真剣になる、ということはどういうことなんだろうか。
議論とかしてますとメチャメチャ楽しくてワクワクするし、凄く知的好奇心が湧き上がることが沢山あるんですが、同時に、大いなる反省と自己嫌悪に陥る瞬間にまま出くわします。
基本は楽しく明るく、ワイワイやるのが大好きで、そういう議論が良いんですが、真剣に考えようとすると、眉にシワが寄りまして、意見を戦わせることも増えます。
議論というのは建設的に発展させていくのが良いですし、私の学んでいるハイパーアイランドのシンガポールでは、「コンフリクト無きところに創造性はなし」って位にコンフリクトを大事にしていて、それを乗り越えることを推奨されるわけですね。
しかし、端的に言いますと、私個人の特性として、感情的になりやすく、要するに短気で、かつ好戦的な特徴を持っています。
まぁ、長く知ってる人なんてのは、私の特性をよく知ってくれていて、味として理解してくれてらっしゃる有難い人たちもいるんですが、40も越えまして、人の優しさに甘えてるってのもなんとも情けない。また、良いオッサンが、感情剥き出しでキンキンしてるのも何だかなぁ、ってのもあります。
で、コンフリクトを起こし、それを超えていく、と言っても何も好戦的になれ、とか、攻撃せよ、と言っているわけではなく、明るく楽しく柔和な形でコンフリクトを起こして、それを超えていくことだってできるはずですし、大人な感じで建設的に議論することも全然ありうるわけです。
頭では分かっているのですが、そこでうまく制御できなくなるのが、あるべき論、本質、意見を伝えることに重きを置き過ぎて、周りが見えなくなってしまうってことなんですね。で、ついつい、感情を冷静に処理することを「ついうっかり忘れてしまう」ということが起きるわけですね。ついつい。
で、これの暫定的な解決策が、議論そのものに重要性を持たせない、というものでして、重く考えすぎるから大切な議論の最中で、余計なプライドを守ることも含めて感情の起伏が激しくなったり、議論が荒くなったりするということで。いや、皆さんが大人で流してくれることも多いんですが。
ということで全然、物事の解決法になっていないのですが、そもそもの議論の本質を放棄して、真剣に考えない、というやり方があります。過去にたくさんそういう形を試行してきて、まぁ、うまくいったためしがない(笑)。で、例えば、うまく行くこともあるんですか全然心地よくないわけです。
で、やっぱり議論の本質から逃げちゃだめですし、大切なものを大切に扱うのに、真剣に議論しなければ駄目だなーとは思うわけです。
でも、するってーと、自分の感情が揺れる。真剣だからこそ主張の言葉に力が入るし、強さが出ます。
最近は随分訓練して、冷静さを保ったり、気分を戻していくことも出来るようにはなったんですが、スイッチが入ったものを戻すって感覚でして、理想的にはそういうスイッチを入れない、というのがあるわけです。
柔らかい状態で、明るくて楽しくて、もっというと最近の私のテーマとして、「優しく、可愛げのある状態」で、それでいて真剣に議論するってのが物理的に可能である、と言うのも全く分かってることではあるのですね。。。
しかし、とかく議論というより、生き方として、若い頃から、なりふり構わずに、斬りまくって、闘いまくって、吠えまくって生きてきた私からすると、禁煙するとか、禁酒するとか、ダイエットするとか、他の何を制限するってのよりも、何事よりも難しいかもしれない、アンラーニングというか習慣と意識の変容が必要があり、まぁ、とにかく日々、反省しながら進んでゆくしかない。
皆さんに不快な思いをさせてるよなーって思うことも多々ありまして。
真剣になる、っていうのを精神安定と共に表出させることに、もっと20代の頃から修練積んでおけばよかった、という悲鳴にも似た想いと共に、必死にこのあたりの行動変容を自らに課すという、なんとも難しいチャレンジに突入しています。
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