見出し画像

〈短編小説〉あれからの話だけど Bonus track 第2話


 二週間に一度来る金澤さんは不定休で紙素材の雑貨を売る仕事をしていて、時々彼氏の愚痴を話しに来る。

「私は絶対にお皿を洗った後は布巾で拭きたいだけど、彼氏は絶対に拭かないの。洗ったら洗ったままで自然乾燥」

 金澤さんは半同棲を始めた彼氏の食器洗いの作法が気に入らないらしかった。僕も食器を洗った後は自然乾燥を待つ方だったので、洗ってすぐ拭かなきゃいけないのは面倒だなぁと思った。

「でも、そういう生活の些細な違いを擦り合わせるのが同棲の意味なのかも知れないですよね」

 金澤さんはそういう些細な違いを実は楽しんでいて、だから僕は金澤さんの彼氏を否定したりはしないし、金澤さんも本心では彼氏を否定しようとは思っていないみたいだった。

「そうだ、今日は欲しい本があって」

 金澤さんは一冊の本の名前を言った。人を試すように凍てつく大地での旅を綴った本で、僕も一度読んだことがあった。きっとそこにあるだろうと、めぼしい本棚へ向かい手を伸ばすと女性の手に触れた。その人が佐倉真琴だった。

 手が当たった時、彼女は悲しそうな顔をしていて、それは手が当たった驚きから来るものではなく、きっとほしい本を取られてしまうと思ってそんな顔をしたのだろうと思った。

 すみません、と彼女は言った。大学生くらいで僕と歳はあまり変わらないだろう。同じように僕も謝った後、

「なんだか物語みたいですね」

 と言って笑いかけた。同じ本を取ろうとして手が触れ合った男女が恋に落ちてしまう物語みたいだと思ってなんの気なしに言っていた。ここは本屋だし、そういう出会いもありそうだなと時折思っていたので、それが自分の身に起こったのが面白かった。

 彼氏の食器洗いの作法が気に入らないふりをしている金澤さんには嘘をついた。最近売れてしまったから今度入ってきたら取り置きしておくと言った。

「それまで彼氏と仲良くしていてくださいね」

「別れたら今度はまちくんと付き合うから大丈夫」

 金澤さんは店を出る時だいたいそう言って出ていく。

「僕は一度に二人とは付き合いませんからね」

 去り際の冗談をかわして金澤さんを見送る。少しして先程の彼女がレジへ向かってきた。その手には金澤さんの手に渡るはずだった本がある。

「良かった。さっき嘘をついたんです」

 彼女の顔にすっと怪訝な色が差された。

「なんのことですか?」

 僕が金澤さんのとのやり取りを説明すると安堵したのか訝しんでいた表情が消えた。こちらの言葉にころころ表情が変わっていくのが面白くなってしまった。

「でもあなたが買ってくれたから嘘が本当になった。ありがとうございます」

 本を紙袋に入れて彼女に差し出す。なにか言いたそうな顔をしている。

「私はこの本が買えて良かったですけど、大丈夫ですか、そんなことして」

 彼女はつぐんでいた口を開いてそう言った。そうか、すごく真面目な人なんだ。

「だって手がぶつかった時、すごく悲しそうな顔をしてたから。きっとこの本がすごく欲しかったんだろうなと思って」

 自分へ与えられる善意にどんな裏があるかあまり気にしてこなかった僕にとって、ほんの少しのルール違反を含んだ僕の行為に疑いの目を向ける彼女の真面目さが眩しかったし、手が触れた時に驚きよりも悲しさがまさった彼女の表情にどうしてもそうしたくなってしまった。一冊の本を誰かの手ではなく彼女の手に譲りたくなった。

 そうですか、と呟いて彼女は店を出ていった。右へ出ていったので駅へ向かったのではないらしかった。




(第3話へ続く)




もしよろしければサポートお願いいたします。