J.D.サリンジャー著 村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

キャッチャーインザライ、を読んだので感想を書く。
その前にまず、よく邦訳として『ライ麦畑でつかまえて』というのが有名だけど、あれ完全に誤訳だろ。と思った。
こんなに完全な誤訳というのもなかなかお目にかからない。

最近の日本の小説しかほぼ読むことがなかったのに、ここ1年くらいで国内外問わず古典に興味が湧くようになった。ずっと愛されている作品ってどういうものなんだろうと知りたくなったんだと思う。
もずおさんという、面白い人がチラリと触れていたのと、好きな作家である村上春樹が訳していたので、読もうと思ったのだ。

この本にも、もっと早く出会えていたらなあと思った。こういう感想を抱くのは、村上春樹『色彩を持たない田崎つくると彼の巡礼の年』を読んで以来で、人生で2作目ということになる。
中学生か、高校生くらいの時に読めていたらなあ。何を自分は思っただろう。主人公ホールデンや田崎つくると、きっと自分は同じことを考えていたはずなのだ。そしてそれに、具体的に何とは言いづらいんだけど、葛藤していたはずなのだ。あの時にしかない鋭敏なセンサーを持った繊細な心で。小さかったこの世界の全てに、少しずつ怒りがあった時。
今ではそれは失われてしまっているから、この本を読んでも、ああ、と思うに留まる。それは決して悪いことではない気もする、何にせよ変化していかないというのは良くない気がするから。そもそも、あの時出会っていたらと思う「あの時」のことは今現在考えているものなわけで、本当に当時の自分はどう思っていたか、もういまいち確証が持てなくなってしまっている。けれど、今以上には感じるところがあったはずだと思う。

もずおさんのnoteには、「『これは、自分のための物語だ。』と誰もが感じるだろう」と書いてあって、きっとそうなんだろうなと思った。きっとと言うのは、先述の通り「今」思い返す当時と本当の当時の同一性に確信が持てないことと、自分以外の人のことはわからないから。けれどそれについては、本書でミスタ・アントリーニという人も言っているけれど、誰しもが通っていく道なのだと、自分も思う。それは想像しかできないけれど、でもきっとそうなんだろう。

ホールデンはずっと気に食わない気分でいて、それは本書の最後の数ページまでずっとそうだ。ルームメイトに対して、タクシーの運転手に対して、舞台の観客に対して、果てはバーで遭遇した知人の連れに対してまでも。とにかく癪に触るのだ。もちろん、大人や大人の儀礼じみた全ての行為についてもそうだ。それで、人を挑発したり、意地悪をしたりして、結局痛い目を見たり、虚しくなったりする。どうにもできない。思春期って、そういうことしかしない時代じゃないか?
このどうにもできなさというのは、その当時は言葉にならないし、言葉にしようとする動機もない。無理矢理聞かれ答えてみても、でもそうじゃねえんだよなと思ったり、まあ真面目に答える気なんてさらさらなかったりするだろう。俺は、俺のことをわかる大人なんて誰もいないと思っていたし、だから詩とか歌詞に一切何も感じなかった。自分の目で見たことは、自分だけにしか感じることはできないから、誰が何を言おうとどうしようもない。そうやって自分だけで考えてても、大した知識や経験の蓄えもないからどつぼにはまっていくだけなんだけれど、そんな状態に自覚的であるわけもない。

昔のアメリカのホールデンほどではないにせよ、自分も2010年台の東京で、2010年台の東京なりの気に食わなさをずっと感じていた、と思える本だった。この本はずっと、ホールデンが自室を訪ねてきた人物(=読者)に対し、2日弱で起こったことを聞かせるという語り口になっている。ホールデンは16才だから、16歳の体験を16歳の語り口で語るのだ。神の視点は一切ない。出来事と、自分はこう思ったということだけがずっと続いていく。そうすることによって、思春期の時期にしか認識できない風景が、かえってありありと思い浮かぶのだ。俺はこの点がこの本の良いところだと思う。ここに、神の視点からのナレーションとかが入ってきたりすると、読者は現実に戻ってしまう。けれど、先述の通り、今の視点から振り返る当時と、当時そのものであった当時では、見えるものの見え方が違うのだ。そして、その見え方が違うのであれば、こと思春期の怒りに関しては、もはや描写する意味がなくなってしまう。もう思い出せなくなってしまったそのリアリティを追体験させることに本書は成功している。
ホールデンが喋り続けるだけによって、そういったスポイルが起こらず、思春期を経た全ての読者を、各人の過去へと没入させていくのだ。この点が本書の卓越した語りであろう。


もし今の自分がホールデンの後ろを幽霊のようについて歩いていたら、何をコイツはずっとカリカリしてるんだと思う気がする。実際、本当にクソみたいな目にも遭う(特にモーリスのくだりなんかはそうだ)んだけど、おおかたのことは、24歳の幽霊からすると、そんなことでカリカリしなくてもいいじゃねえか、と言いたくなってしまうんだと思う。
よく行くバーのマスターが、この本はあまり好きじゃねえと言っていて、ずっと主人公がウジウジしっ放しなんだよ、と言っていた。確かにそうだ、そうなんだけど、でもきっとみんなそうだったはずなのだ。外から見たらちっせえことでウジウジしてると見えるかもしれないけれど、なにせお金もないし世界も狭い思春期にとっては、そこが世界の全てなのだから。目の前にいる相手との関係以上に重要なものってあんまりない時代なのだ。空想の中でヒーローになる自分を想像して、なんとかやり過ごすくらいしかできないのだ。マスターだってそう言う年頃はあったはずでっせ?
ただ、もちろんそういうことが癪に触りまくる性格と、割とそうでないタイプはいるだろうとも思うけど。

ここからは自分の話。
軽々しく言ってしまうことになるけれど、ホールデンが羨ましいという安易な感情がある。これは俺個人的な話だと思う。
今では、身の回りで起こる多少の気に食わないことも、まあそれはそれ、と思うようになったし、自分と何かを比べるんじゃなくて、自分と自分を比べるべきなんだと俺は考えるようになった。その代わり、あの時の激情は失われてしまっている。自分の場合は、それが失われたことをはっきりと自覚したタイミングがあったし、失う前はこんなことをやめてえとずっと思っていたのだから、悪いことばかりではない気もする。

けれど、激しい怒りを失った人間に、いったい何ができるのか?何を残せるのか?行動ができなかった時代には原動力があったけれど、行動ができるようになってからはそれが失われてしまっている。きっと俺は、本当の輝きを宿すものをもう作れないだろうなという気がしている。それは、よく言えば自分以外のひとのために行動ができるということだし、ミスタ・アントリーニの言葉を借りれば、成熟したということだ。それを肯定する風潮もあるし、俺自身そう言った生き方を良いなと思ってもいる。けれど、何かを作って、残して、そういったことができればなあと思ってしまうのだ。そうあれる人は、多分苛まれている人だ。そこからしか本当の原動力というものは生まれない気がする。だから楽しい、幸せな人生ではないかもしれない。自分の羨望が安易であるということも承知だ。でも。

怒りを失い大人になっていくことについて、みんなはどう思っているのかな。多分、特にどうも思ってない人が多いんじゃないだろうか。別に人生に必要ないし、そこに価値があると主張するのはきっと数奇なことなんだろうな。


最後の数ページについて。
ここまでイライラしっぱなしで散々な目にあってきたホールデンだけど、大好きな妹のフィービーがメリーゴーランドに乗るのをただ眺めているときに、なんとも言えない満ち足りた気持ちになる。決して幸福な気持ちではないんだろうけど、どこか充足しているのだ。
これがなぜなのかは、思春期の読者にしかわからないだろう。思春期ではない今、愛する妹の無邪気な姿に荒んだ心が洗われたんだとか、そういうこじつけじみた解釈はできるけれど、けれど本当のところはわからない。最後のこの描写だけは、なぜホールデンは立ち去らなかったのか、何を思っていたのか、当事者でないとわからないだろうし、今から振り返って価値があることではない。けれど、この数ページのためにそれまでのすべての出来事があったと言っても過言ではないかもしれないくらい、重要な意味を持つシーンのはずだ。本書を読めば、理屈でなく感覚でそのことがわかる。
だから、もしこのnoteを読んでいる思春期の読者がいたら、最後の数ページに何を感じたか、こっそり教えてほしい。今やこんなんになっちまつまてるけど、頑張って理解しようと試みるから。

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