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すずめの戸締まり

ジブリだこれ!
恋愛強めのジブリだこれ!

※ネタバレです。見てない人は閉じよう。


たまたま見かけた男の人をキレ〜!って見惚れるのはちょっと男の子っぽくないかい?と思わなくもない。導入はちょっと忙しい気がした。
家(朝)→廃墟→学校(昼飯時)→廃棄と場所の移り変わりも多いし。廃墟はあっちの山とか言ってたけど、山なんかJKの足があればひとっ走りよ。

おい、イケメン。イケメンだから許されてるんだぞ。廃棄探索とか、JKに話しかけたりだとか、JKの家に上がり込んだりだとか!とか思ってたら椅子になっちまった。なんてことだ!
猫、お前も唐突だな!お前さてはキュウべぇのご親戚だろ!
逃げる猫!走る椅子!追うJK!
この映画でしか摂取できない栄養です。

ドロドロした厄災が倒れ込んだ町、そこそこのダメージを受ける。
あんな気持ち悪いのがすぐそこにあるのに、誰も気が付いてないのがすごい気味悪い演出でいい。

導入チンタラやってると話が進まないんじゃよ。だってこれはロードムービーだからね。

そう、ロードムービーなのだ!

優しい人がたくさん出てくる映画はいい。家出少女にみんな優しい。素晴らしいことだ。現実もこうであったらどれほどいいか。

椅子を抱えて旅するJK。
優しい人々。美しい世界。守りたくもなる。

学校を閉じ、観覧車を閉じ、不穏な雰囲気。
イケメン要石になっちゃったんだなと気づく。バッドエンドの可能性に震える。
信じるんだ、君の名はと天気の子でカップルを生き別れにしなかった新海誠を!!!

東京。
叔母が追いかけてきてるらしいけどまぁいいんじゃないかな。未成年ロードムービーに保護者は都合悪いから描かれないんだ。

イケメンのお宅訪問、テスト会場に現れなかったイケメンを心配してわざわざ訪ねてきたお友達。格好はともかく、おまえいいヤツだな!

湧き出すドロドロ。
規模が今までと違う。やべぇ。
あきらかに異常なミミズ込みの光景と、全く気付かず生活する人々のいつも通りの風景が切り替わってゾワゾワ。いい演出。
これからどういう悲劇が待ってるのか、想像が膨らんで気持ち悪くすらなる。

自分が犠牲になればコレを止められると自覚する草太。普通の大学生だったり、教師を目指してたり、魔法使いみたいなファンタジーお兄さんかと思ったらちょっと浮世離れしてる風の等身大のお兄さんだって分かってるからより辛い。

よりにもよって!とすずめも私も思う。
すずめは多を選び取って、草太でミミズ封印。その悲しい選択で東京が救われた。

猫に辛くあたるすずめ。お前が大人しく要石やってれば、こんなことにならなかったのに!
でもその願いってものすごい歪ですよね。大事な人には死んでほしくないけど、そうでない人がどうなろうが知らない、顧みない。

実際。ダイジンが萎んで小さいのも、そういうのが原因なんじゃないかなと思ったり。
誰も犠牲の上に成り立つ平穏をありがたがらず、犠牲も顧みず忘れてしまったから、ダイジンは抜けてしまったし、もう要石なんかやりたくねーぜとなる。
そりゃそうだ。寒くて一人ぼっちで何十年も。


ここからストーリーは折り返し。

すずめは草太を諦めない。
さらに旅を進めることに。

まさかの友達再登場。趣味の悪い車だぜ〜〜!
でもお前いいヤツだな!
そして叔母も登場。まじか!ここでか!

心配されんのってめんどくさい。
心配してるって言ってるし演じてるだけで、別にどうともないのに、と思ったことある。心配してる相手が死んでもお前は死なないよね、みたいな。危機迫るわけじゃないのに。心配したことへの対価を要求するみたいな感じ。
中高生の時は私も不愉快だったなーこういうの、と思ってしまってしんどいしんどい。黒歴史発掘されるようで。

ぶつけられる叔母が隠してた本音。
子ども育てる労力。実の子でも難しいのに、本当に我慢したし努力したし苦しい瞬間はいつでもあったはずだし、それは多分当人にしか分からないことだ。
すずめもある程度予想していても、その実態はわかるはずもない。
まぁ思う様怒鳴り合って髪の毛引っ張ってはたきあって通じる気持ちもある。他人だからこそそれが足りなかったのかも。


友達と叔母とW猫ですずめの故郷へ。
このあたりから3.11への容赦ない言及が始まる。風景とかも現地取材して描いてるんだろうなってわかるくらい。
地震と津波と原発事故で失われた街の風景。もともと街があって人がいたはずの空き地空き地空き地。
それまでの商業的事情からの廃墟とは雰囲気がまるで違う。実写じゃないのにこの差異が出せるのってすごい気がする。

車が!
からの友達とオープンカーをパージして叔母猫猫すずめで旅続行。
叔母も溜めてた思いを吐き出してちょっとスッキリした模様。二人の関係も。
つらくて苦しいこともあったし、今も抱えてることもあるけど、それだけじゃない。それだけじゃないってお互い思てるところが救いだね。

辿り着いた先で猫がキュウべぇじゃなかったことを知る。後ろ戸が開く場所を教えてくれてたんだね、ありがとう。その言葉でふくふくに戻る猫。
言葉って大事だね。
想いが通じてよかった。

イケメン救出。
猫本領発揮。
W猫が要石に。
共同作業でミミズ封印。

やはり犠牲は出るのか…。
ダイジンは猫の間だけでも、ちょっとだけでも嬉しい想いができたんだろうか…。

あとはもうハッピーエンドルート。




こっからは所感。

インターネットユーザーが、3.11がこうして題材として使われることに忌避感を抱いて批判的な意見を見かけたりした。
何年経っても生傷のままの人は多いと思うし、その気持ちを否定しない。
けど映画のラスト、すずめが子供の頃の自分に伝えた言葉がこの映画のメッセージで、それはあの時3.11を生きていて受け止めた全ての人へのメッセージだと思う。
実際に被災して家が亡くなったり近しい人が亡くなった人だけじゃない。当時ニュースを見て映像を見た、生きていた全ての人にとって大小はあれど傷になったはずだから。
(そんな遠くにいたやつは3.11を語らないでくれ!なんて言ってしまう人もいるだろうけど、ある意味で言えばあなたは遠くから見ていた人にもまたなれないのだ。近くで見えるものと遠くで見えるものもまた違う光景だから)

私自身、この映画を見てあの時感じた気持ちを客観的に見て、折り合いをつけられた気がする。

ファンタジーだしフィクションだしエンタメではあるんだけど、それはあの災害をネタにして遊んでいるわけなんかじゃない。
あの時を生きた人に、あるいは今後生まれてくるあれを知らない人々にメッセージを残すための映画だと思う。


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