見出し画像

日記・吉開菜央さんの作品を初めて見た

 吉開菜央さんの作品を今日初めて見た。言語をほとんど排した映像と音声に言葉をひととき忘れて作品に集中した。

 音響がとても良かった為か、音がすっと入ってきた。梨を咀嚼するシーンの咀嚼音はその人の口の中にいるようですさまじかったし、和太鼓の鳴る音には目の前で大太鼓が鳴っているような感覚になった。

 和太鼓を少しやっていた時期があるのでその迫力だけで聴き入ってしまった。音は一定のリズムを打ち続けていた。大太鼓を叩く時の地鳴りのような音だ。その音圧によって照明などを吊っている金属のフレームがきしむ。

 その和太鼓の音に身を委ねていた頃を思い出した。和太鼓特有の音と、そのリズムと、バチを振る時の身体感覚が蘇る。和太鼓の音は耳だけでなく体全体で聴くような感じがする。音によって体が震えるのが分かる。

 吉開さんの作品にも近いものを感じた。映像は目で見て音声を耳で聴いているが、それは身体に直接訴えてくる。自分の思考がしばらく言葉に依存していたのが分かった。

 いつも映像を見るときに使っているものとは別の体力が必要になる。一方でそれはいままで凝り固まっていた筋肉を内側からほぐすようで、段々と心地良さが湧いてくる。

 今回4作品を見たが、その4作品の構成の中で一番最後に『Grand Bouquet』という作品が流れた。流れた瞬間、今日は観客にこれを一番見せたかったのかも知れないと思った。


 『Grand Bouquet』が公開された当初はその表現の刺激が強すぎるという理由で一部黒塗りで公開されたという。確かにグロテスクさはあったけれども、表現としては必要だと思ったし「痛み」や「苦しみ」をその表現によって可視化されていたと思う。

 映画のパンフレットによるとこの作品はレイ・ブラッドベリの『華氏451度』に影響を受けている。はっとさせられる言葉だったので、以下にその一節を引用する。


──われわれは、花がたっぷりの雨と黒土によって育つのではなく、花が花を養分として生きようとする時代に生きておるのだよ。花火でさえあれほど美しいにもかかわらず大地の不思議な化学作用の産物だ。それでもなぜかわれわれは、現実に立ち戻るサイクルを完結させることなく、花や花火を糧に生きていけると思ってしまう。
『華氏451度(新訳版)』レイ・ブラッドベリ著(早川書房/伊藤典夫訳)


 吉開さんは自分を「霞を作って生きている人」と仰っていて、それは農業のように直接食べ物を作るのではなく映像を作ってお金を貰い生きていることに疑問を持ったという。

 映像の中には女性が花を吐き出したり指が折れてそこから土が溢れてくる表現がある。僕はそこにいま人間が社会で生きているうちに降り掛かるあらゆる社会的な精神ヘのダメージに対する反応のようなものを感じたし、でも本来ならば花を吐き出したり血の代わりに土が溢れてくるような反応をダメージの根源に対して見せてやらなければいけないのだと僕は思う。

 見た目こそショッキングだが、その表現は確かに痛みと苦しみを的確に表現していて、映像と音声による奔流を僕はそのままに抱きしめていたし抱きしめられていた。

 こうやって毎日言葉を並べ文章を書いているだけでは出会えない感覚があるのだと最近特に思っていて、そんな流れの中で見た作品群だったので、その自分の思いに対してひとつの答えのようなものを垣間見た気がした。



 10月23日より吉開さんが監督と出演をした映画『Shari』が公開になる。関東では東京のユーロスペースとアップリンク吉祥寺にて公開。



もしよろしければサポートお願いいたします。