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梨の形をした二章

第一章「その頭」

栄太の一日
{午前8時}
出社。
あくび。
コーヒー。
ため息。
パソコンの立ち上げ。
メールのチェック。
 見ないメール削除。
 仕事のメールもうっかり削除。
「あー…いいや、また送ってくるだろ。」
 チャイム。
ため息。…
{午前9時}
窓口。スタンプ。小銭。作り笑い。
老婆。
サラリーマン。
老婆。
老婆。
老婆。
老婆。
少年。
老婆。
老婆。
老婆。
老婆。
伸び。
今日は老婆が多い。
老婆。
サラリーマン。
若者。
老婆。…
{午前11時}
客がはける。
あくび。
伝票揃え。
伸び。
あくび。
隣の窓口、同じくあくび。
沈黙。
開く自動ドア。
老人。
誰も待ってないのに、順番札を取る。
無言。
電子音。
栄太の前。
ため息「いらっしゃいませ。」…
{午後0時}  
交代。食事時間。
いつもの弁当屋。
混雑。大声。湿ったカラアゲ、臭いキャベツ、固い飯。400円。
隣のコンビニ。
「洋梨ジュース」二本、240円。
川べりのベンチ。遠く船。弁当開封。
「えっ、箸無えじゃねえかよ」
 ため息。
 鳴るプルトップ。…
{午後1時}  
自席。
チャイム。
あくび。
メールのチェック。
書類の並べ替え。
持ち帰ったジュース一本。立ち上がる。
休憩室。サボリ。
友人、煙草。
「おまえ、またそのジュース飲んでんの。」
「俺さ、なんか小せえ頃から“梨好き”なんだよ。」
「梨のジュースなんて珍しいよな。」
あくび。
窓。
友人「お、ウヨクウヨク。」
窓外、黒塗りのバン。スピーカー。がなり声。
「最近多いよな。軍備せよ、軍備せよって。」
「…ああ、XXX国がいよいよやばいらしいってやつ」
「お隣のYYY国も、いよいよ国境に軍隊を集結させてるとかなんとか」
「ニュースで言ってたな」
「日本もやばいらしいってさ」
「それはねえだろ」栄太、缶を置く。
「ケイザイ援助だって沢山してるみたいだし、なんたってバックに☆☆☆国があるから。滅多に手は出せねえ」
「ああ、基地も有るしな。でもわかんねえぜ。あの国めちゃくちゃらしいから。背に腹は換えられないっつうかさ。こないだのミサイルだってわかんねえよ。衛星とかなんとか言ってるけど、照準がずれただけで、ほんとはSSS市あたりを狙ってたんじゃ」
煙草の火が手に。慌てて空缶で揉み消す。栄太乾いた笑い。友人、取り繕うように窓外のバンを見やる。
「ほら、真っ先に狙われてるのはYYY国じゃなくて、我が国だ、とか言ってるぞ」
栄太、だらけた笑い。
「狙うのは勝手だけどさ。ミサイルもあれだけで続き無えじゃん。あれは中東あたりに売り込むためのデモだったんだって。だいたい戦争起こすだけの国力なんか、もう無えよ」
友人、次の煙草をどうしようか迷うが、止める。
「まあ今さら軍備して間に合うかってのもあるな。」
「しょうがねえんだよ。どっちみち。俺らが考えたってなんも変わらんて」
 乾いた笑い。バン、のろのろと走り去る。
{午後2時}  
交代。再び窓口。スタンプ。小銭。作り笑い。
サラリーマン。
サラリーマン。
サラリーマン。
おばさん。
老人。
白いポロシャツの中年男。
 栄太、目を見ずに応対。
男、聞こえるように舌打ち。
栄太、条件反射(睨む)。
男、大声。
待ってましたとばかりに。…
(数分経過)
 上司登場。
銀縁メガネ。
禿げ上がった頭。
脂ぎった顔。
ペコペコ。揺れるうぶ毛。…
 急遽交代。
 友人。
すれ違いざまニヤニヤ。
 扉。
 事務室。
「すいませんでした。」
上司、目を落として弱い微笑み。次いでため息。
声を潜めて一頻り説教。栄太、デジャヴュー(いつものこと)。規則的に肯きつつ、心中あくび。
栄太、頃合いをみてひとこと。
「ところで、転勤の話なんすけど、どうなったんですか。この間、上に言ってくれるって。おれもうやなんすよ、窓口」
「まあ、言ってはいるんだけどね。こればかりはねえ…」
山千な笑み。栄太天を仰ぎ、大きなため息。見なかったふりの上司。背を押し、掛け声。 
扉。
窓口。
着席。
ひとこと「ふざけんなよ。」
眉をひそめる老人。
慌てて作り笑い。スタンプ。小銭。
 ため息。…
{午後3時}
交代。自席に戻る。
あくび。
コーヒー。
時計。
ため息。
スクリーンセーバー解除。
メール着信無し。
ため息。 
仕方なく書類整理。…
{午後4時30分}
休憩室から戻る。
あくび。
机上の掃除。
ペン立ての整理。
あくび。
メールのチェック。
便所。
また休憩室。
煙草。
自席。
コーヒー。
あくび。
…西陽。
{午後5時}
チャイム。
鞄。椅子の音。
「お先に失礼しまー。」
上司の目。
同僚の目。
エレベーター。
あくび。
自動ドア。
外気。
伸び。
深いため息。
振り返り一睨み。

…長い影。

第2章 「その体」

夕暮れのオフィス街は、楽しいひとときを待ち焦がれたビジネスマンやオフィスレディたちであふれかえっています。エイタもそんな一人でした。今日も恋人と待ち合わせ。夕闇の中ロマンティックな街灯の明かりが、足早に歩くエイタを追いかけて、包み込んでいきます。いつもの喫茶店の扉を開くと、手を振りながら立ち上がったのが恋人、クリエです。エイタはまるでアメリカ映画の俳優のように、大きく両手を広げて言いました。
「お待たせ。行こうか。」
クリエの愛らしい瞳は、エイタのことだけを映し出す鏡です。エイタは軽く息をつくと、恥ずかしそうに目をそらし、出口へとうながします。クリエは伝票を渡します。やさしいエイタ。ちょっと息をつくと、支払いを済ませます。
いよいよ恋人たちの放課後が始まるのです。
「映画」
洋梨のスフレを口に運びながら、エイタはクリエの話を聞いています。ドラマ、会社、夏休みのこと、他愛も無い会話が続きます。といってもエイタがしゃべる事は殆どありません。クリエの言葉を少しでも長く聞いていたいからでしょう。クリエの声はどんなBGMにも増してエイタの食欲をそそるようです。
「部屋」
クリエのマンションは昼間のけだるいムードを少しばかり残していました。時計は9時半すぎを示しています。ソファの上ですっかりくつろいだ様子のエイタ、かじりかけの洋梨を片手に何か物思いにふけっています。壁の間接照明が灯り、ゆっくりクリエの肩を抱きます。部屋の中で動いているのは、もはやせわしないテレビの画面だけでした。…
「…先ほど9時すぎ、☆☆☆国の軍事衛星が、XXX国から3発の弾道ミサイルが発射された様子をとらえた、との発表がなされました。核兵器等、大量破壊兵器搭載の有無については今のところわかっておりません。目標地点はYYY国北部と推定されます。YYY国政府は何らコメントを発表しておりませんが、報復行動に出るのは必至とみられます。我が国のすぐ側で戦争が勃発したことを受けて、QQ外務大臣のコメントが今…
………え?…はい…………」
 「え、続いて今、入りましたニュースです。△△△市周辺で、巨大な閃光が目撃されました。同時に大きな音と、地響きが感じられたという未確認情報もあります△△△市には☆☆☆国の軍事基地があり」
「なんだか今日は盛りだくさんだね。」
茶化すようなクリエの言葉に、エイタは肯きも否定もしません。エイタの目はテレビを通り越して、その奥のコンセントを見ているかのようです。しゃくしゃくという音。クリエが覗き込むと、梨から垂れた汁が襟元に滴ります。エイタは我に返ったように飛び起きて、クリエは少し不機嫌な笑いを浮かべます。ティシュで襟を拭うと、エイタは照れくさそうに梨を置き、再び手を回します。
「………いま、ミサイルの着弾地点がわかりました。繰り返します。着弾地点が判明いたしました。」
「………先ほど…×××国から発射されました三発のミサイルについて、いずれも着弾は、△△△市周辺…我が国…と断定されました!」
静止する時間。
ジッポーを鳴らす音。
戦争。クリエはまるで「カサブランカ」の一シーンにいるかのような気分でした。これから後の熱い夜の演出?幼稚なボガードは煙草を唇の端に挟んだまま、テレビから目を逸らし、遠くを見詰めています。渋さを演出しているのが見え見えですが、クリエはそんなボガードの姿に酔ってしまおうと思います。
「…恐いけど…なんか遠い世界の話みたい。」
クリエは少し目を落としてみます。エイタはやさしく肩を抱き寄せます。待ってましたとばかりに、小さな頭をもたれかけさせます。亜麻色の髪がエイタの頬をかすめました。
エイタは少し息をつき、時計を見ます。
テレビではアナウンサーが時折詰まりながら、ニュースを読み続けています。
「国内への軍事目的のミサイル着弾は、我が国史上初めてのケースになります。
かなり大規模な被害が及んでいる模様です………今わかっている範囲での罹災者数は……推定・・…・三万数千にん………・・…うち、死者は・…………………・・(いちまん)・………・……・・……・・…・……・・…・……・・…・・失礼しました…」
クリエは何故か口元を綻ばせました。テレビの言葉が良く聞き取れなかったようです。
「アナウンサーが泣いちゃ駄目よね」
くるりと頭を回し、エイタの瞳を見上げます。エイタは少し眉をひそめます。
 昼間の友人との話、頭をよぎりました。
 しかしエイタは息をついて、テレビを消します。忘れれば事実は消える、そう思っているかのように。
やがて穏やかな夜の空気が、ふたりのムードを盛り上げていきました。

朝の光が二人をやさしく包むころ、エイタはひとり起き上がり鏡へ向かいます。ちょっと息をつくと、今日こそ言い出そうと思っていたことばを口の中で繰り返します。
「うん…」
背中の声にちょっと驚きますが、やがてしっかりうなづくと、クリエが起きるまでの時間をどう過ごそうか、と思案するのでした。

 エイタの足元には齧りかけの梨が、寂しく転がっていました。


「エピローグ」

轟音と激痛しか覚えていない。
朝の別れ話は辛かったが、そんなことは劫風と共に吹き飛んでいた。…会社への道中、オフィス街の入り口で出遭った出来事は、最早取り返しのつかない本当の出来事だった。朝帰りの茫洋とした若者、会社へ急ぐ中年サラリーマン、犬を連れた散歩の老人、一仕事終えた掃除夫…栄太に限らず全ての路上の人間は、僅か10分の間に地獄を知ったのだった。
巨大な岩くれと鉄棒の山がそこかしこに築かれていた。色とりどりの濃厚なガスがたちこめ、あちこちで爆発音が轟く。地面は割れたガラスの不気味なきらめきに覆い尽くされている。所々溶解し捲れあがったアスファルトの、そこここから煙が立ち昇っている。突然のカタストロフは、恐怖すら感じさせる余裕を与えなかった。栄太は只よろよろと、歪んだ不自然な体で歩く。地下から這い登るようなうめき声と、おぞましい姿をした人間達の間で、幽霊のように何も考える事ができなかった。靴底がべたべたと引っ付く感じで、足裏がほのかに暖まってくる。
「たばこ…たばこをくれ…」
小さなかすれ声が足にからみつく。視界の隅に、見たような顔がうずくまっている。両足が変な方向によじれ、頭に傷を負っており、時折大きく痙攣する。しかし栄太には、他人に構う余裕はなかった。鼻と喉を突く強烈で複雑な匂いが、頭を麻痺させてもいた。腰に響く激痛の中、それが誰だったのか永遠にわからないまま、どこへ向かうでもなく歩き続ける。両のふくらはぎが黒く染まっていて、腰の出血はかなり酷いものと知れた。
「うわ」
漆黒に焼けただれた岩塊へ足を乗せた瞬間、靴から白煙が巻き起こり、火のように熱くなった。栄太は足を引こうとするが、しっかり接着されてしまっている。靴を脱ごうとしてよろけた栄太は、前のめりに、転げた。
右肘がじゅっと音を立て、口から泡が吹き出る。左肩、左頬、腹、両膝…地面に触れた部分から順番に白い煙があがる。反射的にもがけばもがくほど、栄太の体は変容していった。
熱い。熱い。熱い。あつい。
イタイ。痛い。痛い。痛い!
体のどこが痛いなんてもう特定することは不可能だった。
「うばああああああ!」
熱さを通り越し、むしろ強烈に冷たい刃物で全身切り刻まれていくようだった。
のたうつうち不意に体が軽くなる。ようやく立ち上がると、右肩から手の平まで、焼け上がった皮膚が一気に剥がれ落ちた…ぴりぴりという音をたてて。しかしその痛みは全身の焼け付くような痺れの中に紛れて、良く分からなかった。腫れ上がった喉には血膿の塊が詰まり、栄太は息をするたび強く咳き込み、吐き出しながらも、足を前に上げて、溶解した地面を離れようとする。その両足は赤黒く剥き出しになっていて、下半身の着衣は焦げ落ち、岩の上に僅かに形跡を留めるのみであった。
…ざ、ざ……
散らばるガラス片を掻き集めるように、擦るように、歩み続ける。混乱しており、苦しくもあり、何故ここでこんな目に遭って、意味無く進み続けているのか、一切が灰塵の雲の中にあった。大理石の白い瓦礫の中に、奇跡的に残ったガラス戸があった。その中に映る自分の姿に、ふと目が止まる。…見たくないのに…見て、栄太は体をくぐませ、咳き込み、膿んだ声を発した。
「ううぇ、う」
髪はあちこち禿げ上がり、左目は大きく腫れ、口元には歯並びが露出している。無数の襞が顔の左半分を醜く歪ませ、右頬と鼻は団子のように赤く膨れあがっていた。栄太の脳は8割がた痛覚と物理的障害に占められていたが、残り2割の部分が次の言葉を発させた。
「ば、ばけも、の」
両腕はほぼ全部が赤剥けていて、左手の親指だけに辛うじて爪の残欠が残っていた。肩口しか残っていないシャツはどす黒い染みに染め上げられているが、焦げたせいなのか血液のせいなのか、わからない。腰骨が奇妙に歪んでいて、右腰の大きな傷口から白い塊がはみ出している。

…動かない。足が動かない。またもや、アスファルトに貼り付いてしまった!
「うあ…う、あ、う」
ガラス戸の自分に見入るうち、完全に張り付いてしまったのだ。
ぼろぼろの靴が再び煙を上げはじめた。何とか靴を脱ごうとする。だが余りに緩慢であった。
足にはもう力が入らない。
焦る。焦るが。…
うひええ。
絶望的な悲鳴が背後より轟く。巨大な風音が近づいてくる。熱波が襲う。
ごう、ごう、と。
栄太の動きが止まった。
足はたちまち黄色い火炎に覆われて、しかし感覚が無い。
もう何も感じなかった。
視界に青白い炎がちらつきはじめる。背後より迫る業火に徐々に炙られながら、栄太は………
何故か、昨日の午後の風景が浮かんでいた。それは上司に説教されているところだった。自分は文句を言っていた。上司は笑ってごまかしている。
…懐かしい…
父でも母でもなく、死に掛けた俺の頭には、禿げ上がったメガネオヤジの顔が浮かんでいるのだ。
はげオヤジ、はげオヤジ、はげオヤジ…
社窓から差し込む鄙びた陽射し。ずっと際限無く続いていた、あの詰まらない日々。…友人。どうなったんだろう。文句を言ってきた男。どうしたんだろう。…
栄太の脳みその9割までが、激痛、掻痒、無感、悲嘆、絶望、…全ての苦しみの重さの前に、最早活動を停止しつつあった。
だが残り僅かな部分は、うたかたの儚い回想に浸り込んでいた。人生の終端を美しく飾るための悲愴な幻想に踏み出していた。
…あいつ…どうしたろうか…
朝には見たくも無くなっていた、あの顔が浮かぶ。こってりした豚の脂身のような、息の詰まる夜。もういいかげん終わりにしようか、と漠と思った朝。
…懐かしい。
あいつ。
…あいつ…あいつのところへ行きたい。
行きたい。行きたい。
…しかし、焼け上がり始めた栄太に、そんなことはもう、不可能だった。栄太の体表に沿って吹き上がる恨火は、全身の黄色い脂肪を沸騰させた。
それでも栄太の“心”は、
一歩一歩、
 地獄の釜底を踏みしめて、
 栗江の幻影に向かい、
あゆみつづけた。

…あいつ…
…あいつ…泣きやがって……
どす黒い両膝から白い皿が零れ落ちる。肩までが赤黒い炎に包まれていく。ぱちぱちという音が耳元にはぜ、腹からどさっと大きな塊が落ちた。
…悪かった…
わるかった。

まってろ。
まってろよな。
 いま行くから…
栄太の涙腺は瞼と共に燃え上がり、蒸発してしまったが、心は、一筋の涙を落としていた。倍程にも脹れ上がった体は、その涙によって冷まされ、癒されていった。どこまでも灰色で陰惨な風景の中、一点の光が見えた気がした。遠く光る扉は今しも、開かれようとしていた。

ああ…くりえ…
わらってくれた…

だが最後の刻が来たとき、栄太の脳裏に何故かふと、別のものが立ち現われた。それは人間ではない。呟いた。心の中で、何度も、何度も。渦高く燃え上がる炎の中、顎骨が僅かに動き、剥き出しの目玉に一瞬ではあるが、強い煌きが浮かんだ。
それもやがて、煙となってしまった。

汚泥のように濃厚な煙のたちこめる中、かつて人間であった黒い棒きれが、そこここに立ち並んでいる。栄太もまた、膝から下を残して、虚空へと消え去っていた。…


「エピローグ2」

その男達は、俗に「セラピスト」と呼ばれていた。白いコートを羽負り、赤いリュックを背負い、白いスラックスは雪の中に紛れ、その上に被るように履かれた真紅のゴム長だけが浮き立って見える。赤いソフト帽には、いずれも大きな雪の塊が乗っている。
「このあたりだな、…そう、そうか…よし、わかった……ん、今、入ったな……ああ聞こえる。了解、待機していてくれ…」
宙に向かって目を閉じ、両手を合わせる老人のコートは、青白い光を発していた。老人は祈りを捧げるような格好で、しばらく黙って立ちつくし、何かに聞き入っているようだった。若い方は、その脇でじっと待つ。やがて老人は目をひらく。同時に、コートの輝きが失せた。痩せた青年に向かい顎を振る。青年はバネに弾かれたように、丸々と膨らんだリュックを降ろす。軽く雪を払うと紐を解いて、中から大きな鉄の箱、長い棒、真ん中に穴の開いた汚れた金属盤を取り出す。青錆びた箱にはブラウン管がついていて、そちらが前らしい。上には大きな4つのボタンが並び、赤、青、黄、黒という色がついていた。両脇には取っ手があり、左側にのみ、小さなダイヤルがある。青年は箱の底へ棒をニジリ込み、次いでもう片端を金属盤に取り付ける。老人は「検知機」が出来上がるのを待って、奪うように取り上げた。青年はリュックの紐を締め背負い直すと、よろよろ立ち上がる。ボタンが左から順に押され、ぶうんという音がして画面が光った。不明瞭な砂嵐が浮き上がる。ダイヤルをひねると、音が流れ出てきたが、青年の予想通り、単調なノイズだけだった。
二人は辺りを徘徊しはじめる。
二人の通信技師は、「遠隔通信」の妨げとなっている“混信”の原因を探していた。…
しんしんとする雪の中、真紅の帽子と靴だけが浮き立って見える。二人は小高い所に向かっていた。静寂の丘に、ぷつぷつという音だけが幽かに響く。老人は確固とした足取りで登ってゆく。大地は草木の一本も無い。白い雪の所々に黒い岩が露出している。青年は追いつくのが精一杯という呈だったが、老人は待つ様子も無く登りゆく。やがて登り詰めたところで立ち止まる。青年はやっと休めるといった風で話しかける。
「…さすがですね」
「ここは何度も来ているからな。大方ここだろうと思ってな」
 箱の赤ボタンが光った。うっすら雪を被った白黒画面が揺れ、何かを映し出そうとしていた。
「ビンゴウ」
老人は肯くとボリュームを最大にした。二人は箱に顔を寄せ、耳を澄ませる。不快なラジオノイズの中に、男の声のようなものが混ざり始めた。何か念仏を唱えているように聞こえる。抑揚の無い声。青年は機敏に前に廻り込み、画面を覗き込む。
ブラウン管には、一人の男が映っていた。点描のように砂にまみれた映像ではあるが、立ちすくみ何か苦しんでいるようだった。青年はしばらく釘付けになる。
だが映像が鮮明になるにつれ、青年はゆっくり顔を離していった。青ざめているのは雪のせいだけではない。
 老人は青年に後ろを向くように指示する。箱を片手に持ち替えると、不意に音が大きくなる。はっきり一つの単語を繰り返す男の声が聞こえてきた。テープがからまったような、執拗な反復。薄気味悪い低い声。青年は背を向けたまま顔を歪め目をつむった。青年のリュックの中から、肌色の和紙に包まれた塊が取り出された。
「ちょっと持っていてくれ。」
老人は震える青年に箱を手渡すと、自分のリュックに手を回し、小さな熊手を取り出した。しゃがみこんで、雪の薄い所を探すと、掻き分け始める。すぐに黒い大地が露出した。タールのように歪んだ岩面は、明らかに焼け爛れており、一見溶岩のようだった。しかしよく見ると、溶けたガラス片や、灰色のコンクリート、針金らしきものなど混じっている。
 一メートル四方程の黒い祭壇が出来上がった。老人は包みを置いた。青年の持つ箱には、全身から煙を噴き出した男が映し出されていた。青年には、呟き声がさらに大きくなったように感じられた。老人は、包紙を開けた。
…それは一個の、
“梨”であった。
紙を外し、ポケットに捻じ入れる。頭を垂れ、両手を注意深く合わせると、コートが僅かに青く光った。
「なし、なし、なし、なし、なし」
…長い時間のように思われた。立ち尽くす青年の手の中で、突然箱は沈黙した。画面にはサンドストームが戻っていた。青ボタンが灯った。青年の鼻と顎に小さなつららが出来ているのを見て、老人は初めて笑った。
箱をしまう青年を尻目に、立ち上がった老人は再び瞑目する。白いコートが今度ははっきり青い光を発し始める。
除去確認のテストに入ったのだ。
青年は手を止め、老人の口元を噛み締めるように見つめる。何度かの思念送信ののち、本部からの結果報告を待つ。

「…了解。じゃ戻るから。」
老人の安堵の笑みが、青年の心を和ませる。“混信”は完全に無くなっていた。二人は荷を背負い直し、踵を返すと、薄霧の中へ消えていった。
雪は止んでいた。しかし風が吹き始める。黒い大地に残された梨は、やがて吹き付けてきた風に震えだすと、ころころと転げ出して、いずこへともなく消え去った。

                 未完

2000/1

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