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周囲からの刺激メインで行動する

年末になったので、年始に記載した「今年はこれをやるぞ!」リストを見返した。まったく「これをやるぞ!」リストの内容を達成できていない。何かを買う類の目標であればお金を出せば達成できるからギリギリ達成しているけど、何かを継続して身につける系はできていない。

おそらく同じことを10回以上、繰り返している気がする。

目標の類を考えるときは自己啓発本を読んでいる時と似た様な気分で「こうなれたらいいな」「楽しいな」とワクワクし、達成した自分をイメージする。「こんな風になれたらいいな。自分って最高かも」と思ってセルフイメージがとてもかっこよいキラキラしたものとなり、心の中でニンマリした気持ちになる。そして風呂に入り、寝て起きて、スマホを見て仕事をはじめて、やがて自己啓発的に「こうなれたらいいな」と思っていた自分を忘れていく。

そういうことを防ぐために、かつては毎週メモ帳へ「年間目標からブレークダウンした自分の目標」たるものを書いて頑張って達成していた。その取り組みのおかげで人生が好転するきっかけももちろんあったけど、リラックスするはずの時間がどんどん「何かを達成すること」に奪われて疲れてしまう気持ちになり、いつしかタスクを洗い出すことを忘れてしまい今に至る。

そんな自分でも、かつて記載した目標を思い出す瞬間がある。他の人が、自分が目標に記載した内容について何かの行動をしているとき。さらに周囲の人から「すごい!」という眼差しを受けている場合は、更に思い出すパワーが強まる。あるいは逆で、目標としていたことを行動しないことや成果を出さないことで、嘲笑されたり馬鹿にされている姿を目の当たりにしたとき。

・・・そう、他人ドリブン。他人から刺激を与えられた場合に、ふたたび自己啓発的な「すごい自分」が復活して行動しようと思える。「他の人が褒められている姿が羨ましい」といった動機で動く。自分の人生で、自分の心が求めるから、心から好きだと思えるから取り組んだ最後は小学生の頃なのでは? というくらい、10代半ばあたりから「他人からの目、外からの刺激」のみをトリガーとして生きてきた。

このことに気づいてから「あぁ、だから趣味がないし何かに打ち込めないんだ」と気づいた。目標を立てて何かを頑張る時も他人にどう見られるかが主要な動機なので、「自分の行動の結果は他人から見てあまり価値がなさそう」と思うとやる気がなくなってしまう。

自分の心の声や好奇心を、自分自身が掬い上げることが苦手だ。誰かから強烈にコンプレックスを刺激されて悲しくなったときの気持ちは、外からの強烈な刺激で自分の気持ちが生まれるだけ。こうやって生きることは、永遠に他人に操られる人生を生きることと同義であり、自分のやりたいことがわからず息苦しいけど常にぐったり疲れている…という悲しい状況で人生が進んでいきかねないなと思う。

寂しいという感情に苛まれがちなときは、他人からの刺激で落ち込んでおり、なおかつ自分の心の声を無視していたからなのかもしれない。自分が自分を無視する、というイジメをしていたから寂しかったのかもしれない。自分がイジメている人を他人に受け入れてほしい、と思って行動してしまい「このひと何かが変だ」と思われて距離を置かれる、という悲しいループに入ってしまうのも、こういったことが原因なのかも。

なので、来年の抱負はひとつ。他人からの刺激ドリブンで動く自分もいいと思うけど、自分の心が発している声を丁寧にすくってあげる時間を作り「心がちょっとでも良いと思ったもの」に対して行動する時間をつくってみる。そして、それができなくても毎日少しでも思い出したらよしとする。

人からの刺激だと何も考えずに動けばいいから、飽きないし本質的に頭を使わなくて済む。だけど自分の心と向き合う作業は刺激が少なくて、むしろ辛い作業が多いから、忍耐力がかなり必要そう。これも自分が自分を幸せにするための修行だと思って、割り切ってやるしかない。他者からの刺激がなくとも自分の心のままに生きるコツを会得すれば、今よりもっと人生の楽しみを掬う心の襞が増えて、生活の彩りが増えるはずだから。

来年もいい年になるといいな。

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