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文章を書くということ

定期的に文章を書きたくなる。
今日は、なぜ文章を書きたくなるかについての文章を書く。
ただ、結論をはじめに書くと、明確な原因はわからなかった。
そのため、これからの文章は思考の過程となる。

はじめに、言葉とそうでないもの差異について考えてみた。
文章は当然、音楽など耳から入る情報とは異なる。
たとえば、どんなに素晴らしい音楽を聴いても、その素晴らしさを的確に文字に起こすことは難しい。
絵などの視覚情報も同様である。
逆に、小説を元にしたドラマなども、小説の体験とは異なることが多分にある。
そしてそれは、原作とは違うといったマイナスの評価としてよく見聞きする。
このように、文章は他の表現と変換不可なものである(そもそも変換可能な表現があるのかはわからない)。

では次に、文字を使用した別の表現もみてみる。
ラジオを書き起こした文章は、情報を得るという点では聴取と遜色はないかもしれない。
ただ、そうした情報はラジオ番組を構成するリスナーの存在、ラジオDJの声色などの空気が抜け落ちている。
このような空気感は、漫才に顕著に表れる。
漫才の書きおこしを読んでも、面白さは伝わらない。

多分、文章は疲れるのだと思う。
音楽は身体で感じられるし、話し言葉は話し方や表情などの言葉以外の要因も重要になる。
そのため、音楽やラジオ、動画は別のことをしながらでも雰囲気を楽しめる。

文章はそういうわけにはいかない。
文章を読むときは、他の情報を遮断しないと頭に入らない。
そのような姿勢で読まれる文章を書くには、(少なくとも自分には)相応の覚悟がいるのかもしれないと感じられる。
ただ、文章は何を書いてもよい。
そうした自由と疲労をたまに感じたくなるのかもしれない。


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