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TODO(mission)とBeingはトレードオフではない、と思うんだよね。

さて、現在、テルアビブを抜けロンドンのヒースロー空港にいます。ロンドンでは、ビジネスパートナーの二社と握手を交わし次の展開を議論。どんなにテクノロジーが発達しても、人の感覚をトランスポート出来る技術が発達するまでは、やはり会って話すというのは労力かかりますが大事なことであります。これからマンチェスターへ。

シンプルに やりたい派 と ありたい派 について考える


ところで。「やりたい」と「ありたい」について。
きっかけは、GACKTさんのR25の記事と、寺田さんとの議論から発展して、いいオトナがやりたいと在りたいを模索する話。

失敗の先に成功があると言う考え方について


んで、吉沢さんもPOSTしているやつ、ですな。
https://www.facebook.com/yasuhiro.yoshizawa/posts/3317636168309453


寺田さんとのやりとりでいろいろ議論してたところなんですが、この上記、成功と失敗の考え方は少なくともまったく違和感ないす。ここは、やりたいようにやろうが、在りたいようにあろうが、考え方として成功までのセオリーなので、どちらでもイメージ可能だと思われます。

つまり、やりたい派と在りたい派、双方に、成功のイメージはどちらも描くことができるし、多くの場合、どちらであっても失敗を恐れて分岐をイメージし動けなくなるパターンが多いってことですね。

選択は2つです。進むか、立ち止まるか。成功と失敗の分岐ではない。
たまに、後ろに戻っていってしまう人もいる。いや、結構な数存在します。

立ち止まる、をもう少し解像度あげます。

すべきことをやらない。諦める。言い訳を並べてやっていると言う。やっているふりをする。逆ギレして誰かに問題転嫁する。学びを得ないで何度も同じことを繰り返しジタバタする。

これ、全部私には立ち止まっているように見えます。
(私は、小市民かつ凡人なので、私もまま立ち止まります。立ち止まることは決して悪いことではありません。)

問題は、「分岐の先に必ず成功があり、それ以外の分岐には失敗がある」という考え方だと分岐で立ち止まることが圧倒的に多いということ。

この分岐で立ち止まらずに進めるか、ってのがポイントだったりするような気がします。なぜなら、どっちいっても結局は失敗(というより成功までの途中ステップ)で、どのような分岐や選択を経てもやり続けて成功にすることは可能っちゃ、可能であると言うことだと思うからですね。

イメージを載せておきます。

本題のやりたい派とありたい派の混沌と混在について


在りたい派の寺田さんが指摘しているのは以下。

・(一見、ゴールに一直線に進んでいるように見えるやりたい派のミッション型・TODO型は、)ゴールを都度見直して、そこからまたタスク(仮説)を積み上げて、またそこから頑張ろう、と言ってるように見えます。これって、「いろんなゴールを都度見つけよう」ということなら、むしろありたい派のbeing型じゃん。

・『幸せは、「お金」「仲間」「時間」、この3つの要素で構成される“三角形”の面積で決まる。全部バランスよく手に入れる方法を考えなくちゃいけない。』というGACKT様の発言は、まんまありたい派のBeing型ではあらしまへんか?


そうなんですよ。たぶんなんですけど、さっき上記でわざわざ絵を書いたのには理由があって。

分岐で立ち止まらずに進むためにどうしたらいいのか?

が我々に課されているもっとも大きなチャレンジなんじゃないかと思うのです。

・一旦ミッションを決めてその中での分岐は試行錯誤ってことにしてまずは成功するまでやる、ってのがやりたい派

・ゴールだって複数あってよくて、それを安心材料に適宜、選択肢を最良にしながらゴールに近づくのがありたい派

多分、同じことをいっている気がするのですよね。ほんでもって、この二つは相反するのか?っていうと私は、ですが、共存している気がしています。

やりたい派と在りたい派のハイブリッドがいいと思うよね


いまや、成功のために全てをかなぐり捨てて在り様関係なく進むってのは、ちょっと難しい気がするし、やりたいことなしに在りたいだけで生きるには複雑すぎてこれまた難しい気がするのです。

・ほら、やりたいことっていったって「今、現時点で」であってそれって論理的にきっちり最上だと決められないじゃん?現に、目的なんてゴロゴロ変わっていくんだし。

・いや、ありたいっていったって、ありたいが変わっていくわけで、やりたいことの座標決めなければ人生の選択を自分で舵取っているっていえなくない?

みたいなもののどこかの中間に私たちはいて、極論すると「選択肢なんてなくていいんだよやりたい派」と「ゴールなんて仮置きがいくつもあって常に取捨選択するんやありたい派」って原理主義がいるのではないかと。

ハイブリッドな視点でGACKT氏の指摘と寺田さんの長年の苦悩を解釈する。

GACKT様の指摘は「まやかしの分岐で立ち止まっているくらいなら、動いた方がいいじゃん?だから、分岐とか考えずに動いてごらんよ」っていっているのではないかと思うのです。もう少し補足すると、得たいものをイメージできていれば仮に選択肢が訪れようと迷うことは少なくなる。だから、仮にその選択が最上のものでなかったとしても問題ないんだよ、進めばいいんだよ、といってくれている様に見えます。

彼の勝利の方程式、GACKTの勝ち方、読んでないのでなんとも言えんのですが(笑)

で、寺田さんの苦悩は、「いやいや。分岐で立ち止まらずに進むことの耐性はできてるんだって。問題はどうやって盲目的に未来に石を置くのかなんですよ。やりたいことってなんなん?」というものな気がするのですね。

在りたい人の上級者は、石を複数おけば良いと思う。

ただし、在りたい派は、石置きゲームそのものを楽しで動くの面倒になったり、石を置くことでやはり分岐で動けなくなるという本末転倒にならないことが肝心。ってことですね。

やりたい派は、学習した上級者なら石の置き方がわかっているはず。しかし、その置き方を習得するまでは燃費悪いし、非効率だよね。いろんな人の話を聞いて自分の石の置き方を磨き込める素直さがないと難しいかもね。


やりたい派には階層がある気がする。(在りたい派にもかなぁ)余力があれば書いてみようと思う。

ほんじゃまた。

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