苦手だった交流学習

昨日は院内学級での生活と、そこで芽生えた”初めての意地”についてお話ししましたが、今日は小学校後半をリアルに綴ります。

僕はその後、この時期に自覚したコンプレックスと長い間戦っていくことになります。

 ーーーーーーーーーーー

 さて、無事に『いぶき学級』に戻って1年が過ぎ、とうとう懸念していた4年生を迎えました。入院生活で揉まれはしたものの、性格が急に変わるはずもなく、通常学級に適応できるほどの積極性もまだ身に付けてはいませんでした。
 それどころか、共に学んでいた先輩たちが卒業し、休み時間を除けば先生と1対1のまさに「家庭教師」状態。元来「交流推進派」の両親が、この状況に黙っているはずもなく、私は「週4時間の教科交流」と「週1回の給食交流」に出向くことになったのです。
 

 そこに至るまでには、それは大変な道のりだったと後から聞きました。当時はノーマライゼーションやバリアフリーはもちろん、ユニバーサルデザイン、ましてダイバーシティ(多様性)といった考えも浸透していなかった時代です。「1対1で勉強ができていて幸せじゃないか。何を贅沢言っているんだ」等の批判的な声や、「普段だって35名以上の児童を見ているのに、何かあったらどうする。それにできない子に合わせていたら授業が遅れる」という決まりの文句の応酬で、交渉は困難を極めたといいます。それでも、特殊学級の先生と両親の粘り強い説得により、「教室を下の階には移さない」「交流中に何があっても特殊学級側の責任とする」ことを条件に、ようやく許可が下りたのでした。
 今でこそ、小学校にエレベーターが完備された校舎もあると聞きますが、20年前は当然階段しかありませんでした。そして、多くの学校がそうであるように、僕が通っていた学校もまた、学年が上がるにつれて教室が上の階に行く「上昇システム」を採用していたのです。そうなれば必然的に私をなんとか上の階まで連れて行く必要があります。
 最終的に下された決断は「母がおんぶをして3階まで連れて行く」というものでした。実は付き添いをすることになる特殊学級の先生からも、「腰を痛めてしまう危険があるので、階段昇降のサポートまではできない」と言われていたのです。定期的な交流学習が開始された4年生の2学期からの半年間、母は決まった時間になると学校に再登校して私を3階までおんぶし、およそ2時間後に今度は1階に降りるためだけにやってきたのでした。私も「4年生にもなって親におんぶされている」という児童の視線が嫌だったのですが、朝の送迎を含め「1日3往復」していた母の方がさぞかし大変だったことでしょう。5年生からは教室が4階になったこともあり、近隣の中学校から「ステアエイド」という階段昇降機を借りることができ、母がその都度学校に来ることはなくなりました。
 

 そんな母の努力に報いて私が交流に積極的だったかといえば、残念ながら正反対の気持ちでした。交流の時間が近づき「ステアエイド」に乗り込むと、自然と口数が減り、腹痛が起こってしまうのです。それほど交流に、いや通常学級という環境を身体が拒絶し、行きたくありませんでした。
 しかし、このような気持ちを抱いていたことを、当時は誰にも言っていません。いや、子どもながらに親や先生方をはじめどれだけの方々の協力によって成り立っているかを何となく察知していましたから、「言うことができなかった」というのが本音です。
 4年生では国語と算数、5・6年生では国語と音楽をそれぞれ2時間、1週間あたり4時間の教科交流と1回の給食交流を行いました。私が苦手だったのは、教科交流よりも給食交流です。少し意外に思われるかもしれませんが、私は班ごとに机をくっつけて食べるあの給食の時間が最も苦痛でした。
 授業は「待っていれば終わる」のですが、給食中の会話には「自分から入っていかなければならない」ですから、より積極性が求められます。実際、授業は事前に在籍級で予習をしてもらっていたので、慣れれば手を挙げて発言できるまでになりました。しかし、給食中はとにかく賑やかで、食べるスピードも会話のスピードもとてつもなく早い。騒然とする中では私が振り絞って出した声が相手に届いていないことも多く、余計に自分から話すことをためらうようになりました。
 初年度を終えて交流教科が算数から音楽に変更になったのは、私の強い希望です。音楽をやりたかったのではなく、算数=とりわけ面積・体積・展開図等の図形分野についていくことができないと感じた為、特殊学級の担任に教科変更を申し出たのです。
 

 生まれつき自由に動くことに制限がある私は、幼少期に自分の足で外を飛び回った経験が皆無です。小学校6年間も車による送迎で、学校が終わればリハビリか自宅という毎日でした。信憑性は定かではありませんが、こうした経験の乏しさが想像力を要する分野に対する苦手意識を植え付けてしまったのかもしれません。未だに地図を読むことが苦手で、「歩けなくてもいいから方向音痴を直したい」というのが、二十歳を超えた私の口癖です。
 正直、教科が音楽に変わったからといって、交流がしやすくなったというわけではありませんでしたが(音符は読めないし、楽器の音で周囲は騒然としている環境が苦手)、音楽コンクールにクラスの皆と一緒に出たことだけは、楽しい思い出として鮮明に覚えています。
 それでも私にとって交流学習は、「自分は健常者と関わることが苦手なんだ」という意識を強く植え付ける修行のような時間だったといえるでしょう。

画像1

*在籍級では当時、担任の先生が下級生と遊んでいる間、1人で朝学習をしていることも多かった。

いただいたサポートは全国の学校を巡る旅費や交通費、『Try chance!』として行っている参加型講演会イベント【Ryo室空間】に出演してくれたゲストさんへの謝礼として大切に使わせていただきます。