掌編小説・ああたぶんそうじゃないよね三つ折りは四つ折りよりも難しいから

 津崎さんが紙を折っているところを見ていた。A4の紙を三つ折りにしようとして、どこで折っていいか迷って、適当なところで一度折って、もう一度折って、それを茶封筒へ入れた。
 津崎さんは別の部署の若い男と交際しているという噂だった。それは営業二課の松川くんだとか、そうじゃなくて本社ではなく近隣の支店の川瀬くんだとか、確度の高い情報はなかった。
 津崎さんは僕たちの部署の中では最も若い女性で、最も仕事を多くこなしていた。だから誰も彼女のことを悪いようには言わなかったし、五十歳を目前とした前原幸恵という扱いにくい上司ともうまくコミュニケーションをとっていた。
 三つ折りに迷う津崎さんを見たのはこれで何度目かだった。最初は特に気にならなかったが、繰り返し見るたび、三つ折りに折ろうとして少し手を止めるところを見るのが癖になっていた。いつもぱたぱた動いている津崎さんが手を止めるのは三つ折りのときと、短い昼休みの喫煙所で電子タバコを吸い始めたひと口目のあとしか見ない。薄い煙を吐いて、画面をじっと見つめている。それからスマホの画面に指を滑らせ、なにやら文字を打ち込んでいる。それは一服を終えるまで止まらない。
 他の仕事を手早くこなす津崎さんが三つ折りに時間を多少かけたって誰も文句は言わない。津崎さんがこの部署に来てからみんな格段に仕事が楽になったし、それは津崎さんがひとりでふたり分くらいの仕事をこなしているからだ。仕事を覚えるのも早かったから、津崎さんは基本的に黙々と自分の範囲の仕事をこなしている。とは言っても、津崎さんの仕事の範囲は日々少しずつ拡大していて、それは誰かがほんの少しずつ楽をしているせいだった。
 津崎さんと僕はたまにどうでもいい会話をする。今日はパソコンの調子がイマイチな日でしたねとか、いつも内容のまとまらないメールを入れてくる支店長の話とか、受けた電話の愚痴、それらはすべて仕事に関わることで仕事以外の話はお互いにしなかった。津崎さんと僕は同い年で、僕は津崎さんよりも全然仕事ができないから、せめて津崎さんだけには疎まれないようにしようと思って会社では生きていた。困ったとき、頼れるのは津崎さんだけしかいなかったからだ。
 ある昼休み、津崎さんはいつものように12時20分を過ぎるまで仕事をし、20分ほどで食事を終えて、12時40分を過ぎた頃に喫煙所に来て電子タバコに火をつけた。そのとき喫煙所には僕と津崎さんと、顔は何度か見合わせるけれど喋ったことのない、確か浜川という50代くらいの男しかいなかった。喫煙所は何ヶ所かあって、ここは比較的空いているほうの喫煙所だった。津崎さんはひと口目を吸って、薄い煙を吐いた。浜川は電話の着信を受けたようで、タバコの火を消すと携帯電話を耳に当てなにか喋りながら喫煙所を出て行った。
「あの人、不倫してんだよね」
 津崎さんは言った。僕を見て言ったのかと思ったけれど、津崎さんを見るとその顔はスマホを俯き加減に見ている。
「そうなんだ」
 津崎さんはじっとスマホを見て目を離さない。
「仕事の電話だったらここで出る。でも社用の携帯じゃなくて個人の携帯にかかってきたら表に出て、喋ってるのは今夜か週末の休みの話」
「そんなのよく分かるね」
 今日の津崎さんは怖かった。普段、喫煙所では僕と津崎さんは喋らないからだ。
「それくらい分かるよ。あの人、会社の中でやってんだもん」
 津崎さんはものすごいスピードでスマホに指を滑らせて文字を打ち始めた。なにを書いているのか、誰に向かって書いているのか、僕には少しも分からなかったし聞こうとも思わなかった。
 次の日から津崎さんは体調不良で会社を休んだ。部署の中はてんやわんやして、忙しさがひとつ盛り上がりを見せるたびに僕は怒られ、頭を下げると同時に津崎さん早く帰ってきてくれと願った。それは3日ほど続いて、長い平日のあと週末がやってきた。
 土曜日、昼過ぎに起きて休日に街へ出ると久しぶりに仕事で疲れ果てた頭が娯楽を欲して、いちばん馬鹿馬鹿しい方法でお金を使いたくなった。その手の娯楽に詳しい友だちの遠藤と連絡を取り合って、普段は降りない駅で待ち合わせすることにした。
 夜になって、待ち合わせの駅で立っているがいつになっても遠藤が来ないので連絡を取ると今日はその気でなくなってしまったと言う。なんだそれはと瞬間的に怒りが湧いたが、次には遠藤に怒る気が少しもしなくなっていた。僕の目の前を津崎さんが通った。
 電話を切り、津崎さんを追いかけた。仕事のときとは違って、光沢のある深緑のワンピースに白いカーディガンを羽織っていたが顔は津崎さんだった。
「津崎さん」
 後ろから声をかけるとその人は止まった。振り向くとやはり津崎さんだった。
「高瀬さん」
 津崎さんは僕に会いたくなかったという顔をした。
 僕はただ目の前に津崎さんが通ったから声をかけただけだった。目的もなく、声をかけてしまった。
「元気? もう体は大丈夫?」
 津崎さんに来週には会社へ戻ってきて欲しかった。
「うん。もう大丈夫。心配しなくていいから」
 一刻も僕から逃れたいと言っているように聞こえた。
「よかった。津崎さんがいないと本当に大変で」
 大変で大変で大変で。津崎さんがいないと僕がみんなから怒られてしまうから。
「……あのさぁ、私がいないからって仕事回んないの、おかしいからね」
 それで僕はようやく津崎さんが怒っているのだと理解できた。
「なんでお前と私が同じ給料なのか、理解できない。ってかむしろあんたの方が給料いいよね? いくら貰ってんの?」
 キレている津崎さんを初めて前にして、恐ろしくて、聞かれたままに僕の手取りを答えた。
「やっぱり。はぁマジでおかしいよね。それで休日に呼び止められるとかやってらんない。あんたがなんでここに来てんのかなんて私には分かってるからね。だからもう余計、本当、ゆるせない」
 津崎さんは踵を返して街の闇の中へ消えた。あれは本当に津崎さんだったんだろうか。残業の果てに見た夢だったのかもしれない。あんなに怖い津崎さんを初めて見た。
 月曜日から津崎さんは出社した。津崎さんはA4の紙を三つ折りではなく四つ折りにして茶封筒に入れていた。その週の金曜日に支店への異動命令が僕に下った。県を跨ぐ異動で、とても困ったことだった。

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ああたぶんそうじゃないよね三つ折りは四つ折りよりも難しいから
#短歌  

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