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第二次若槻内閣をどこよりも分かりやすく!!(ショートショート自伝風)

私は若槻礼次郎
浜口雄幸さんが右翼によって銃撃され総辞職したので、同じ民主党の私が内閣をバトンタッチすることになった。
私の外交方針は、浜口さんと同じように協調外交。欧米と仲良くやっていきましょうというもの。だから外相には幣原くん(幣原喜重郎)を起用した。
だが、情勢は私の思惑とは反対へと進んで行った。
かつて起こった張作霖爆殺事件。
あれ以来、中国では反日感情がおきて、とくに満州では「日本の製品は買うな」と不買運動がおきていた。満州鉄道の経営もうまくいってない。
そんなところに昭和恐慌だ。
貿易はふるわず、企業は倒産し、米や繭の値段も落ちる、農村では女子の身売りも相次いだ
「日本はこの状況を打破しなくてはならない。これを打破するには満州の占領だ」
そうした声が高くなってきたんだ。
関東軍参謀の石原寛治もそうした考えをもっていた
「やがて世界を巻き込む戦争になるだろう。そしてその戦争に最後に残るは日本とアメリカになる。その最終戦争に勝つためにはどうしても満州が必要なのだ」と(=世界最終結論)
その石原寛治がとんでもない事変を引きおこした
それが満州事変だ。
関東軍は、奉天郊外の柳条湖近くを通る鉄道「南満州鉄道」を爆破したのだ。
しかも関東軍はまたもや、「あれは中国のしわざですよ」と中国のせいにして、その口実で満州を占領してしまったんだ
関東軍は厚顔無恥にもこう言うんだ。
「中国の野郎、鉄道を爆破しやがって。許せないよな。仕返しに攻め込んでやる」。そう言って、武力で満州を占領してしまったんだ。自分で爆破したくせにな。自作自演。呆れて物も言えんとはこのことだ
もちろん私はことを大きくしたくなかった。不拡大方針を出したんだ。
「ただちに戦争をやめろ」と。
しかし石原の野郎、私の言うことなぞ聞く耳をもたなかった
「我ら軍人たるもの、いざ戦争が始まれば、怖れ多くも陛下の命令以外きけるものか」
関東軍はさらに暴走していったんだ。
そして、それに呼応して国内でも問題がおきた。
10月事件だ
「政党内閣をぶっ倒し、軍部政権をつくろう」
というクーデター事件がおこったんだ。もっともこれは未遂に終わったんだがね。
ともあれ、この満州事変を機に我が第二次若槻内閣は総辞職したんだ

(補足)10月事件。
10月事件は、「荒木貞夫内閣を作って、国家改造しよう」という陸軍によるクーデター未遂事件。
当時、陸軍には「統制派」と「皇道派」っていう2つの派に分かれていたんだ。皇道派派のリーダーは真崎甚三郎と荒木貞夫。
皇道派は「国家改造」を目指しており、「関東軍もえらくやっているみたいだ。俺たちもクーデターを起こそうぜ。我らが皇道派のリーダー荒木貞夫さん率いる内閣を作って国家改造をするんだ」
そんなクーデターをおこそうとしていたらしい。
首謀者は橋本欣五郎大佐(彼は統制派)、右翼の大川周明、そして北一輝。
だが、これは密告により未遂に終わったんだ
因みに皇道派に対するのが「統制派」。統制派のリーダーは後に首相となる東条英機や永田鉄山だ





質問
インタビュアー「若槻さん。質問です。当時の満州の状況ってどんなんだったのですか?」
若槻「田中義一君が組閣してた時、張作霖爆殺事件というのが起きただろ?あれで張作霖が殺され、その子、張学良は非常に怒った。そりゃ自分の父親を殺されたんだから当然だ。それで張学良は日本と仲良くする政策をやめ、敵対することになったんだ。そして「満州は今じゃ日本に奪い取られたが、もともとは中国の物。満州を取り戻そう、日本の製品を買うのをボイコットしよう」
そんな状態だったんだ

インタビュアー:「関東軍参謀の石原寛治はある理想を持っていたとのことですが、それはどのようなものだったのでしょう?」
若槻:彼、石原寛治は、五族協和、王道楽土というスローガンをあげていた。五族協和というのは「日本、漢、満州、蒙古、朝鮮。この五族で共同して共和国を作り上げようぜ」というもの。
そして「日本、満州、中国で手を組んで、ソ連と戦い、最終的にはアメリカ、イギリスと戦おう」そんな考えも持っていたようだ

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