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「花の顏」/ 掌編小説


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気が付けば、梅雨明けもすぐその辺りに控えているであろう頃合い。
師事する或る学者の手伝いをと、遠征先のこの地に赴いたのは青葉が美しくなり始めた頃で、しかし明日の夜汽車に揺られて帰路に着く事になった私は、下宿先の畳の上で荷造りをしていた。

明確には宿ではなく民家の一間なのであるが、滞在中すっかり親しくなった家の子に菓子でも購っておこうかと、革の鞄を部屋の隅に押しやり雨上がりの道草に興じる事にする。


懐に端書 はがきを忍ばせる。
投函がすっかり遅れてしまったが、帰着の目処が立ったという知らせを認めて。
この端書が届くのが先か、私が帰り着くのが先か。

航送の働きに期待したいものだが、まず私の帰りの方が早かろう。
まぁ、気にせず、駅舎前に設置されていた黒塗りの郵便箱の口に滑り込ませておこうと思う。


そう思いつつ表に出ると、草を揺らす風は殊の外良い心地で、また蒸し暑さも然程ではなく、しとしとと落ちていた雨水はさながら夏の夕べの打ち水の様であった。


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雨上がりの商店が並ぶ通りの方へ折れた私の目に、各々の店先で立ち話をする者や夕餉ゆうげ さいを購う者たちの朗らかな姿が映る。


道に生まれた小さな水溜りを避けながら菓子屋に足を向けた私は、
「兄さん!」
そう知った声に呼び掛けられて振り向いた。
「やあ、君か」
身丈の短くなった絣姿の下宿先の子が、息を弾ませてこちらに駆けてきていた。

「これ、兄さんにも一枚貰ってきた!」
そう子は私に赤い紙切れを押し付けた。
「や、...これは参ったな」
見るとそれは紙縒 こよりのついた短冊で、近くの社の星祭りの笹に結わえるものであろう。
参ったのは、そこに願い事を認める羽目になったという事である。
そのような事はやはり面映ゆくあり、またするりと言葉に成り難くもあり。


改めて思えば、七夕の願い事とは一体誰に向けて願っているのであろうか。
牽牛 けんぎゅう織女 しょくじょ
それもまたどこか違うような気もするし、知っているようで何もらなかったという気にさせられるわけである。
とにかく礼を述べ、私はその短冊を懐に仕舞った。

ふと菓子屋の前で通りの先に目をやると、柔らかに晴れ始めた空に淡い虹が架かっていた。




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夜汽車に運ばれ、また他の連絡を繋ぎ、ようやく私は棲家の町へと辿り着く。

夏至を過ぎたばかりの陽はこう として、夕に近付いて尚衰えを見せず。
遠征先にて増えた書籍は鞄をずしりと持ち重りさせ、また下宿先にて土産にと頂戴した佃煮や茶葉やらも書籍の隙間でひしめき合っていた。


それでもやはり馴染みの町並みは心落ち着くもので、その辻々や見慣れた家屋の杉板などから控え目に帰着した実感を与えられるものだ。
例の端書は未だ届いていないと思われるが、私は君の処へ寄って行く事にする。
居ると良いのだが、そう思いつつ辻を折れる。


通りと庭とを隔てる竹垣に差し掛かり、やや逸る心持ちと歩みでその奥に目を遣る。
すると、君が庭の中程にある すすきむら の前にしゃがみ込んでいた。
その沈んだ様子に声を掛けるのを躊躇 ちゅうちょしていると、
「まあ!」
と、私に気付いた君は まばゆいように明るい表情を見せ、小走りに竹垣までやって来た。


しばら く。端書は未だ届いていないと思うのだが、戻る旨を認めたものを出し遅れてしまってね」
「お帰りなさい、端書は未だですわ。お元気そうで良かった…」
「君も。ところで君は薄を見ていたのかい?」
「あぁ...薄の根元に思い草が...」
「思い草?」
南蛮煙管 なんばんぎせるですわ。今年は咲くのが早くッて」


立ち話も何だと茶を勧めてくれた君に、明日改めて訪うと告げて棲家へと足を向けた。
一先ず、旅装を解くと言おうか、この鞄の中身をどうにか片付けてしまいたかった。
それは帰着したという実感、そして私の心に碇を下ろすような行いに感じられたのだ。


しかしそれよりも、急ぎどうしても片付けておきたい或る事を思い付いたのが一番の理由であった。


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雨戸を開け放ち、縁側から久しぶりに風を迎え入れた一間で鞄の中身を取り出してゆく。
書籍は文机の上に重ね、土産に頂戴した品々はとりあえず勝手の戸棚に仕舞った。
書籍の次に かさを増す要因となっていた着衣を脇に避け、君と君の家への土産を文机の下に並べておいた。


そして中身を空にした鞄を納戸に仕舞い、粛々 しゅくしゅくとそのように片付けた私は改まって文机に向かった。
重ねた書籍のうち一冊から しおりを取り出す。
それは下宿先の子がくれたあの赤い短冊で、結局私は何も したためぬまま栞代わりにしていたのだ。


君は南蛮煙管を見ていたと言っていた。
確か風変わりな姿の花だったと記憶しているが、思い草とは覚えが無かった。
あの煙管の様な俯いた花姿がその由来であろうなと思いつつも、それよりその花を眺めていた君の沈んだ様子が私の胸を打った。


如月に薄氷の張るつくばい、その底に沈んだ花弁を掬う為に指先を入れたような、そんなひやりとして心細いような心持ちになった。
君は一人の時、人知れずあのように度々物思っていたのだろうか。
だとすれば私まで、神妙にしてやがて憂いを帯びてしまうものだよ。


私は短冊に鉛筆を滑らせた。
「その花の かんばせが 明るくなりますように」


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迷い無く認めた私の文字は燻銀 いぶしぎんの光沢を持つ生まれたての星となり、そしてそこに宿る言の葉を、天の河の光の一つに加えて貰いたく願う。


牽牛と織女に?
どうだろうかな、願っておいて何だが私には判然としないものだ。
明日君に聞いてみるとしよう。
人は一体誰に七夕の願い事をしているのかを。


南蛮煙管と思い草、そして七夕の願い事。
私は識らない事ばかりだ。
明日君は土産を気に召してくれると良いのだが。
嗚呼、その前に私は短冊を社の笹に結わえねばならぬ。



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         🎋



.+*:゚꙳★*゚+。.✩

過去作品ですが、この度僅かに修正しこちらに再掲しました。

世界が慌ただしく変化するこんな時だからこそ、星に願いを託す...そんな小さく飾り気もないことが、やわらかに心にあかりを灯してくれる気がするものです。


そしてこの掌編が、皆様の願い事を結わえる笹となりますように。

•꙳★*゚*•.☆*・゚