スクリアビン

高名な作曲家であるスクリアビンが言った。

日本の「鐘」が欲しい

何とか都合を付けて貰えないものか

妾だろうか脇に若い女性が控えていて、言葉を足す。

次回作に使いたいということのようだ。

鐘は時を告げる大切なものだから、手に入るかどうかわからないと答えると、不機嫌な顔をしてピアノに向かう。

いきなりの轟音が心臓を縮み上がらせる。

五番奏鳴曲であった。

豪奢な演奏が過ぎ去ると、再びこちらを向いて言う。

これでも手に入らないのか

口髭を引き伸ばしながら得意気のピアニストに、私は冷たく言い放つ。

鐘は人間の煩悩を解き放つものだから、

人間でないあなたに差し上げることはできない。

スクリアビンは烈火の如く怒り、伸ばした口髭を握り締める。黒染め液が垂れて鍵盤を汚す。女が巧みに麻布を伸ばし、拭き取ろうとするが、高名なピアニストであるスクリアビンは、それを押し退ける。

再び鍵盤の方を向くと、両手を勢い良く突き出す。

突き出した両の手首を、非常な速さで痙攣させ始めた。

微風が頬を撫でる。

やがてそのまま降ろした全ての指先から、この世のものとも思えぬ奇怪なトレモロが響き始めた。

静かな夜が音を立てて震えはじめる。

窓硝子が微細に振動し、共鳴してさらに不可思議な不協和音を重ねてゆく。外側に一匹、また一匹と、大きな蚊蜻蛉がぶつかっては落ち、ぶつかっては落ち始める。土中の蛙が目覚め地響きのような唸り声を上げはじめる。不意に現れた無数の羽虫が灯に群がり、螺旋を描いて飛び回る。音が大きく、飛び跳ねるようになるにつれ、群れはまるで青白い炎が段々と勢いを増し、燃え盛ってゆくかのように、膨らみ続けてゆく。

木々までが異様なざわめきを立て出した頃、孤高のピアニストは静かに両手を下ろす。

最後の音が地に落ち、瘴気が静まると、静かな夜が戻った。

スクリアビンは鍵盤の方を向いたまま、俯いたまま、物思いにふける様にして動かない。肩に落ちた羽虫を払おうともしない。

女は部屋の隅で震えている。

私は恐る恐る、注意深く語り掛ける。

もう鐘は必要無いでしょう。

スクリアビンは何の反応も示さない。そのまま空気に軽く会釈をして私は部屋を出た。

やはり人間ではなかったのだ。

(1999/9)

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