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2020.7.2 「好き」の観察

ひとは初恋から10年経ってようやく初恋の失敗に気がつくという。その言葉に照らして考えると、わたしの失敗は相手のことをよく見ていなかったというその一点に尽きる。その失敗はいわば通過儀礼的なものかも知れない。よほどの自分大好き野郎でなければ、過ちに気がついてすぐさま態度を改めると思う。目の前の相手が大事なのだから。その存在が大切だから。生き過ぎると今度は、「わたしに気をつかい過ぎじゃないかな?」とかって優しく微笑まれて、それはそれでダメージなのかも知れないけれど。

初恋から何年経ったか。実らない、という意味ではもう25年が経った。実った、という意味では15年が経った。

わたしは相手のことを見ているか。何を見ているか。

昨今「好き」の大合唱が聞こえる。そこかしこから。子ども時代は一見相容れないと思っていたビジネスの分野でもそれが聞こえる。

「好き」は市民権を得たように思える。
無茶苦茶な暴論が、「好きである」こと、あとは提唱している人のキャラクター、好感度によって「とがった愛しいやつのすっげー話」になっていく。

――「とがってる」ってのは結局誰かを、何かを傷つけうる何かをはらんでいてそれを開き直って隠してないってことじゃないのか。

最近になって、「好き」は自ら自覚して追い求めるものではない気がしてきた。死ぬ前最後の炎、風前の灯火を守っている時に、その炎の内側に透けて見えるものを好きと呼べばいいんじゃないのか。

――周りの火が消えないと、見えないものがあるんじゃないのか。

無闇矢鱈な「好き」が覆いかぶさるととたんに見えなくなるものがある。
それは「素晴らしさ」だと思う。
これらをイコールで繋ぐ勢いで加速する「好き」の前で今立ち止まりたい。

「好き」は「素晴らしい」とは絶対に違う価値観だと思う。(価値観?感情?評価?)

でなければ嫌いなやつに素晴らしい点を認めることはない。
でなければ好きなやつのあばたはすべて笑窪になる。

わたしが笑窪だと「思おうが」、その人にとってはあばたはあばたなのである。

好きに耽溺する自分は、15年前の失敗を繰り返してはいないだろうか。相手がその中心にいるようで、その実自分の内側しか眺めていないような、心地の良い気味悪さを毎日愛でてはいないだろうか。

今宵、わたしは「素晴らしさ」を見つける旅に出る。

もうそろそろ終電の時間だ。

いつまでも切符の裏側には、恋に恋した幼い日々にないがしろにしたものたちが上書きできずに印字されたままだ。わたしが「そんな過ちはなかったと思っていようが」、それは過ちなのである。好きからの離反体験には、忘れられない好きが、いつまでもいつまでも香っている。それを終着駅の改札に通して、わたしは次の街へゆく。

素晴らしいものたち、こんにちは。たとえそれが嫌いだとしても。

酒と2人のこども達に関心があります。酒文化に貢献するため、もしくはよりよい子育てのために使わせて頂きます。