結婚生活、雑感・・
離婚記事を書き終えて思うこと。
離婚してから、ほかの夫婦を見ていて、安心して見ていられるカップルと、不安になるカップルとがいる。
夫婦の形は夫婦の数だけあるというので、私が不安を感じたからといって、本当に離婚するかどうかはわからないのであるが。
私は元オットのことは「好きではなかった」ということが離婚直前に判明した。もちろん、結婚当初は好きだったのだけど。
離婚に至る前の数年間は、本当にケンカが絶えなかった。すごくつまらないことでケンカになっていた。
「俺のことバカにしてる」とよく元オットは言っていた。
私は否定していたが、今振り返ってみると、「バカにしてる」と取られてもしょうがない態度をとっていたんだと思う。
そこには愛がなかったから。
愛がないのに、今ある夫婦関係をどうにか何とか維持するため、形を取り繕おうとするばかり。そんな空虚な心は、言葉を越え、空気を通してでも相手に伝わるのだ。
どんな他愛のない会話をしていても、愛のある態度とそうでないものは決定的に違う。
それがわからず寄り添えない私と、寄り添ってもらえないフラストレーションを抱えた元オットは、どうしようもなくぶつかり合い、傷つけ合ってしまったのだと思う。
「しっくりけーへん」ということの積み重ねながら年月を過ごすことで、陥ってしまった愛のない夫婦関係を、
「子どもがいるから」
「仕事があるから」
「離婚するのは大変だから」
「1人にすると死んでしまうかもしれないから」
と自分に言い訳を重ねることで現状を取り繕い、崩れていく家族をなんとか形あるものにする。
そんな作業を必死でやっていたんだ、ということは、今だからわかる。
その作業はとてもつらくてしんどくて自分自身をすり減らし、家族を傷つけ自分自身をも傷だらけにする。
私が今、「離婚して本当に良かった」と思う理由は、その終わりの見えない作業から解放されたからだ。
冒頭に述べた「見ていて不安になるカップル」というのは、私がしんどかった頃を見ている気分になるからなのかもしれない。
一緒にいることが傷つけあうことでしかないのなら、離れることでいい関係になることもある。離れてもいい関係になれないこともある。
離婚は悪いことではない。
そして結婚生活はしがみつくものではない。
そういった無理だらけの家族という形を続けることが、本当に子どものためになるのか。家族のためになるのか。自分のためになるのか。
自分のためにならないのなら、たとえ子どものためになると思っても、自分を優先すればいいと私は思う。
自分を犠牲にした他人への愛なんて、そんなものはハリボテでしかないと思うのだ。
ハリボテを大切にする人生は悲しい。
私は自分のために生きている。
子どもの幸せを願うのも、親の幸せを願うのも、生きやすい社会にしたいと願うのも、すべては自分が幸せになるためだ。
自分の幸せのためには、自分の周りも幸せであることが必要なのだ。
一つ一つ、軸を取り違えないように見る。考える。行動する。
たくさん失敗をしたからこそわかることがある。だから失敗はいっぱい経験すればいい。
つらい経験をしたから、人にも自分にも優しくできる。
たくさん傷つけあってしまったから、傷つけ合わない方法を考える。
そうやって人は学び、成長していくのだ。
それこそが生きるということなのだ。
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