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ナベゾコの声

通り池へむかう遊歩道ができていたのにはおどろいた。珊瑚岩の黒い荒野をわたる木道は奇異な安直さを感じさせたが、島をわたる風のもっとも強く吹きつけるあたりは妙な清々しさをかもしている。

神渡りの地だ。

碧い通り池は遊歩道をはさんだ二つの繋がった深い池、というよりカルストの凹地が地下で融け繋がった塩池である。

・・・。

そうだね、風が耳元でささやいた。こんなことが自然にできる。島は不思議すら不思議と思われない空気をたたえ、内陸のあまりに人工的な練習飛行場とはモンパや松や、あだんの密林でうまく区分けされている。

そうだ、この黒い荒野は惨事のあとでもある。旧い話だ。


いくつかの集落が、このひっきりなしに吹き付ける風の最も強い風のころに、大波に襲われて一片もなく、海の彼方に奪われていった。江戸末のころだ。


巨大な岩がぽつんと荒野にのっている。おそらく先の戦争前後に神縄をかけられて海守りとまつりあげられていた。鳥居のまわりのロータリーはたんにクルマの旋回場所となっている。

こんなまがまがしい岩は波照間にもなかった。災厄の記念碑、墓標。神というより悪魔の気がした。でもこの島では災害も豊穣もごっちゃになって海からやってくる。神も悪魔もない。


通り池は龍が通る。内地でいえばこの荒涼とした岩地はやおよろずの神の集まる出雲のような土地であるらしい。通り池は内地で神気の場と畏れられたりもする龍穴というやつであろう。龍はこの白っぽい碧の池の片方より入り、少し小さいもう片方から出てゆく。

行き先は?


龍に導かれるように、海風に背を押され木道を進むと、展望台のようなものの先でいきなり道が破壊され、断ち切られていた。木道はつづく。

巫女の血をつぐひとびとはこの通り池で祭儀をおこなう。

その行き着く先に、ナベゾコという池がある。

鍋底の意だろう、空中写真でもよく見えない、遊歩道はそこまでつながっているはずだが、しかし、木道は断たれている。巫女のように地面に降りて進むこともできる。だが、私は風のこえをきいた。

・・・だめだよ。

ウタキのようなものだ、神聖にして侵さざるべき、まがまがしさもある。

・・・いってはだめだよ。

黒い大地が海のほうに傾斜し真っ青な東支那海に切れ落ちる。広々としたカルストのもっとも奥の凹地に、ナベゾコはあるのだ。神々の集まりつどう中心地、よそ者を見たら怒り何をするかわからない。


江戸末の津波か台風はもしかするとこの神々の荒野を侵した人間への祟りだったのかもしらん。神々はきまぐれにして人間なぞ取るに足らないものと思う。戦争ですら文明ですら、かれらには取るに足らないもの。

人間は畏れご機嫌とりをしたり理解しようと歩み寄ったり無視したり破壊したり、これまた気まぐれだからね。

お互い様さ、


・・・ああそうだね。風の声に私はナベゾコのかたを視野の右に押しやって、アイスクリンを舐めながら戻った。


痛!


はは、カンタンにわかったように思うなよなあ?


通り池の中から低い声が聞こえた。膝を欄干でしこたま打った私は激痛にふと、我にかえった。写真を撮りすぎたんだ。


よくあることだろう?


ああそうさ、こんかいは右足に来るようだね。しばらくびっこになっても仕方ないね。


風が笑ってもう一つの通り池に飛び込んだ。


右足にくるのは意味があるのだろう、たぶん多良間だ。


タラマのことなんか知らんぞ

轟く風間に聞こえた深い声は龍だったのだろうか。

ダイビングする者もいるそうだが耳がなければ何も気にすることはない。


私は耳があるようだ。きのう拾ってきた若い白装束の女は、あまりに小声すぎて結局よくわからなかった。内地で聞こえない声がここではよく聞こえる。


ナベゾコのことを少し心残りにおもうが、アイス売りのおじいの三味の音を耳裏に、チャリにまたがると、さっさと足に力をこめた。


またこいよー

ああそうか。

ナベゾコが呼んでいる。

また来させるためにこんかいは、右膝頭に紅い刻印を残して追い返したんだね。

時期があるのだね、神々のつどう大地よ。


大神の頂上で聞こえたこの島じま最古の神の声よりも強く、若々しいひびきが、まだ調子のいい右の鼓膜の裏に貼りついて染みた。


また来ようね。



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