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オレは近頃、こういうのにめちゃくちゃ弱い


オレはいつの頃からか、こんなことを考えるようになった。


『先天的な障害の自分より、後天的に障害を感じるようになった方々のほうが辛いのではないか・・・』

昨日までできていたことがある日突然できなくなるから。

受け入れる時間がないから。

それは、自身が経験してきた”過程”とのギャップを想像してのものだ。

できないこと→できること が少しずつ増えていく自分とは、180°勝手が違う。


一方で、こうも思う。(理解しているつもりだ)

「悩みや辛さ、葛藤、困難さは、人と比べるべきものではない」

(その必要はないし、その感度は1人ひとり違う)


朝6時、男はまた泣かされた。

大切なメンバーの心からの叫びに。

絶対的な愛と、決して他者には冷ますことができない温かさに。

まるで、チーズたっぷりで熱々のハンバーグカレードリアの上からさらに”追いチーズ”をし、さらにあんかけをかけてしまった時くらい最後まで冷めない。最期の最期まで。

(※正直、初投稿でこれを書かれたらちょっと嫉妬する)

同時にオレの思考は広がった気がした。

これまで(今日の今日まで)感じていた『後天的に障害を感じるようになった方々のほうが辛いのではないか・・・』という想いは、あくまでも本人の境遇に限定したものだった。

しかし、それだけではなかったのだ。

順風満帆だった人生に、予期せぬトラブルが起きたらそれは間違いなく”障害”になる。心は乱れ、自分を責める(オレにとってのうつ病発症がそうだったように・・・)。

それは、本人だけでなく家族や周囲の方々も一緒だ。愛を持って、愛おしく想えば想うほど、その感情は激しく、ジェットコースターはいつの間にか上空4,000mからのスカイダイビングになっている。


「もしもパラシュートが開かなかったら・・・」


そんな想いを抱えながら日々子育てをしているお母さんや世のご家族は、本当に凄い!


そして、親のそうした想いや心情を沈めてくれるのが時間だったり、親子だったら子ども自身だったりする。

少し前まで1番の”悩みのタネ”だったはずなのに。

(筆者に子どもはいないが、他人事ではなく自分事に想像して書いている。る願いも込めて)

人は結局、他者に救われる(のだと思う)。

そしてそこに、関係性は関係ない。

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今この時期、この時に授業をさせていただけたことはまさに奇跡だ。

互いがオンラインに活路を見出し、社会的には互いにハンディがあると見られているかもしれない2人が、そんな声なき困難なんかに負けず精一杯共鳴する。

そんな機会を与えて下さったことに心から感謝したい。

彼女こそ僕の”先生”である。


『長野さんが涙を流したのはなぜですか?』


今、親子から問題を出し返されたら僕は自信を持って答えられる。

『嬉しかったから』だと。



ただただ、ありがとう。

いただいたサポートは全国の学校を巡る旅費や交通費、『Try chance!』として行っている参加型講演会イベント【Ryo室空間】に出演してくれたゲストさんへの謝礼として大切に使わせていただきます。