ryoryo学基礎論8 - 倫理観は死んだ
こんばんは
さっき家の前のマンションで水道管が破裂して水が噴き出てて、生まれて初めて“クラシアン案件”を観測した
人間が多くの人間にとっての「負の感情」を回避するために手を尽くしてきた結晶である倫理観は、2パターン存在する。
ひとつはルールとして明文化されていているものだ。「負の感情」を回避するためだけにあるものではないと思うが、法律や宗教にもその性格はある。
たとえば、人間が死んだら周りの人間の多くが「負の感情」である悲しみを抱くから、法律は殺人を禁じ、キリスト教は戒律によって自殺を禁じている。
もうひとつは、ルールとして明文化はされていないものの、大多数の人間を「負の感情」から守るためにデザインされているものだ。
たとえば、店員へ悪い態度をとってはいけないという決まりはないが、悪い態度を取られるとほとんどの店員に「負の感情」である怒りや悲しみが生じるから、「常識のない行動」とされて、不文律としてなんとなく禁止されている。
このように、人間が必要以上に「負の感情」を抱かずに生きていけるようにするために、倫理観は存在している。言わば、倫理観は人間を「負の感情」から守ってくれる盾である。
人生、「これはやってないね〜」(麻雀忍者)という具合の苦しみを過剰に感じない方がいいんだから、倫理観の存在は合理的だ。
しかし現代では、倫理観に歪みが生じ始めている。
たとえば、人を守る盾であるはずの倫理観を人を叩く武器として利用する不自然な構図がよく見られる。
何か問題を起こした有名人にたいして「常識的にありえない」なんて言って叩いたりして、その有名人が苦しんだり、最悪の場合自殺してしまっているという始末だ。
これでは倫理観は完全に本末転倒である。
さらに今まで述べてきた通り、倫理観は多くの人間が「負の感情」を抱かないようにするために社会の中で生じたのだから、人間の中に直接ある感覚ではない。
自分の中に湧いた怒りや悲しみを気付かぬうちに倫理観とか、常識とか、義憤っぽいフレーズにすり替えているだけだ。
倫理観の本質は見失われてしまっている。
そんな時代にあって、新しい倫理観をつくりあげたのは、東海オンエアのしばゆーとあやなんだ。
世間にはめちゃくちゃ叩かれているが、セカンドパートナーがいることに対して2人が合意しているのであれば、我々が世間の倫理観で断罪することは無意味だし、それはしばゆーとあやなんに対して不用意に「負の感情」を生じさせる行為だということに気づかなくてはならない。
これから来ると言われている多様性の時代では、画一的な倫理観は破壊され、個々の人間関係に応じた倫理観が形成されていくかもしれない。
「正の感情」も「負の感情」も、生じるポイントが多様であることが許される時代では、画一的に「負の感情」が生じるポイントが断定され、それを避けるために存在している倫理観は意味を持たないからだ。(人殺しちゃダメとかは絶対的な倫理観だと思うけど。。。)
今後は、他人と関わる際に、自分も他人も不必要な「負の感情」を生じさせずに関わっていくための合意を形成することに意味がある。
画一的な倫理観は死んだ。すでに倫理観は我々の手の中にあるのだ。
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