仕方なかった。

「くよくよするな」
 なんて言ってみたが、俺の手は恐怖で震えていたと思う。

 どういうつもりなんだ。それを俺が直接聞いたとしても、お前はきっと答えてはくれなかっただろう。

 親父はいつもお前の心配ばかりしていた。俺になんて対して目を向けてくれなかった。親父も俺と同様にお前が分からなかったはずだ。それでも……俺は不気味という一言でお前の存在を片付けたが、親父はそうじゃなかったはずだ。手のかかる危うさを持つお前を誰よりも大切に思っていたよ。それも俺の勘違いだってお前は言うのかな。

 もしかして気付かなかったのか……? 俺にははっきり過ぎるくらいはっきりと親父の感情に気付くことができたがな……。

 あぁくそっ、目が霞んできた……。

 なぁ、気付いてくれなかった……?

 気付いてなかったのは、親父じゃなくて、お前のほうなんじゃないのか?

                          (了)

(後書き)

こちらの名付け親企画に参加させていただきました。

企画の参加などからはすこし距離を置こうと思っていたのですが、Kojiさんの絵を見て、ひとつだけ書きたい小説が思い浮かびました。名付け親企画に参加させていただければ、幸いです。フィードバックは無理しないでくださいね~。