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「バズり」とイグ・ノーベル賞

以下の文章は2022年11月、「バズりと科学」というお題のもと、とある理系研究者の集まりでお話ししたことを、備忘的にまとめたものです。我ながら、またイグ・ノーベル賞ネタかよという気持ちがないわけではないんですが、だって好きなんだもん。

朝日新聞の小宮山と申します。記者として、これまで主に科学を担当してきました。きょうのお題、「バズりと科学」。もちろん自分の書いた記事は多くの人に読んでほしい、バズってほしい、と思います。でもだからといって、バズればいいってもんではない。というか、バズるかどうかなんて気にするのも嫌だ、という気持ちもあります。

ノーベル賞報道は、なんかこう…

「バズる科学」といえば、やはり社会的に広く認知されているノーベル賞を連想する人が多いでしょう。

日本人が受賞したとなると、新聞では1面トップにデカデカと見出しが出て、さらに2面に研究成果の詳しい紹介、社会面には記者会見の様子や友人のコメントーーといった感じで、とにかくたくさん記事が出ます。自然科学3賞が発表される10月初旬の3日間は、科学担当記者が総動員で待ち構えて、仮に日本人が受賞しなくても、それなりのボリュームの記事を出します。

これは一種の「お祭り」です。祭りに参加するのはワクワクしますし、そこそこ楽しいものではあります。ただ、これはあくまで私の体感ですが、同僚たちはノーベル賞報道に対して、なかなか複雑な思いを抱いている…ような気がしています。

理由はいくつかありますが、一つには、あまり「コスパ」がよくないことが挙げられるかもしれません。さきほどお話しした通り、かなりの労力をかけて記事を書くわりには、実はそこまで多くの人に読んで頂けるわけでもないのです。仮に日本人が受賞したとしても、です。

「日本人のノーベル賞受賞者」をイメージしてStable Diffusionが作った画像

日本人のノーベル賞受賞者は、かつてはすごく珍しかったかもしれませんが、ここ最近は2年に1人くらいのペースで出ています(将来はわかりませんが…というか、たぶん再び珍しくなるでしょうが)。だからおそらく、読者はわりと飽きてきている。にもかかわらず、記者たちは伝統的なお祭りを何となく続けている。そんな感じに思えます。

第二に、「日本人が○○年ぶりに受賞」などと報じることによって、なにやら視野の狭いナショナリズムに加担してしまっているような感覚がある、ということもあります。本来、科学は広く人類の共有財産。ノーベル賞だって、何も国どうしの対抗戦ではない。こんな報道はちょっと違うんじゃないですか、と思っている記者は、おそらく私だけではないと思います。

第三に、ノーベル賞報道では、「この研究はこんなふうに社会の役に立っています!」ということを書く必要があります。

リチウムイオン電池の発明といった純粋に工学的な話であれば、この電池がどれだけたくさん使われているかを書くのも当たり前、だと思います。ただ、たとえば大隅良典・東工大栄誉教授が見つけた「オートファジー」という現象について、病気の治療に役立つ云々と書くのは、もちろんウソではないのですが、あまり気持ちのいいものではありません。山中伸弥・京都大教授のiPS細胞についても、評価されたのは基礎研究としての驚きだったはずですが、「医療応用が期待される」といった記事が、これまで山ほど書かれてきました。

こういう作業をやっていると、科学は社会に奉仕しリターンをもたらすべきだという、あまり好きではない価値観を広めているような罪悪感にかられます。ノーベル賞報道は総じて、科学的に不純な要素を多く含んでいるような気がするのです。

一方で、私をふくむ科学記者たちの一部が、もっと純粋に大好きな科学の賞があります。それがイグ・ノーベル賞です。

イグ・ノーベル賞大好き記者は私だけではない

たとえば過去約15年で、米国駐在になった朝日新聞の科学担当記者は6人ほどいたと思いますが、私が確認できた範囲では、このうち少なくとも3人がイグ・ノーベル賞の授賞式を直接取材して、主宰者のマーク・エイブラハムズさんにもインタビューしています。勤務地のワシントンから、わざわざ数時間かけて、ボストンに出かけていったということです。

かくいう私も、イグ・ノーベル賞大好きです。2019年夏からの1年半、ボストンに留学していたのですが、この機会を逃すまいとマークさんに取材して、記事を書きました。彼の自宅兼編集部にもお邪魔しました。たいへん楽しい経験でした。この記事は個人のnoteで公開しています。

マーク・エイブラハムズさん=2019年12月、米マサチューセッツ州ケンブリッジ

イグ・ノーベル賞が好きということは、やはり一般紙の記者だから一般向けの「バズるネタ」に目がないのだろう、と思う方がいらっしゃるかもしれません。でも実は、ちょっと違います。日本人が毎年のように受賞しているから…というのも、惜しいですが、やっぱり違います。

マークさんに取材して、「へーー」という意外感があったのは、米国人はイグ・ノーベル賞にまるで関心がない、という話でした。地元ボストンでは賞の存在じたいがほとんど知られておらず、資金集めにとても苦労しているというのです。留学先のクラスメートには科学のバックグラウンドがある米国人がいましたが、彼女もイグ・ノーベル賞のことを知りませんでした。

米国での不人気ぶりは、米英日3カ国における報道のボリュームを示した表を見れば、おわかりになって頂けると思います。

これは前述の記事を書いた2019年に調べたものですが、ご覧のように、英国や日本と比べて、米国ではイグ・ノーベル賞について書いた記事の数が極めて少ない。不人気なのでスポンサーが集まらず、受賞者に賞金を出すどころか、授賞式に来てもらうための航空券代すら払えない。ホテル代も出せないから、ボランティアの家に泊まってもらっている。

米国はプラグマティズムの国なので、イグ・ノーベル賞が体現する「科学そのものの面白さ」みたいなものは、あまり評価されない社会かもしれません。

一方で、日本はイグ・ノーベル賞が大好きです。記事がたくさん出ていることから分かるとおり、国民全体の関心が極めて高い。

私は今年の賞発表当日、全部で10個あった受賞研究を一つひとつ、連続ツイートで紹介したのですが、かなりの人からリツイートして頂けました。

フォロワー数も大して多くないアカウントですが、わりと「バズった」のです。

また、日本人の受賞者もすごく多い。過去16年、毎年受賞しています。「なんでこんなに多いんですか」とマークさんに尋ねたら、「こっちが聞きたいわ」(意訳)とのお返事をいただきました。もちろん米国人も少ないわけではないですが、ノーベル賞受賞者におけるシェアと比べれば、存在感が相対的に小さい。

求めるものには与えられない。それがイグ・ノーベル賞

米国とはちがって、「役に立たない研究でも面白ければOK」となるのが日本なのだと思います。ある意味で、科学そのものを楽しむ文化のある国、と言ってもいいのではないでしょうか。

イグ・ノーベル賞でもうひとつ面白いのは、「狙っても取れない」ということです。

マークさんはこう言っています。

自薦で受賞することはほとんどありません。面白さや驚き、バカバカしさはあくまで副次的な効果によるものであって、それ自体を狙った研究は賞の対象にならないからです

朝日新聞(2013年11月16日)より

これは非常に示唆的なことばではないでしょうか。

イグ・ノーベル賞は、求める者には与えられない。バズりたいと思うと、バズれない。ウケようと思うと、すべるわけです。

米国人はそもそもイグ・ノーベル賞に興味がないのですが、たとえ興味があったとしても「お金では買えない」ので、多額の資金を投じても、受賞者数はその金額に比例して増えることはないでしょう。

研究者の世界で最近よく聞くことばに、「選択と集中」というものがあります。限りある資源を、確実にリターンが計算できる分野に集めよう、ということです。でもそういうやり方では、少なくともイグ・ノーベル賞はとれません。

日本では近年、選択と集中が過度に進んでいるという話も、よく聞きます。おそらくその通りだと思うのですが、米国と比べると、実はだいぶマシなのかもしれません。

少なくとも、今のところは。

イグ・ノーベル賞を楽しむ日本の文化は、科学の多様性を守ることにつながるはずです。この文化が続いてほしいと、個人的には思います。

「バズり」など意に介さない研究者たちが思うがまま、好きな研究にのめり込む。それが結果として面白い研究になって、その一部は社会の役に立つこともある。たとえ役には立たなくても、研究から得られる知的な喜びそのものが価値を生む。私たち科学記者の飯のタネにもなる。

これが私にとっての、理想の科学、と思っています。

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