日記・本を読みたくなってから読むまでに5年かかった話
本棚の本を眺めていると、ふとほとんど読まないままでいた本を読みたくなった。
なんとなくその時それを読みたいと思って買った本だった。「東京こだわりブックショップ地図」。5年前に出た本だ。
最近、ぼんやり本屋さんをやりたいと思う時がある。ぼんやりと思うには人生を左右しかねない考えだ。
5年前の東京の本屋について書いてある。ここ最近、行ったことがないのに名前を知っている本屋が増えた。
古書ビビビ、本屋B&B、SUNNY BOY BOOKS、その他本に関連したお店を見つけるたびに「行きたい!」と思ってそのままになっている。
5年前となると、この本に書かれている本屋の中にはもう存在しないお店もあるかも知れない。どうしてもそんな可能性を考えてしまう。
それは別に本屋に限ったことではない。こういう当時存在していたお店をまとめた本は、時間が経てば経つほど内容が現実と解離していく。
ある種情報源としての鮮度を失っていくようなその過程が僕は好きだ。この本も同じように、経年変化といったらいいのか、少しずつ過去のまま置き去りにされていく本の内容が愛おしい。
5年経ってようやく読んだということは、僕にとってこの本は読みたくなってから読むまでに5年必要だった本だということだ。
それは10年必要だったらもっと重要な本だとか、そういうわけではない。読みたくなってから読むまでにたまたま5年必要だった、というだけだ。
しかし本を読みたくなってから読むまでに5年くらい経ったっていいのだと思えた。それはいま読みたかった内容だったし、すぐ読まずに5年も放置してしまった「もったいなさ」のような感覚はまったくなかった。
最近、積ん読という言葉があまり好きではないことに気づいた。積ん読、と言い切ってしまうとまるで積まれていることが目的のように感じるからだ。
読んでいないからといってただ物体としてそこに積んでいるわけではない。読みたいと思って手元にある本は読み始めるまでにかかる年月を待っている。
まだ読んでいない本はまだ読んでいない本だ。読む予定のない本でもないし、たとえ5年でも10年でも本はページが開かれる時を待っていてくれる。
ああ、僕は本が待っていてくれるのが好きなんだと分かった。おのずから去ってしまうのでもなく、期限切れでなくなってしまうのでもなく、再生するためのハードを失ってしまうのでもなく、ただ本棚でこちらを待っていてくれる。
表紙が色褪せ埃をかぶってしまった本に申し訳なく思いながらページをめくる。すると、本屋で手に取ったあの日から変わらないままの言葉が目の前に現れた。
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