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二十四年目の記憶 −1.17

高校二年の冬休みに「弁論文を書く」という宿題が出た。弁論文は「主張したいテーマ」がないと書きようがないが、なかなかコレといったものが思いつかず困っていた。年が明けあと数日で始業式、という時にふと「もうすぐまた1.17が来る」ことに気づき、そうだ阪神大震災の時のことを書こう、と決めた。
と同時に、それが「弁論文」かどうかはどうだってよくなってしまった。四百字詰めの原稿用紙四枚程度という指定があったけれど、その倍近い分量の文章を、数時間で一気に書ききった記憶がある。


三学期が始まりしばらくすると、校内開催の弁論大会に向けて各クラスから一名が選ばれた。私のクラスから誰が選ばれたかは記憶にないが、担任の先生が「弁論文とは言えないのでクラス代表には選びませんでしたが、ぜひ皆さんに読んで欲しい作文がありました」と言って、私の作文のプリントを全員に配った。後から聞いたところによると、高校二年の全クラスで配布されていたらしい。
作文のタイトルは「五年目の記憶」。「阪神大震災当日の生々しい記憶」と、丸四年が経ち「それが風化していっていることに対する複雑な気持ち」を綴った憶えがある。当時私が通っていたのは奈良市内ある中高一貫の私立校。自宅が全壊した生徒は学校全体でも数名程度だったので、先生達にとっても貴重な資料だったのだろう。廊下ですれ違いざま、知らない先生に「作文読んだわよ。大変だったのね」と声を掛けられたこともあった。

それからまた二十年近くが経ち、震災当日の記憶はさらに断片的になった。あの作文をちゃんとデジタル保存しておけばよかったと、この時期になると毎年少し後悔する。でも今年はちょうどnoteを始めたばかりだ。せっかくなのでここに、当時の想いの何分の一かだけでも、書き残しておこうと思う。


1995年1月17日の早朝。両親と姉と私は西宮市内のマンションにいた。私は身体のうえに段ボール箱か何かをどんどん積み上げられて動けなくなっていく、という奇妙な夢を見ていた。が、ほどなくして父の「地震や!」という叫び声で目が覚めた。私はベッドで寝ていたが、布団越しにタンスの上に置いていた荷物が折り重なり身動きがとれなくなっていた。夢は夢ではなかったのだが、本震の揺れに気づかず眠っていた私は、何が起きたのかすぐには状況を理解できなかった。震度7強の本震発生時、姉はベッドから身体が浮いたそうだ。
「絶対に素足で歩くな!」冷静な父はそう言い放つと、真っ先に玄関に皆の靴を取りに行った。布団の上の荷物を父に動かしてもらい、ようやくベッドから抜け出せた私は靴を履いた。枕の真横には、重たいビデオカメラの三脚が落ちていた。怪我はなかったが、一変した家の中をみて茫然とした。

今でもリアルに蘇る、靴底の裏でガラスか何かをグシャリと踏みつぶした感触。昨日まで普通に暮らしていた我が家のなかを、土足で歩き回らなくてはならないのはとても無念だった。家のなかのあらゆるモノが落ち、倒れ、崩れ、壊れていた。そのときはまだ父も「これは片付けが大変だな」という認識だったようだ。私たちはパジャマの上からいつも着ていたコートを羽織り、10階から地上までぞろぞろと階段を降りた。建築設計士だった父は、マンションを外側から一目見た瞬間にもうここには住めないことを理解した。コの字型のマンションの、背中部分のワンフロア(非住居エリア)が押しつぶされ、鉄骨が無残に飛び出していたのだ。


その時築25年のマンションには、120世帯ほどが住んでいたのではないかと思う。パニックになって着の身着のまま裸足で逃げ出してきていた人たちも多く、すぐにそばの公園で焚き火が起こされ、皆こぞって暖をとった。近くに唯一あったローソンに行くと、食料品の棚はほとんど空っぽ。それでもあるだけおにぎりやパンを買い込み、母とともに公園でそれを配った。遠くで救急車や消防車のサイレンがひっきりなしに鳴り響く、明らかな「非常事態」だった。父が使い始めたばかりのトランシーバーのような携帯電話で各方面に連絡をとり、大阪に住む両祖父母の無事を確認した。公衆電話には長い長い列ができていた。
隣近所の付き合いがあったため、そのうち公園内で自主的な点呼確認が始まった。◯号室の誰々さんをまだ見ていない、という声があれば男性数名がその部屋に向かい避難を手伝い、無事を皆で喜ぶ、という光景が昼前まで続いた気がする。幸い私たちのマンションでは火事もなければ亡くなった方もおらず、腰を抜かしたおばあさんが一人運ばれたくらいで済んだのは、不幸中の幸いだった。大きなマンションでの住人の連携プレーは、後日新聞に載ったそうだ。


余震が少し落ち着いたのを機に、私たちは一度10階の自宅に階段で戻った。財布などの貴重品、当面の生活に必要な衣類などをかき集めて旅行用のバッグに詰め込んだ。ベランダで飼っていた二羽のセキセイインコが一羽いなくなっていたが、それどころじゃなかったのが正直なところで、元気に飛び去ったことを祈ることしかできなかった。私たちの自宅はコの字型マンションの先端に位置しており、躯体の損傷は壁のヒビ程度だったけれど、二軒隣からはもう原型を留めていなかった。床と天井の隙間が1メートルしかない箇所もあったそうだ。それでも怪我人が出なかったのは、本当に奇跡だった。

各々が自分の荷物をまとめていたとき、玄関付近で人の気配があった。そこに立っていたのは、祖父だった。母は一瞬本気で幽霊ではないかと思ったらしい。聞けば地震の被害を知り居ても立ってもいられず、父が祖母に連絡するより早く家を出て、大阪市内から西宮まで自転車で駆けつけたのだという。
当時の祖父は67歳。あまり身体が丈夫でなかったにも関わらず、余震の続くなか15km近い距離を走り、更に10階分の階段を駆け上がってきたのだ。こちらに近づくに連れ風景が変わり果てていくのを見て、生きた心地がしなかったと祖父は漏らした。自分が子を持つ親になった今、当時の祖父の気持ちは想像するだけで胸が苦しい。


そうこうしているうちに、公園で様子を見ていた人たちも少しずつバラけ始めた。近くに親兄弟がいる人はそこを頼り、あてのない人は私が通っていた小学校の体育館へと避難していった。校舎内の一部は遺体安置所になっていたそうだ。私たちは祖父と共に、車で母方の祖父母宅に向かった。そこで初めてテレビのニュースを見て、西宮よりも神戸や淡路島の被害が大きいこと、火事があちこちで起きていることなど震災の全容を知った。ニュース速報で表示される死者・行方不明者の数は倍々の勢いで増えていった。さっきまでそのエリアにいたのに、今ここでこたつに入ってそれをテレビで見ているのがありがたくもあり、不思議だった。当時岡山の高校で寮生活をしていた兄とはその日のうちに連絡がついたが、ローカル線を乗り継ぎ帰省し、顔を合わせられたのは四、五日経ってからだった気がする。



私は中学校を一週間ほど休んだ。JR神戸線が甲子園口駅まで運転を再開したと聞いたら終点まで乗り、そこから一駅歩いて自宅に戻った。祖父の知人に軽トラックを借りた日は、こっそり荷台に乗って移動したりもした。とにかく毎日のように自宅に足を運び、瓦礫を片付けながら必要なモノの整理をした。当時陸上部に所属し体力もあった私は、一日に地上から10階の部屋まで階段で何十往復もし、荷物を運び出した。火事場の馬鹿力というやつだ。祖父母宅の屋内ガレージはすぐに段ボール箱で埋め尽くされた。
それまで祖父母は一階で寝ていたけれど、震災の日以来全員二階で雑魚寝をするようになった。枕もとに靴と貴重品袋を置いて寝る日々がしばらく続いた。古い長屋は、小さな余震でもギシギシと不気味な音を立てた。少しでも揺れを感じると一瞬で全身が総毛立つのは、今でも変わらない。本震に気づかず寝ていたと言うと笑われるか呆れられるかだが、知っていればもっと強くトラウマが残っていたかもしれないと思う。


一羽残ったセキセイインコは、すぐに連れ出してやることが出来なかった。自宅に戻るたびに餌をやっていたものの、ある朝ゲージのなかで死んでいるのを母が見つけた。母はいまだに、助けてやれなかったことを悔やんでいるらしい。セキセイインコは、祖父母宅のプランターに私が埋めた。
我が家は玄関ドアに施錠ができたので被害を免れたが、同じマンション内で火事場泥棒に入られた部屋があるらしいという噂も耳にした。冬場とはいえ、10日も経つと部屋にはかすかな異臭が漂い始めていた。荷物を取りに戻るのももう最後だという日、あの日の朝まで寝ていたベッドに落書きをした。はっきりとは覚えていないけど「今までありがとう」的なことだった気がする。
マンションの解体工事が始まったのは、震災後どれくらい経ってからだったのだろう。誰も寄り付かなくなった廃墟があるのは不気味だったし、7年住んだ家をそんな風に眺めるのも哀しくて、更地になったと知ったときには少しホッとしたものだった。

建築業に携わっている父のツテもあり、二月中には西宮市内の別のマンションに引っ越すことが決まったが、使えるライフラインはまだ電気のみだった。それではさすがに不便だろうと、水道が復旧するのを待って三月半ばに一家で祖父母宅を後にした。最初はありがたかった居候生活が、少しずつ窮屈になり始めていた頃だった。
まだガスは使えず、しばらく調理はカセットコンロと電気ポットが頼みの綱。夜は近くの銭湯にいくか、冷たいシャワーを浴びる生活だった。道路にはまだたくさんの亀裂が走り、ところどころ液状化した跡も見られたが、それも年を追うごとに直され震災の爪痕は徐々に消えていった。



全壊した自宅は分譲賃貸契約だったため、私たちは気持ちを切り替えて新生活を始めることができたが、購入していた人たちはそうはいかなかった。体育館での避難所生活のあと、同じ場所に新しいマンションが建つまでの数年を、公園の仮設住宅で過ごした人も多かった。
その後建った新しいマンションに入居した人の部屋に、一度だけ遊びにいったことがある。ちょうど、昔の我が家と同じ方角の部屋で、窓越しに懐かしい夜景が飛び込んできた。1.17の前夜まで毎日見ていたのに、突然失ってしまった景色だった。何も変わっていないように見えたのは、夜だったからかもしれない。震災後10年近く経ち、日常で被災経験を思い出すことなど皆無になっていたにも関わらず、あの日を境に「何かが断絶していたこと」を、突きつけられた気がした。


毎年この時期になると震災の特集番組が放送される。見る年もあれば見ない年もある。何にも思わない時もあれば、あるワンシーンにぎゅっと胸が締め付けられるときもある。年に一度か二度、震災時の喪失感やあの壊れてしまった自宅の風景が夢に出てくることもある。いずれも数時間で忘れてしまう程度ではあるけれど、あの震災が私の人生に大きく影響したことを思い出す瞬間だ。

1.17以降、日本は東日本大震災や熊本大地震を経験した。そのたびに居ても立っても居られなくなり、自分の無力さに苛まれ、でも何かできることはないかと考えてできる範囲のことをしてきた。そしていつの間にか自分も子を持つ親となり、有事には子ども達を守らなくてはならない立場になった。
平時にこそ備えをしよう。あの日の父のように、冷静な判断ができる自分であろう。思うことは色々あるけれど、それさえも忘れてしまうのが人間なのだ。


二十四年目の記憶は、こんなところだろうか。
あとまた何十年かが経ち、今より更に記憶が曖昧になったときに読み返せるように、今度こそデジタルとアナログの両方で記録に残しておこう。
大きくなった娘たちがこれを読んだとき、何かひとつでも心に留めてくれることがあったなら、綴った甲斐があったというものだ。

今日は一日雨模様だ。
二十四年前に亡くなられた方に、心からの祈りを込めて。

2018.01.17

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