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土下座という武器

https://note.com/rittai_an/n/n276f83dd992a


さてさて、以前東京で何某かの方の弟子入りの際に、土下座する師匠を足蹴にしたうえで

「男がここまで頭下げて頼んでんだ!何も金取ろうってんじゃねーんだから弟子になってやれよ!」

と恫喝に近い脅迫めいた弟子入りの強要を行ったことは覚えております。あれは実に非道な所業で、借金取りの手口に匹敵する悪行であったと自覚しております。しかし、反省は全くしておりません。

何故なら、この「師匠が土下座して弟子に入門してもらう」という儀式は最初の弟子である俺の頃から続く伝統なのであります。師匠が弟子を選ぶ基準は不明瞭かつ統一性はなく、その時の気分で「よし、気に入った。弟子になってくれ」的な感じで土下座をするわけですよ。けど、その土下座には実はルーツがあることを師匠は忘れてるところが実にスカスカで武富一門的なので追求はしません。

では、土下座のルーツはどこにあるのか、というと、実はあの当時に“週間モーニング”で連載されてた「宮本から君へ」なのであります。文具メーカーの営業の主人公が、追い詰められて土下座したはずが、それを繰り返すことで逆に土下座した相手を追い詰めていく。そんな土下座の話を師匠としたことがありました。
その何週間か後に師匠から急に弟子入りのオファーがあり、「いやいや、俺ごときが務まりません」とか言ったら土下座をされました。ファースト土下座ですね。土下座の効力を知ってはいながら、食らう立場をまざまざと味わったわけで、その結果最初の弟子となったわけです。

そんなわけで、土下座の効能を知った俺は師匠がどういう理由で選んだか知らない弟子たちに土下座をする姿を数々目撃してきました。その度に師匠の頭を踏みつけ、前記したような恫喝めいたセリフを吐き、師匠の弟子獲得に協力してきたわけであります。

師匠も、内心「一人では陥落できないけど、ここは涼が俺の土下座を踏みつけて加勢してくれていけるかもしれない」的な気持ちがあっただろうことは容易に想像できます。何故なら、ほぼほぼ兄弟弟子の入会の場には師匠を踏みつけて一門入会を恫喝強要する俺がいるんですから。
まぁ、そういうスカスカ極まりない師弟の出来レースのようなことをして獲得した弟子たちですが、多くは師匠から何も学んでいないと言わざるを得ないし、そもそも師匠の弟子であったことすら忘れていると思います。
何故なら、それは土下座プラス俺の恫喝という、断りきれない理由によるものであり、さらには入門したところで教えるものは何もなく、ただ武富一門である、という昼行灯をぶら下げて歩くような、全く意味を持たない看板を背負わされるだけなので、それはもう、いい迷惑なわけですよ。

時たま楽しんで「師匠!」とか呼ぶ弟子もいますけど、基本的に皆さん師を師として扱わない腐れ外道というか、現実世界を立派に生きてるわけであります。けど、大概の先生って選んで弟子を指導しないのに、弟子を選んでいる師匠の方が弟子離れが激しい、という辺りに、これまた人生の厳しさを感じております。

師匠は「無なんてカッコいいこと言わずドーナツの穴くらいの役立たずでいい」と言ってますけど、我々はまさにそういう余白くらいに役に立てれば良いのかと思っています。スパイスほどにもならない。余白。あんなこともあったな。それで良いんだと思います。
俺は昔、あなたの文章で不覚にも感動したことがあります。それは、ナンセンスな映画に関する文章でした。

「こういう世の中の役に立たない生き方に徹した姿を見る度に、誉められようとか立派になろうとか考える自分を、恥ずかしく思う」


という言葉に身体が震えました。戦慄というものですね。その、俺を戦慄させた人が弟子入りを懇願し、それを一度は固辞したものの土下座までされたのですから、俺は弟子入りしました。
後のことは知りません。

まぁ、そういう歴史があることを肝心の師匠がそもそも忘れてしまっているあたりが、スカスカな武富一門らしくて素敵だと思います。

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