木を木として見なくなってからがおもしろい
昨年12月の中旬に、いろんな事情が重なって、僕はひとり、神奈川の山を登っていた。新宿からバス一本で山登りにいけてしまう東京はほんとうに恵まれているなあ。
クリスマスの1週間前にも関わらず、平日の重労働をくぐり抜け、朝6時に起きてバスに乗り、土曜日の朝10時から山を登っていた自分をもっと褒めてあげたい。
せかせかと生き急いでいる人を見ると息が苦しくなるように、ゆっくりと太陽にむかって生きている木を見ると心が休まる。
それがとても心地がよい。登山って体力的にはつかれるのに、心は癒されるのだから不思議だ。
この日は雨模様で、すこし靄がかかっているのも疲れた体にはちょうどよいテンションでうれしかった。
調子よく登っていくと、さすがに息が切れてきて、リュックを地面におろし、水を飲んだりして息をととのえる。
ふぅ、と落ち着いてきた頃、木の幹が妙に気になった。じぃっと見てみる。この日は雨だったから、景色よりも目の前の木に目がうばわれやすかったのかもしれない。
なんと木の幹って人の顔みたいに、ひとつとして同じものがないじゃないか。この流麗に描かれる線がまるで優美な筆捌きのように感じられて、完成されたアートみたいだ!
それからというもの、「木」というよりは、木に描かれるデザイン自体を楽しむ目に変わっていって、山頂に向かう道がたのしくなった。
まだまだ足を踏み入れたばかりですが、景色ではなくて、デザインとして物事を捉えられるようになったら写真がもっと楽しくなるだろうなと思っていたので、いい変化でした。
次は草花あたりも見方を変えていきたい。
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