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どんなことがあっても書くのでね

ここ最近生活していて感じていることが3つある。3つ。キリのいい数字だ。三位一体、ホップステップジャンプ、長男次男三男。最後のやつは適当なのでスルーをよろしくお願いいたします。3つだ。まずは今自分が自分であるような選択肢をとってこれてよかったなということ。というのもこれは妻子がかわいいからでありまして、たとえば自分の性格とか人格とか乏しいスキルとかはまあ、どうでもいい。このひとたちの傍にいてよかったと感じるのである。と、思って左を見ると娘が妻の後を追って叫びながらハイハイをしている。今日は息子がまさかの19時寝をしてくれたのでこれはもしかしたら夫婦団らんタイムとかいけちゃうのかしら、とか思ってたけれどそうは問屋が何とやら。娘がいつもの3倍くらい元気です。きみはお兄ちゃんが騒いでいる時は遠慮をしていたのかな。なんでそんなに元気なのかな。いつもみたくお兄ちゃんリスペクトで、わたしも寝ます!はい!的なノリで寝てくれるかと思っていた、というこの流れ、親が脳内でこさえる流れって子どもにはどうでもよくて、むしろそれを次々に打ち破ることに言語に還元できない喜びを抱いている気がしている。絵本を破り机に突進してまだ起きている。最近しっかり生えてきた前歯を出して笑う。かわいいのであった。

2つ目になんだかんだで好きなことを仕事にしてみてよかったということ。ただの若い酒好きは酒を仕事にして酒のいい面もそれにまつわる悪い面も見ている気がする。それでも憎めないし、自分にできることを探している。最近は前ほど派手に動けていないけれど、でも探しているからまた何かにつながる。それは信じていいことなんだってよくわかった。それは決してきれいごとではなくて、きれいごとだと感じる場合には自分のやりかたが不十分であるか、もしくは不運のまっただなかにいるかどちらかなのだということを実感してます。そういうのを噛みしめる時間もまた少しだけ幸せであると自信を持って言える。これからどうなるのか、酒好きのゆくすえがどうなるかははっきり言って全然分からない。分からなくなった。でもたぶんその内また「酒とは~」みたいなことについて言及したり誰かと争ったりするようになると思う。立場が同じでも。変わったとしても。

3つ目に自分がやりたいと思ったことは自分なりの意義を勝手に感じて楽しいようにやればいいのだと思った。わたしは酒と詩が好きだからそれらを合わせて酒の詩、酒詩とかを書いている。これはnoteに限らずTwitterでもインスタでも反応が乏しい。いいとも悪いともいわれない。まあそういうのってたいてい悪い寄りの訳が分からないなんだろう。率直に言うとわたしは酒を飲んだ時の印象をそのまま書きたいだけである。でもそれがなかなかそのままにならなくて困っている。その格闘の跡が出来上がった酒詩だと思ってもらえればいいかなと思ってジントニックを飲んでいる。日本酒を飲め。

ほら、書いた詩がまさかびっくりでこんなに格好いい英詩になっている。とあるメディアで一応連載させて頂いていて、あ、酒詩をね、させて頂いていて、それを英語ネイティブで日本語もできる方が訳してくれている。原文よりずっと格好いいし、英語で読んだ方が具体的に場面を想像したり別角度から詩を眺めることもできるのではと思った次第です。なんだろうな、こういう風な訳分かんないものが日本酒にももっと増えたらいいのにと思っていて、それで書いている。もっと誰か書いてほしい。テイスティングコメントは味に寄りすぎている。ペアリングは誤解されすぎている。スペック考察は余計な論争に巻き込まれすぎている。酒の魅力を伝えるための有力なルートはどれも複雑に渋滞が続いている気がしている。だからといって酒詩が何か進んでいるというつもりはない。ただ、こういうものもあっていいとは思っている。飲んだ酒を瞬時にメロディーにする酒版のみやぞんとか、なんでもいい。みんなが歩く道に落ちる自分だけに輝く小石に語りかけるのでもいい、誰もいない道が心地よくなってひとり散策するんでもいい。誰かにとってのかけがえのない入口は多い方がいい。楽しいマジョリティ街道は共感の通路の役割は容易に担うけれど、明るすぎる道は酒の憂いある魅力を引き出しきれはしない。酒のおいしさ、美しさという明るい魅力の力を借りながら個々の憂いを何らかの形で昇華するような小道が求められている。そんな気がしている。疲れたから、書くのやめるね。明日は短い文章にしよう。明後日も。3日分くらいの気力使った。わたしはこれからも書き続けます。



酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。