〈短編小説〉あれからの話だけど Bonus track 第3話
佐倉真琴は最初こそ僕のことを「花村さん」と呼んでいたが、呼び慣れない名前がくすぐったくて「まちくん」と呼んでもらうようにした。彼女は僕の3歳下の大学3年生だったが「まちくん」と呼ばれることに抵抗はなかった。
「それでまちくんは就職活動しないでこの本屋さんに入ったんだ」
「そう、大きな会社でいろんなストレス抱えて仕事なんて、僕にはできないなーって思っちゃってさ」
「そっか。私も本屋さんで働こうかな。就職活動って考えてるだけで嫌になってきちゃったし」
今度の春に企業の採用活動の解禁を控えた彼女は既にその門の仰々しさに恐れをなしているようだった。かつての僕も似た気持ちだったことを思い出した。
「でもせっかくまだ時間もあるんだから、ちょっとだけやってみれば。就職活動」
スマホを取り出して彼女に差し出す。
「僕の連絡先教えるからさ、なにかあったら相談してね」
「えっ……うん。ありがとう」
分かりやすく嬉しそうな彼女の顔を見れて僕も嬉しかった。
「まちくんもなにかあったら私に連絡してくれていいよ」
彼女が指し示す「なにか」とはなんなのか、僕はとぼけたように笑って答えた。彼女の真剣な眼差しが少し痛い時がある。
「そういえば今度友達が結婚することになったんだけど」
彼女の目線から逃げるために話題を変えた。
「その二人が同棲を始めるって時に引っ越しの手伝いを前にして。新しい部屋に洗濯機を入れて冷蔵庫を入れてってやったところで喧嘩が始まって」
彼女は相槌を打ちながら僕の話を聞いてくれる。
「仲裁の仕方なんて分からないからさ、ひたすら荷物を一人で運んでた。そしたらいつの間にか別れるって話になってて、引っ越し当日に友達の彼女が出て行っちゃった」
「でも今度結婚するんでしょ?」
彼女は食い気味に僕に聞いてきた。そうなんだけどね、とうなづく。
「同棲初日で別れるって言ってたのにこの前結婚するって連絡来て。おめでとうだけどちょっと不安」
「結婚式初日に別れるーって言い出したりして」
「そう。僕もそう思った」
彼女が楽しそうにしているのを見て僕も笑っていた。さっきまで就職活動が嫌で心細そうな表情をしていたのに、ころころと表情を変え、いまにも就職先を見つけてしまいそうだった。
就職活動を終えたら彼女はもうここには来ないような気がした。僕は彼女にとってそれまでの腰掛けみたいな存在でありたいと思ったし、彼女と長く時間を共にすることは僕にとっても良くないと思っていた。だから僕から彼女に連絡を取る理由はあってはいけなかったし、彼女が言う「なにか」はどこにも存在しない。本屋にいる時の僕だけが彼女にとっての「まちくん」だった。
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