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【小説】なにもしらないわたし

 窓から四角い空が見える。真っ青だ。
 雨が降った次の日の朝。一点の曇りもない空。こんな日が好きだった。
 それから、味噌汁の匂い。ごはんやおかずと混じった、慣れきった匂い。
「行ってきます!」
「ティッシュとハンカチは? 財布と定期も持った?」
 台所から飛んできた声に、鞄の中を確認する。
「持った!」
「携帯電話は?」
 ひょっこりと顔を出した兄が、寝ぼけたような口調で聞く。
「えーっと……」
「さっき、台所のテーブルの上にあったよ」
「知ってたなら早く言ってよ」
「めんどくせぇもん」
「いじわるっ」
 一度履いた靴を脱ぎ、台所に駆け込む。ついさっきまで朝食を食べていた場所に、ポツンと携帯が置いてあるのを見つけて鞄に放り込む。時計を見ると、もうすでにギリギリの時間だ。
「あぁ、もう……」
 ブツブツいいながら慌てて玄関に向うと、いつものように見送ろうと、祖母が待っていた。
「リボン、曲ってるわよ。もう毎日、毎日、いつまでたっても上手に結べないのねぇ」
 口では小言を言いながらも、にこにことリボンを直してくれる。
「早くー。遅刻しちゃうよぉ」
「はいはい。できたわよ」
「行ってきます!」
「気をつけてね。なるべく早く帰ってきてね」
 背中にいつもの言葉を聞きながら、家を飛び出す。
 ありふれたホームドラマのワンシーンのような朝。当たり前の生活。
当たり前だからこそ、時間が過ぎれば忘れてしまった。そんな時間なんてなかったかのように、当たり前に幸せなことは消えた。その代わりに、つまらない感情だけが薄暗く残ってしまったのだ。それは、いつまでも消えずに。

*****

 何かを切る音がする。リズミカルな音。夕食はなんだろう、と、シャーペンを走らせながらぼんやりと考えた。兄は遠い土地の大学に進学して一人暮らし。父は去年の秋から単身赴任。女ばかりのこの家の中は、朝のひとときを除いては、静かなものだった。参考書をめくる。その音さえも響きそうだ。
 毎日のように出る英語の宿題には手を焼いてばかりだ。宿題はこれだけじゃない。数学も、化学もある。英語の日本語訳。つまずくたびに聞きに行こうと立ち上がり、そして聞きにいける相手がいないことに気付く。寂しさはある。しかし、その寂しさにも酔っていられないほど、新しい生活に慣れることに必死だった。
「夕実ちゃん。夕飯の支度、少し手伝って」
「はぁい」
 お手上げの英語の参考書を閉じる。
 母に呼ばれるままに台所に行くと、テーブルには鶏の唐揚げとシメサバが乗っていた。それから、ポテトサラダ。
 食器棚から三人分の箸と茶碗を出し、盛り付けられた皿と一緒に居間に運ぶ。居間ではソファに座った祖母がぼんやりとニュースを観ていた。
「いい匂いね」
「唐揚げだって。ポテサラもあるよ」
「あら、うれしい」
 にっこりと笑い、またテレビの方を向く。兄と父がいる時は、キッチンにある大きなテーブルで食事を摂っていた。それが、三人になってからは居間が食事の場になった。キッチンで摂る三人の食事は、沈黙が支配してやりきれなかった。口に出すことはなかったが、それぞれが苦痛に感じていたはずだ。でも、居間ならテレビはちょうどいいBGMと話題の提供源になってくれる。たとえ会話がなくとも、沈黙に罪悪感を覚えることはない。
 家族五人で居た時は、何をそれほど話すことがあったのだろう。食事が終わっても会話は尽きなかった。おなかを抱えて笑い転げるようなこともあった。なのに、それほど楽しかった場面がもう思い出しにくくなっている。
 居間のテーブルに皿が所狭しと並ぶと、静かに食事は始まる。
 母はいつも料理を作りすぎる。
「十年以上、ずっと五人分の食事を作っていたんだから・・・」
 気の強い母は決して寂しいとは言わない。それでも残った料理を片付ける時は少しだけ、ときどきだが顔を歪める。冷蔵庫に詰まった残り物の山は、そんな母の言葉を代弁しているようだった。
「お父さんと大樹はちゃんとご飯食べたかしらねぇ」
 ポテサラを口に運びながら祖母が言う。このところの口癖だ。
「食べてるって。きっと私たちよりおいしいものをさ」
 それに対する決まりきった返事。兄は一緒に住んでいたころ、料理は全くできない人だった。一人暮らしを始めてすぐによこしたメールで「自分の料理のまずさにびっくりした」と嘆いていたほどだ。そんな兄の言葉を祖母に伝えればすぐに兄の下宿先に飛んでいくだろう。もう大学生だ、十九歳だと言っても、祖母の中の兄は、いまだに手のかかる何もできない幼子のまま。
 いつまでも小さな子供のままでいられるわけがない。祖母にはそれが分かっていても、心では理解したくないようだった。
「ごちそうさまでした」
 手早く食事を済ませ、席を立つ。
「夕実、自分の食器ぐらい片付けなさいよ」
「はいはい」
 前は、兄が私の分の食器も片付けてくれた。小さいからの習慣のようなもので、特に疑問もなかった。考えてみれば、よく世話を焼いてくれる人だったのだ。気にならない程度に、私が嫌がることばかりを率先して。ひょっとしたら、家を出たら兄以上に自分の料理のまずさにびっくりするかもしれないな、と思う。兄はできないできない、と言いながらも、努力してこなせるようになってしまう人だ。一人で一ヶ月も生活すれば、そこそこおいしいものを作れるようになっているのだろう。
「じゃあ、自分の部屋にいるから」
「夕実ちゃん、夕実ちゃん」
 キッチンから居間に顔だけ覗かせた私を、祖母が手招きした。
「なに?」
「ほらほら。夕実ちゃんの好きな俳優さんが九時からドラマに出るって。一緒に観ましょう?」
 新聞のテレビ欄を指差しながら言う。私の好きな芸能人なんか覚えていたんだ、と少し意外な気分になった。兄の話ばかりで、私のことなんて二の次だとばっかり思っていたのだ。
「ほんとだ。主演なんだ。知らなかった」
「ね?」
「あぁ……。でも、まだ宿題が終わってないんだよね」
「何の宿題?」
「英語と数学。あと、化学」
「お兄ちゃんがいたら教えてもらえたのにねぇ」
「お兄ちゃんがいたら、教えてもらうんじゃなくて、代わりにやってもらう、になっちゃうんだよ」
 祖母がふふっと笑った。そうねぇ、そうかもしれないねぇ。でもいないからどうしてるかは実際には分からないねぇ。呟くように言う。
 別に死んだわけでもない。休みが来れば、ここに帰ってくるのだ。あからさまに寂しそうな顔をする祖母にイライラした。
「じゃあ、もし宿題が終わったら一緒に観ましょうね」
「うん」
 今まで、一緒にテレビを観ようなどと言ったことがあっただろうか、と考えた。兄がいたときは、最低限のことしか構ってこなかったような気がする。放ったらかしだった。兄がいなくて心細いのは分かっている。それでも、兄の代わりにのように優しくしてくる祖母が、ひどく鬱陶しく感じられた。

*****

 以前の祖母の口癖。
「一つ屋根の下で暮らすのだから、家族は協力してまとまらなければならない」
 家族がバラバラに暮らすことを誰よりも嫌がった。
 父の単身赴任の時も、兄の大学進学の時も、みんなで一緒に引っ越そうと言い張った。
そのたびに反論した。
「私のこともちょっとは考えてよ」
 父の単身赴任はまだしも、兄の進学のときには、私の進学先はすでに決まっていたのだ。
「夕実ちゃんは家族がバラバラになってもいいの? 高校なんて、どこでもいいじゃない」
 祖母は涙ながらに訴えた。
 いつかは家族なんてみんな離れてしまうのだ。子供は自立する。家もいずれ出て行く。兄は進学でそれが少し早まっただけの話だ。かみつこうとした私を兄が制し、笑顔を見せた。
「暮らしている場所が違っても、気持ちが一緒ならそれで構わないじゃないか」
 鳥肌をたててしまうような台詞を、兄はサラリと言ってのける。祖母はしぶしぶながらも頷いた。祖母はいつだってそうだ。私がどんなに泣いても、喚いても、聞こうとはしない。結局、兄と父の言葉には説得されてしまう。それだけ二人を信頼しているのだか知らないが、どちらにしても私にとっては気分のいいものではなかった。
「おばあちゃん、お兄ちゃんから電話」
「あらあら。おばあちゃんなんかと話してくれるの」
 兄からの電話を嬉しそうに受けとる祖母の姿は、いつも私を悲しくさせる。
「大樹も毎週のように電話してきて。やっぱりおうちが恋しいのかしらねぇ」
 違う。兄はただ祖母を安心させるために、義務のように電話をかけてくるだけだ。それが分かっていても訂正はしない。祖母は自分が満足していれば、私の話す事実なんてどうでもいいのだ。
 一度、祖母がかけた電話に兄が出ないことがあった。進学してすぐのことだっただろうか。そう、四月とは思えないほどの寒さで、防寒着を荷物に入れていなかった兄を心配して電話をかけたのだ。その時の慌てぶりと言ったら、今思い出してもおかしくなる。そわそわと家の中を動き回り、「電車に乗ってるとか、授業とかじゃないの」と言う私の言葉には激怒した。
急に寒くなったから熱でも出したんじゃないかしら。
事故にでもあったんじゃないかしら。
エトセトラ。エトセトラ。
兄からはその日のうちに電話があり、祖母も落ち着きを取り戻したが、その電話もひどいものだった。
「電話に出ないから心配したのよ。おばあちゃん、大樹が事故にでも遭ったんじゃないかと思って。寒いけど大丈夫? ちゃんとお風呂に入って暖まるのよ? ごはんもしっかり食べないと風邪ひいちゃうんだから」
 挙句の果てに泣き出す始末。
 以来、兄はマメに電話をしてくるようになった。
 連絡がつかないときは、あらかじめ私の所にメールが入った。家にいたころよりも行動を制約されている兄がなんだか不憫にも思えた。

 気がつかなかったけれど、私の家は制約ばかりだった。
「夕実ちゃん、ケーキを買ってきたからお茶にしましょう」
 部屋で勉強をしていると、祖母が顔をのぞかせた。
 日曜の午後は、決まってそう声をかけてくる。三度の食事も、おやつも、土日は家族揃って摂るのが原則だった。個人で外出することはしない。それも祖母の希望だった。出かけようとすれば、家を出る瞬間も寂しそうに今にも泣き出しそうな顔をし、「せっかくの休日なのに」「みんなで食事するの楽しみにしていたのに」などと恨み言を言う。いつの間にかできていた『家の決まり』を守ろうとしていたわけではなく、祖母にあれこれと言われるのが嫌だったから、休日は家でじっとしていた。
 食事の支度は兄が母を手伝う。手伝うと言っても、食器を出したり、料理を並べたりする程度だが、兄は文句も言わずにずっとやっていた。三時のおやつは、祖母が支度をする。
 でも、祖母が私に声をかけてくるようなことはなかった。兄に声をかけ、そして兄が私を呼びに来る。自然とそうなっていた。兄がいなくなってから、ようやく私に声をかけにくるようになったのだ。私は兄の代わりなのか。それとも、今まで構ってやれなかった分を、補おうとしているのか。分からない。どちらにせよ、いい気分になど、なるわけがなかった。
「夕実ちゃん?」
 ぼんやりと兄がいたころを思い出していると、祖母は私の顔を覗き込んだ。
「どうしたの? 気分でも悪いの?」
「ん? あ、えっと……」
「ケーキ。夕実ちゃんの好きなマロングラッセよ。食べる?」
「……いいや。宿題も終わってないし」
「そう」
 私が好きなのはマロングラッセじゃなくて、苺のタルトだよ、おばあちゃん。マロングラッセが好きなのはお兄ちゃん。
 チクリと、どこかが痛むような小さな間違いを、祖母はよくする。
 ひねくれた私はどんどんと自分の中に引き篭もろうとする。それなのに、私も勝手なもので、自分から突き放しておきながら祖母にあっさりと引き下がられると、それはそれで悲しくなる。
 なら、追いかければいいのだ。けれど、そこまで素直じゃない。
 ドアが閉められ、ゆっくりと階段を降りて行く足音が聞こえる。その音が、ひどく遠いもののように聞こえる。
 兄の部屋は隣にある。あの足音は隣にしか向いていなかったし、隣からしか出てこなかった。今でも、間違えて、隣の部屋のドアをノックしていることがある。そんな音を聞きながら、一人、部屋でじっと待つ。誰かが自分を呼びにきてくれるのを。
 無理して私で埋め合わせしなくてもいいのに。
 そう思うことも卑屈で自分が汚らしかった。でもそう思わせる祖母も憎かった。 
 憎い?
 そう思えるほど、愛してもいないくせに、よく言う。
 思考がループする。
 結局、私は私のことしか頭にない。それが子供の特権だと思っていた。そして周りにも自分のことを、想ってくれることを望む。
 だから、何も気付かなかった。

*****

「お父さんが? 今日?」
「うん。夕方ぐらいにはこっちに着くって」
 金曜日の朝。歯磨きをする私に、母がかけてきた言葉は意外なものだった。
「なんで? 土日はいつも連休でも帰ってこないじゃない」
「とりあえず顔を洗い終わってから話しなさい。お行儀悪い」
「うーん」
 話し掛けてきたのはそっちじゃない、と口をもごもごさせながら洗面所に戻る。もう洗い終わったと思ってたのよ、トロトロしてるからいけないんでしょう。ネギを切りながら反論される。
 魚を焼くいい匂いがする。祖母はまだ寝ているようだ。以前より起きてくる時間がおそくなった気がする。
「それで? なんで急に帰ってくることになったわけ? あ。ひょっとして単身赴任が終わるとか?」
「予定通り、こっちの本社に戻るのは来年の春でしょう。何も聞いてないし」
「じゃあどうししてよ?」
「顔を拭きなさい。顔を」
「うっさいなぁ、もう…」
 母は心なしか、イライラしているように思えた。よく見ると、目の下が少し黒くなってクマができている。眠っていないのだろうか。
 テーブルにつくと、茶碗に盛られたごはんと、味噌汁が出される。いつもと同じ豆腐とワカメの味噌汁。焼かれたばかりの鮭は、脂が浮いて、テラテラと光っていた。
「今日は帰り遅くなるんでしょ。ちゃんと食べて行きなさいよ」
「……おばあちゃんみたないことを言う」
 祖母が兄に言っていたようなことを。
「そう言えば、最近おばあちゃんからそういうセリフ、聞かなくなったわね」
 それは、お兄ちゃんがいなくなったから。
 そう思ってひねくれてみる。だからと言って、祖母がそんなことを私に言ったら、ムッとするのだろう。大して私のことなんか気にもしていないくせに、と。
 正面に座り、母も朝食を摂り始めた。
「おばあちゃんは?」
「いらないって」
 居間でつけっぱなしになっているテレビが今日の天気予報を知らせている。
『梅雨入りをした沖縄以外では、全国的に晴天に恵まれるでしょう』
 雨でも晴れでもどっちでもいい。暑くても寒くても関係ない。どんな天気でも、モヤモヤとした心が晴れるわけではないのだ。
「それで?」
「なに?」
「なんで急に、お父さんが帰ってくることになったの?」
 どこか居心地の悪い空気に耐え兼ねて、今日三度目の質問を口にする。
「ああ。その話ね……」
「……言いたくないなら別にいいけど」
 苦々しい顔をして味噌汁をすする母に、思わず逃げ腰になる。機嫌を損ねてまで、知りたいことでもない。虫の居所が悪いのか、そんなにも父の帰宅理由が気に入らないのか。どちらにせよ、朝から不機嫌な人と接するのはこっちだって気分が悪い。母の機嫌を気にしながら喋っている自分も、どこか忌々しかった。
「言いたくないってわけじゃないのよ」
「ふぅん?」
「ただ、ちょっと気に入らないだけで」
 何が、とは聞かなかった。考えるように箸を動かす手を止めた母は、私の皿の上を眺めている。
 意外と大きな鮭の骨が口の中に当る。細かく噛み砕けば、飲み込めるかもしれない。そう思って、骨を噛むことに一瞬集中した。カツンカツン、と歯がぶつかり合う音が、小さくこだまする。
「おばあちゃんがね…」
「ん?」
「おばあちゃんが元気がない、って言ったら、帰って来るって答えたの」
「は?」
 驚いた拍子に、噛んでいた骨を飲み込んでしまう。少し、喉に引っかかったような気がして、慌てて口いっぱいにごはんを放り込み、丸呑みした。昔、祖母が教えてくれたまじないだ。ただ、ごはんが骨を引っ掛けてくれるだけなのだが、小さい頃に教えられて、ずっと続けている。水を飲んで、「たぬき」と言えばしゃっくりが止まるとか、祖母が教えてくれたまじないは、他にもまだたくさんあったような気がする。
「おばあちゃんの元気がないから、お父さんが帰ってくるの?」
「要はそういうこと」
『要は』も何も、話が簡単すぎて、むしろよく分からなかった。大体、祖母の元気がないことにさえも、気付かなかった。
「おばあちゃん、どこか悪いの?」
「そういうわけじゃんいけど……昨日ね、泣いていたのよ。おばあちゃんが」
「泣く?」
「夜中に、おばあちゃんの部屋から泣き声が聞こえたから、覗いたのよ。テレビでもつけっぱなしになっているのかと思って。そしたら……」
「おばあちゃんが泣いてた?」
 こっくりと母が頷く。
「どうしたんですか、って側まで行ったら、お母さんの手を握って泣くのよ。大樹に会いたい、和彦に会いたいって。ベッドの中で、小さい子供みたいにしゃくりあげて」
「お母さんの手を握って? 泣くの? おばあちゃんが?」
 馬鹿みたいに、母の言葉を聞き返す。母と祖母は、世間で聞くような嫁姑のように険悪でもないが、仲が良い、とも言えない。談笑しているようなところも見ないし、どちらかと言うと、互いに避けているという印象が強い。その分、母の言うシーンが想像し難かった。
「ずっと手を握ったままで。手を離そうとすると、また泣くの。和彦、どこに行くの、ってね。お父さんと間違えてるのよ」
 そう言って、ふっと鼻で笑った。毎日一緒に暮らしている母や私より、父や兄が恋しいのだ。名前を呼び、泣くほどに。
「四時ごろかな。やっと眠ってくれた。それからお父さんに電話して」
「そしたら帰ってくるって?」
「そう」
 私がどんなに頼んでも帰ってこなかったくせに。中学の卒業式のときも、入学式のときも、忙しいからの一言で、帰ろうという素振りも見せなかったくせに。兄は、仕事なんだから仕方ないよ、と慰めてくれたが、悔しくてたまらなかった。帰ってきてくれなくてもいい。せめて、電話越しにでも「おめでとう」の言葉が聞きたかった。知っているのだ。兄の、第一志望の大学の試験日に激励のメールを送っていることも、引越しの日に手伝いに行っていることも。
 そして今度は祖母だ。寂しいと泣けば帰ってくる。私も、会いたい、寂しい、と嘘でもいいから泣いて見せれば、帰ってきてくれるのだろうか。
「おばあちゃんも寂しいのよ。あの年になって、初めてお父さんと離れて暮らすことになったわけじゃない。始終一緒にいるのは他人の私だけだし。夕実は忙しいし」
 黙りこむ私に母は少し慌てたように言った。でも祖母とは他人だと言う言葉に、母の冷たさが滲み出ているような気がした。祖母はよく、私と母が似ているとぼやく。父とそっくりの顔をした私の、一体どこが母に似ているのかと思っていた。でも、家族の中で、誰よりも母のことが分かるのは私だ。
「……そろそろ学校行くね」
「そうね。もうそんな時間ね」
「今日、部活あるから」
 鮭の脂のついた指を、水で流した。鼻に近付けると、魚の生臭さが残っている気がして、石鹸をこすりつけた。
「夕実」
「なに?」
「もう少し、おばあちゃんに優しく接してあげて? せめて、朝出かけるときに声をかけるとか」
「気が向いたらね」
 祖母を気遣うようなことを言っても遅い、と思った。優しく接しろと言いながら、母だって父の帰宅理由が気に入らないのだ。『ちょっと気に入らないだけで』。さっきの母のセリフに、若干の祖母への嫉妬が滲みでているような気がして、おかしかった。
 テレビから、今日の運勢を伝える明るいアナウンサーの声が聞こえて来た。本当に、そろそろでかけないとまずい時間だ。テーブルに置いた携帯を制服のポケットに滑り込ませた。ティッシュとハンカチ、定期も財布も、鞄に入れたままだ。忘れ物をすることは、最近減った。
「いってきます」
「できるだけ、早く帰ってきてね」
 母が呟くように言った。
 祖母の部屋は、玄関のすぐ側にある。今日は、そのドアノブを回す気には、ならなかった。
 外は曇天だ。天気予報は外れだな、とぼんやり思った。

*****

 重そうな雲から雨が降り出したのは昼ごろからだった。
 他の部員が早々と帰る中、私は顧問に追い出されるまで、絵筆を握って黙々とキャンバスに向い続けた。並んだ二つの林檎。真っ赤で、食べごろのおいしいもののはずなのに、キャンバスの林檎は熟しすぎて腐りかけのようだった。
 学校を出ると、行き場に困った。もうすぐ十九時だ。日は長くなったな、と薄暗い空を見上げると小さな雫が顔に当る。下駄箱まで戻り、傘立てに突っ込まれている何本かの傘を物色した。置いていかれた傘はどれも汚かったが、濡れて帰るよりはみじめではないような気がする。比較的壊れていない、ピンクのビニール傘を選んだ。
 どこへ行こうかと考えた。
 学校から駅まで歩いて十五分。電車に二十分乗って、駅から家まで歩いて十分。一人で遊べそうな場所はない。仕方ないので、帰り道にあるコンビニに全部寄った。同じ雑誌を何度も立ち読みし、チュッパチャップスを一個ずつ買った。プリン味、チェリー味、グレープ、オレンジ、イチゴ、コーラ。六個買えた。いつもなら四十五分で帰れるところを二時間かけて帰った。家に着いたのは二十一時ちょっと前だった。
 夕飯時を過ぎると、近所の家は静かなものだった。洩れる光が道路を照らすだけ。我が家も例外ではない。ドアを開ける。家の中は静まり返っていた。
 祖母の部屋から、テレビの音。ドアの隙間からかすかな灯りと共に漏れていた。靴を脱いで、そっとドアの前まで近寄る。門限は八時だ。わざと遅く帰ってきたのに、門限を破ったことを怒られるのではないか、と怯えていたのだ。
「ただいま……」
 ドアを少しだけ開けて声をかける。
 六畳の和室。祖母の部屋。いつでもすぐに横になれるようにと、数年前に父が購入してきた高さのないすのこのベッド。物書きをするためのちゃぶ台。ゆったりとした座椅子。和調のローボードに乗った二十七インチの液晶テレビ。私の声に気付かなかったのか、座椅子に体を鎮めてテレビに見入っている。茶色い家具は圧迫感のないように低い位置に据えられ、大きく開いた壁の空間には色を差すように数枚の水彩画が飾られている。セピア色の中に作られたような空間は、どこか偽りの匂いがして、私は好きではなかった。
「ただいま」
 今度はドアをちゃんと開け、大きな声をかけた。驚いたのか、ビクリと体を震わせ私のほうを見る。
「夕実ちゃん」
 一瞬険しい顔をしたが、すぐに和やか笑みを浮かべる。
「おかえりなさい。遅かったのね。お父さん、もう寝ちゃってるわよ」
 驚いただけで、帰りが遅くなったことはあまり気にしていないようだった。父ももう眠っているのなら怒られないな、と安堵する自分がおかしかった。
「ごはんは?」
「まだ。食べてない」
「早く食べておいで。今日は八宝菜だったのよ」
 夕飯のメニューを聞いて、くうっとおなかが鳴った。
「じゃあ食べてくるね」
「あ、ちょっと待って。そうそう、これを見てもらおうと思ってたの」
 部屋を出ようとした私に、少しウキウキしたような声で呼び止めた。
 振り返ると、よっこらせと立ち上がった祖母が、テレビの横に置いてある人形に手をかけるところだった。見たことのない人形。もちろん、私が持っていたものの一つでもない。
「これ。これ見て」
 嬉しそうに人形を差し出す。
「なに……?」
 身長が三十センチ程度の女の子の人形。毛糸っぽい髪の毛は二つに分け、三つ編みに結われていた。園児服を着ているから、年齢設定は四~五歳程度か。持ってみると意外と重かった。
「お父さんが買ってきてくれたのよ。おばあちゃんに」
「おばあちゃんに?」
「そうなの。すごいのよ、このお人形。貸してごらん」
 私から人形を受けとると、おもむろに抱きしめた。
『わぁい。だっこされて嬉しいなぁ』
 人形から女の子の声がした。
「…………」
「これだけじゃないのよ。すごいんだから、この子。ね。お歌を歌って?」
 呆気にとられる私をよそに、祖母が人形に向かって話し掛ける。
『えー。お歌を歌うの? 恥ずかしいな』
 人形はそう言うと、少し音の外れた『チューリップ』を歌い始めた。
『さぁいたぁ、さぁいたぁ。チューリップの花がー』
 ならんだ、ならんだ、赤、白、黄色……。
 声を揃えて、祖母も体を揺らし、楽しそうに歌う。
『お歌、どうだった? 上手?』
 下手くそなチューリップを歌い終えると、恥ずかしそうに言った。体はピクリとも自分で動かさないくせに、やたらと感情のこもった声を発する人形はひどく不気味なものに見えた。祖母はそんなことを気にする様子もなく、うんうんと満足そうに頷いて言った。
「とっても上手よ、ユミちゃん。おばあちゃんびっくりしちゃった」
 ね、夕実ちゃん、と同意に求めるように、祖母は私に笑顔を向けた。

「なにあれ」
 台所に行くと、母がテーブルで新聞を読んでいた。その横には、父が買ってきたらしいおみやげが置いてある。ういろうに、金のしゃちほこの人形焼き。いつものお決まりのお土産。
「遅かったじゃない。こんな時間になるなら電話ぐらいしなさい」
「なんなの、あれ」
「ごはん食べるでしょう。今温め直すから、手洗ってきなさい」
「お母さん!」
「大きな声出さないで。お父さん、もう寝てるんだから」
 コンロに向ったまま、咎めるように言った。
「何なの、あの気持ちの悪い人形。なんで名前がユミなんて言うのよ?」
「すごいでしょ、あの人形。喋るのよ」
「見たから分かるよ!」
 イライラと話す私の目の前に、八宝菜の器を置く。湯気で一瞬、母の顔が霞んだ。
「おなかが空いているから、そんなにカリカリするのよ」
 落ち着いて話す母が滑稽に見えた。その母に食って掛かっている自分はもっとおかしなものに思える。何がこんなに腹立たしいのかが分からなかった。
 八宝菜の横に中華粥の盛られた茶碗が出される。スプーンを渡し、とりあえず座って食べなさい、と言う。匂いが胃を刺激する。チクリと痛んだ。座り、スプーンを動かす。熱い。フーッと息を吹きかけ冷ます。妙に物悲しくなった。
「……あの人形、お父さんが買ってきたって言ってたけど」
「なんかゴルフのコンペって言うの? それに参加したときの賞品ですって。名前もユミだし、ひょっとしたら夕実が喜ぶかなぁ、って思ったみたいなんだけど……。おばあちゃんが気に入っちゃって」
「なんで喋るの?」
 私の問いかけに、テーブルの下に潜ってゴソゴソと動く。出てきたのは人形が入っていたらしき空箱だった。
「音声認識人形ユミちゃん…?」
『あなたの呼びかけに反応してお話します』
『言葉の意味も理解して会話のキャッチボールが可能!』
『抱っこされると嬉しかったり、一人ぼっちにされると泣いちゃうこともあります』
『家族の一員としてユミちゃんはみんなに喜ばれます!』
 箱の裏面には『ユミちゃん』を説明するそんな言葉が踊っている。
「すごいでしょう?」
「気持ち悪いよ」
 そっけなく言うと、母はため息をついた。
「おばあちゃんにしてみれば嬉しいんじゃない? 自分の話を聞いて、ちゃんと返事してくれて、ずっと側に大人しくいてくれて。子供なんて、それぐらいの年齢が一番かわいいもの。成長しない孫。最高じゃない。本物の孫は、大きくなって、生意気になって、あとは出て行くだけ」
「本気で言ってるの?」
 頬杖をついて、にっこりと笑う。母は綺麗な人だと思う。だからこそ、心にない笑顔はとても冷たく、近寄りがたかった。怒られるより怖かった。
「あの人形が気にいらないなら、夕実がおばあちゃんの側にいて、話を聞いてあげれば?」
「無理だよ。学校もあるし、やらなきゃいけないこともあるし」
「じゃあ文句言いなさんな」
「でも、せめて名前を……」
「『ユミ』にしか反応しないのよ。あなただって違う名前で呼ばれても返事はしないでしょう」
 八宝菜には、エビやイカがたくさん入ってた。好きな味だ。イカの出汁がちゃんと出ていて、エビが甘くて、キャベツの歯ごたえがあって。小学生のころ、よくねだって作ってもらった。父もこの味が好きで、食卓に八宝菜が並ぶと嬉しそうな顔をした。だから、今日はこのメニューなのだ。数時間前に作られたであろう中華粥は、米粒が汁を吸ってドロドロになっている。口の中でネチャネチャとまとわりつく。
「どうして、人形に対してそんなに怒るの?」
「気持ち悪いから。私と同じ名前だから」
「我慢しなさない。おばあちゃんは、お母さんと夕実だけじゃ寂しいのよ。きっと。あの人形で紛らわせることができるなら、それでいいじゃない。あなたも忙しいんだし」
 今朝、「おばあちゃんに優しく接してあげて」と言ったのは母だ。でも、今は相手が出来ないのなら放っておけと言う。
 兄が戻ってきたら、祖母は寂しくないのだろうか。それとも私が一緒にいれば、祖母は満足なのだろうか。
 嫌だった。
 兄の代わりは嫌なのだ。兄の代わりに、私の世話を焼こうとする祖母が鬱陶しい。だから、拒んでいる。
「ね?」
 母が頬杖をついたまま言う。一晩中、祖母の手を握って側にいたことは苦痛だったのだろう。寂しくて泣き出すなんてみっともない。自分を望んでいない、そんな相手をするのは面倒だ、と。昨夜一晩、一緒にいたのは、泣いている祖母を放置しておくことに罪悪感があっただけなのか。思いやる気持ちがあったからなのか。
 思いやる気持ち。ダメだ。祖母に感化されているだけだ。
『家族の中でも思いやる気持ちを持って』
『ここは、家族が心から安らげる場所なのだから』
嫌いな言葉だ。思いやりだなんて自己満足の言葉。
 様子を伺うようにして私を見つめる母に小さく頷いた。
 あの程度の人形で煩わしさから解放されるのなら、それでいいではないか。
 答えを聞くと、お風呂に入ってくるわね、そう言って母は席を立った。

*****

 次の日の朝、起きると父はすでにスーツに着替え、居間でキャリーバッグに荷物を詰めているところだった。その側には母が買っておいたものなのか真新しいTシャツやワイシャツが置いてある。
「お父さん……。おはよう」
「夕実か。おはよう」
 機嫌がいいようだった。ニコニコと私に返事をする。寝ぼけた頭で、視界がぼんやりとした。目をこする。改めて、父の顔を見て心が弾んだ。
「母さん、ネクタイ、他になかったっけ」
「タンスの一番上の引き出しに、新しいの入ってますよ。夕実、出してあげて」
「はぁい」
 両親の部屋は居間の隣だった。タンスのドアは開けっ放しになっている。ネクタイも買ってたんだ、と思った。タンスを開けても、私には、どれが新しいか、古いかは分からない。タグがついているから、ああ、新しいんだな、と分かる程度だ。
「はい」
 ネクタイを持って戻ると、父は顔をほころばせた。
「おお。ありがとう。夕実はもう学校行くのか?」
「ううん。まだ。あと一時間ぐらいしたら行く」
「なんだ、早起きなんだな。前は遅刻ギリギリまで寝てたのに。今日は会えないもんだと思っていたよ」
 夕実もちょっと大人になったのかなぁ、と笑った。いつもはもうちょっと起きてくるの遅いよ、ともそもそと口の中で言う。私が久しぶりに家に帰ってきたとしても、娘の顔を見ずに再び出かけることを、父はなんとも思わないのだろうか。
 テレビをつけた。芸能ニュースをやっている時間だった。父はそれをチラリと見、もうこんな時間か、と準備する手を早めた。
 今日放送されるドラマの宣伝をしていた。クラスメイトがおもしろいと騒いでいたことを思い出した。
 それが終わると、昨日発表になったらしい芸能人の結婚についてコメンテイターが喋り出す。
『知り合ったきっかけは、二年前に共演したドラマで……』
『おめでたではないようですね……』
 ぼんやりとそれを眺めて、なんとなくのどかだなぁ、と思った。別に自分に関係もない人なのに、結婚したと聞いてへぇ、と思う。それだけのことが、妙に平和なことのように感じられた。
「夕実、学校はどうだ?」
「楽しいよ。勉強は難しいけど……。あ、部活も入ったの。また美術部」
「そうか。絵描くの、楽しいか?」
「うん。油絵始めたの。水彩画もいいけど、楽しいよ」
「できあがったら、見せてくれよ」
 父の言葉にはテレビのほうを向いたまま頷いた。
 ふいに学校に行くのが嫌になった。朝日の当る部屋でぼんやりとテレビを観ながら、父と話す。こんなことは久しぶりだった。
 そうそう。夕実。
 振り向くと、バッグの中から、小さな包みを取り出した。
「おみやげだ。忘れたまま、持って行くところだったよ」
 中身はキティのストラップだった。
「あ……ありがとう」
 受け取り、ぎゅっと握りしめる。
「あなた、そろそろ出ないと新幹線の時間に遅れるわよ」
 母の言葉に、バッグを閉め、立ち上がった。
 玄関に慌てたように向う父のあとについていく。
 いつ起きたのか、玄関には祖母もぼんやりと立っていた。起きたばかりなのだろう。柔らかそうな髪には、少しばかりの寝癖がついていた。それでも、腕にはしっかり人形を抱いている。
「母さん、起きていたのか」
「今度はいつ帰ってくるの?」
「さぁ……。分からないけど、もうちょっと頻繁に帰ってくるようにするよ」
「ちゃんとごはん食べるのよ」
「はいはい」
 いつもの心配性の祖母の言葉に、苦笑しながら父が答える。
「じゃあ……」
「ユミちゃん、いってらっしゃいは?」
『いってらっしゃい、パパ』
「あらパパだって」
 ホッホッホッと楽しそうに祖母は笑った。気に入ってもらえてよかったよ、と父は靴べらをしまいながら言った。隣に立つ母を見た。ニコニコと笑っているだけだった。
 ガラガラとキャリーバッグを引っ張り、父が出て行く。それを、三人で手を振って見送った。
「あら、夕実ちゃん。お父さんにお土産もらったの?」
 父の姿が見えなくなると、私の手にある包みに気付いた祖母が言った。
「うん……」
「また、キティちゃん? よかったわねぇ」
 父は、帰ってくるたびに、キティのストラップを買ってくる。名古屋限定のキティ。もう四つもある。初めて帰ってきたときに、私が喜んだからか。きっと、毎回違うものを買ってきていると本人は思っているに違いない。私の携帯には、同じキティが何匹もついている。どう見ても滑稽だった。汚れてきたものはそろそろ外そうか、と考えた。
 不意に、父に「いってらっしゃい」を言い損ねたことに気付いた。

 バイトをしようと思った。登校中に飲み物を買おうと寄ったコンビニに、ちょうどフリーペーパーの求人誌が置いてあった。ついでに履歴書も買った。飴が食べたかったけど、いつも食べている梅の喉飴が売り切れていたから、やめた。龍角散は食べられない。昔、祖母があれは薬と一緒だから食べ過ぎたらダメなんだよ、と言っていたかもしれない。鼻につく妙な匂いも好きになれなかった。
 一日中、求人誌を眺めていた。教室の窓際の席は、陽があたり、ポカポカと暖かい。青空が広がっているが、うっすらと白を帯びたような水色をしている。高校生を募集しているところはそう多くなかった。ファミリーレストラン、コンビニ、本屋、ファーストフード。
昼休みに五軒電話をして、二軒はもう決まったからと断られた。ダメもとで掛けた画材屋が意外にも面接に来いと言われた。
 帰りに証明写真を撮った。制服のネクタイを久しぶりにきちんと締めた。首のところが苦しく、ネクタイは嫌いだった。中学のときはリボンだったが、リボンも好きではない。うまく結べないからだ。
 次の日は、一日かけて四枚の履歴書を書いた。履歴なんてあっという間に書き終わる。たった四行だけだ。小学校、中学校、高校入学。長所、短所、特技、趣味etc。大した抗力を発するわけでもないのに、紙切れは嫌なことばかり聞く。最初の履歴書は書き損じた。

長所、なし。
短所、長所が無い。
特技、なし。
趣味、絵を描くこと。
得意な教科、美術のみ。

 試しにそう書いた。
 履歴書がすっきりしすぎるのは、私の字が小さいからだけではないことは分かっている。どうせ嘘を書くなら、こんなもの必要はないのに、と思った。それでも、私は二枚目の履歴書は丁寧にぎっしりと埋めていった。
 残った空欄は、保護者の印だけだった。
 家に帰ってから、母に差し出すと、黙って判子を押してくれた。ありがとう、とだけ言う。そんな私をちらりと見ると、どうしてバイトしようなんて思ったの、とボソリと言った。答えを求めている風ではなかったので、そのまま自分の部屋に戻った。
 深い理由なんてない。絵の具がよく減る。絵の具を溶くオイルだって安くない。キャンバスも買わなければならないし、パレットナイフだって毎日使えば磨り減っていく。毎月もらっているおこづかいじゃ足りないから。
 それから、二日続けて面接に行った。一つ目のファミリーレストランは緊張してダメだった。でも、どこに行っても聞かれることは同じなのだと思うと、あとは楽なものだった。無駄に笑顔を振り撒いて、明るく返事をする。それだけで、相手の反応はよくなる。店長が父と同年代ぐらいだと、「うちの父は厳しくて……」と言ったりもする。そんなことが好印象を得られたりもした。そう一言、言うだけで父の言うことをよく聞く『良い子』だと思われるようだった。
 結局、四件中、三件受かった。落ちたのは初日のファミリーレストランだけだった。迷わず、駅ビルの中に店舗がある画材屋に決め、他の店には丁寧に電話を入れた。二軒とも、私が断ったことを残念がってくれた。そんなことが少しだけ、私に優越感を与えてくれた。選べる権利があると言うことで、妙な充足感が広がる。
 週に二回、土日だけ、働く事にした。時給九五〇円。交通費も出た。学校へ行く途中の駅なので、少しだけ定期代も浮き、店の品物を買うにも割引がつく。申し分なかった。
「バイト、決まったよ」
 初めて働きに行く前の日、夕食の場で報告した。
「あら、いつの間に…」
 祖母が驚いたように目を丸くする。
「大丈夫なの? バイトなんかして……。危ないところじゃない?」
「全然。画材屋さんだよ」
「画材? 絵の具とか売ってるとこ?」
「そう」
 考え込むように首を傾げた。
「なに?」
「どうして画材屋さんなの…?」
「ダメ?」
「ううん…ダメなことはないけど…。どうしてなんでしょ、って思ったの」
「お義母さん…」
 祖母の質問に呆気に取られる私の代わりに、母が口を開いた。
「お義母さん、夕実は美術部ですし…。ちょうどいいんじゃないですか」
 あぁ、と納得したような声はあげるが、思い出したようには見えなかった。知らなかったのか、忘れていたのか。ムッとしたのは事実だった。今に始まったことじゃない。私に興味がないのは。言い聞かせる。
「明日から、行ってくる」
「そう。がんばってね。ユミちゃんも応援してるよねぇ」
『うん。がんばってね』
 祖母の膝に置かれた『ユミちゃん』が相変わらず表情を変えずに言った。人形を肌身離さず持ち歩いている。当然のように、食卓も一緒だった。ユミちゃん、ユミちゃん。そう祖母が言う度に、反応してしまう。時には、「なに?」と聞き返してしまうことさえある。しかし、その大半は私への呼びかけではないのだ。
「ユミちゃんには分からない話が多くて困るねぇ。早くごはん食べて、お部屋でテレビ観ましょうねぇ」
 私の生活がもっともっと忙しくなればいい。何も考えられなくなるほどに、忙しくなればいい。そうすれば、衝動さえも忘れられる。

*****

 りんごかわいや、かわいやりんご。
 何の歌だったか。きっと昔の歌だ。祖母の部屋から聞こえてくる、呟くような歌声。
 おばあちゃんのお歌は下手ですねぇ。ふふっ。ユミちゃんのほうがずっと上手。
 迷子の迷子の子猫ちゃん、あなたのおうちはどこですか。
 人形の声。合わせるようにして聞こえる手拍子。ときどき外れる音。
 パチパチパチ。上手に歌えました。
 楽しそうだった。
 平日は学校、放課後は閉門ギリギリまで美術室で筆を握り、土日は朝から夕方までバイト。夜は勉強。母や祖母と話をすることはますます減った。夕食も一緒に摂ることはほとんどない。人形の姿も見ない。
 ただ、時折、祖母の部屋から楽しそうな声が聞こえてくる。この前、怒ったらユミちゃんがベソをかいたと話していた。あの表情のまま、そんな声を出すだけだ。
 赤い靴履いてた女の子。異人さんに連れられて行っちゃった。
 口ずさんでみる。私に歌ってくれたのは、母だったか、祖母だったか。暖かい背中は父のものだったのか。
 祖母に気付かれないように、そっとドアを離れ、二階へと上がる。
 今日は駅ビル自体が定休日で、珍しくバイトのない日曜日だった。
 朝から、掃除をして、筆の手入れをした。それだけで午前中は終わった。昼食は母と二人でインスタントラーメンで済ませた。祖母は、おなかが減らない、と言って部屋にこもったままだ。
 窓を開けて、外を眺める。
 小さな庭が見え、すぐ側には隣の家の洗濯物が見えた。
 情緒も何もない。
 空は曇り空。生暖かい風が、レースのカーテンを揺らす。雨の匂いがかすかにする。雨の匂い。土が湿った匂い。きっともうすぐ雨が降る。すぐに雨ばかり続く日が来る。
 傘をさして、どこかへ出かけようか。梅雨に備えて、新しい大きな傘と折りたたみ傘を買った。雨が降り出したら、出かけよう。
 久しぶりに過ごす家での休日は、ひどく違和感があった。家の中は静かで、外の音ばかり聞こえる。どこか遠くで工事している音。声をあげなら走る小学生の足音。布団をたたく音。風で一斉にざわめく木々の葉。ごろんと転がり、畳の上で大の字になってみる。木目模様の天井。じっと見つめているとだんだんと視点がずれていくような錯覚を覚えた。目を閉じても外の光で暗闇は訪れない。むしろ白い光で眩しいような気がして目の上を手のひらで覆った。暗闇。少し落ち着いた。外の音に耳を澄ます。時折、体の上を撫でていく風が気持ち良かった。
 そのままぼんやりとしていると、少しの振動と共に階段を上る足音が聞こえた。ゆっくり目を開き、体を起こす。眩しかった。
ドアをノックされたあと、少しの間があって開かれた。祖母だった。人形を抱え、ひどく悲しそうな顔をしていた。今にも泣き出しそうに歪めている。
「なに?」
「夕実ちゃん、どうにかして」
 声も震えていた。よく見ると、人形を抱える腕も少し震えている。
「ユミちゃんが、喋らなくなったの……。どうして?」
 そう言って、ユミちゃん、ユミちゃんと呼びかける。確かに、人形の反応はない。
「電池切れじゃないの?」
「えっ」
 電源を入れたままで、あれだけ喋らせていれば、そう長持ちする代物でもないはずだ。至極簡単なことである。しかし、祖母は私の言葉に余計に顔を曇らせた。
「もう喋らないの? 歌、歌わないの?」
「いや、電池変えれば動くはずだよ」
「なおせる? なおしてくれる?」
 直すも何も、電池を入れ替えるだけだ。それなのに、懇願するように私を見つめている。
「うん……。別にいいけど。それぐらい」
 私の言葉にホッとしたように笑い、それじゃあお願いね、と言った。人形の頭を一度撫で、私の胸に預ける。
名残惜しそうに部屋を出て行く。
 祖母がいなくなったのを確認してから、改めて人形を見る。手に持って、ちゃんと見るのは初めてだった。いつも大事に人形を抱えている祖母。そんな祖母のほうこそ、小さな子供のように見える。言葉を聞いて、喜ぶようなことを話すこの人形は狡猾なクソガキだ。
 ユミちゃんから服を脱がせる。電池は、背中部分に単四乾電池が四個だった。確か、目覚し時計用にまとめ買いしたものがあったな、と机の引出しを片っ端から探る。ただの電池切れじゃなく、壊れていればいいのに、と思った。一体、祖母はどんなことを人形に話し掛けているのか。
 電池は、一番開けることのない引出しの奥にあった。ちょうど四個。思わず舌打ちをする。人形の洋服を脱がせ、電池を入れ替える。スイッチを入れる。
『だっこー。だっこしてー』
 甘えた声を出す。慌ててスイッチを切った。服を着せる。家で初めて見た時の服とは違う。見覚えのある布だ。きっと祖母が縫ったものだろう。縫い目は既製品のものと明らかに違っていた。器用な人だ。これぐらいを作るのはなんでもないだろう。
 座らせてみた。こうしていると、どこにでもいる、ただの普通の人形だ。ふと興味が湧き、スイッチをいれてみる。抱き上げる。
『わぁい。だっこだっこ』
 嬉しそうな声を出した。忌々しい気持ちを抑えながら、人形に話し掛ける。
「ねぇ、ユミちゃん。おねえちゃんにちょっと教えてくれる?」
『ユミちゃんねぇ、今何時か分かるよ。午後の、二時十四分だよ』
「おばあちゃんは、あんたにどんな話してんの?」
『おばあちゃんはねぇ、いろんなお話してくれるよ』
「いろんな、って何?」
『いろんな話だよ』
「質問に答えなさいよ、バカ人形」
 イラッとし、きつい声を出すと、しばらくの間のあと、ぐずりだした。
『ふぇっ。ふぇっ。ふぇぇん』
 スイッチを切る。プツッ、と音ともに、泣き声も止む。所詮人形。知っている。なのに、この腹立たしさはなんなんだろう。つるんとした顔。血の通っていないことを証明する肌の冷たさ。こんな偽者のどこがいいと言うのだろう。
 再びスイッチを入れ、人形を持って立ち上がる。だっこだっこ、と声をあげる。バカ人形、と小さな声で罵る。泣かれたら、今度は私が祖母に怒られる。そう思うとまた忌々しさが込み上げる。-部屋を飛び出し階段を駆け下り、足早に祖母の部屋まで行った。テレビの音。ノック。はぁい、と言う祖母の声。祖母の部屋に入るのは久しぶりだった。再放送の、二時間ドラマを見ていた。座椅子に座り、膝には毛糸と編み針。ベッドには色とりどりの毛糸。布。
 よく、兄と私に揃いセーターを編んでくれた。こんな女の子っぽい色は嫌だと、珍しく兄がごねたのを覚えている。私は、お揃いが嬉しくて、お気に入りのひとつだったような気がする。大きくなって、つんつるてんになっても、無理矢理着ていた。あのセーターはどこへ行ってしまったのだろう。
「治った?」
 人形を差し出すと、嬉しそうに、本当に嬉しそうに、そっと受けとる。髪を愛しそうに撫でる。そして、きゅっと抱きしめた。
『苦しいよー。苦しいー』
 きゃははっと笑い声を上げながら、人形が言う。祖母が頬擦りをする。また、笑い声。
「ありがとう、夕実ちゃん」
 一瞬、自分にお礼を言っていることに気が付かなかった。消えていってしまうような、そんな気分になった。
「ううん。大したことしてないし」
 そう、電池を入れ替えただけだ。
「どこが悪かったのかしら?」
「……風邪じゃない? 季節の変わり目だから」
 もう返事は聞かなかった。そう、風邪ねぇ。間の抜けた声がした。
 ドアを閉めた。カチャン、と、ノブを回す音が重く聞こえた。

*****

 学校から帰ると、母の姿がなかった。どうしたのかと思いながら今でぼんやりしていると、母は乾電池を買って帰ってきた。人形に使うものと同じ、単四電池。
「大変だったのよ。夕実が学校行ってる間に電池、切れちゃって。なんであんなに高性能なのに充電機能ついてないのかしら」
「ボロボロ、ボロボロ。涙流して泣くの。ユミちゃんが動かない、動かない。死んじゃったの? って」
「治せないから病院に連れてくって大騒ぎして。病院には私が連れて行きますから、って慌てて電池買いに行って。それで落ち着いたんだけど…」
「これから、週に1回、うまく言ってユミちゃんの電池入れ替えてあげてくれない?」
 ぐったりとキッチンのテーブルに座りながら母がまくしたてるようにして言った。
「おばあちゃんは?」
「泣き疲れたのかしら。眠ってる」
「そう…」
 鞄を下ろして、コップに水を入れた。生ぬるくて、鉄臭い味がした。飲む? と母に向って言うと、力なく首を振った。キッチンの空いた窓から見える空は真っ暗だった。夜の空。雲に覆われて、重い黒だった。
「どこ行くの?」
 キッチンを出ようとした私に、引き止めるように母が言った。疲れているのとは、少し違うような気がした。脱力している。何もしたくない、と言うかのように。
「おばあちゃんの部屋」
 何も答えなかった。いいとも、悪いとも言わなかった。黙って私から目をそらしただけだ。
 足を忍ばせて、部屋まで行き、そっとドアを開けた。カーテンは閉められ、枕元に置かれた照明が小さな光を灯していた。私が近づいたのにも気付かず、眠っている。横向きになり、しっかりと人形を抱きしめて。目の周りに、涙の跡が見られた。皺だらけの手が、余計に心細そうに見えた。こんなに細い指をしていただろうかと思った。ほとんど白いもの変わっている細い髪の毛。透けて、地肌が見える。頬も前よりこけているようだ。この前、一緒に摂った食事はいつだっただろうか。私の帰りが遅いことだけが理由じゃない。たまに家にいるときでさえ、母と二人の食卓ばかりだ。少しだけ乱れた布団を直した。起きる様子はない。心地良い寝息を立てているだけだ。

*****

 母の言う通りに、五日後、部活にも出ず、早く帰宅した。
 病院に連れて行くと言って、人形をバッグに入れて出かけた。
 祖母は自分も一緒に行くとだだをこねたが、雨も降りそうだし、ひとりでも十分だと言って諦めてもらった。
 家から歩いて十五分の公園まで行った。ブランコと、すべり台と、鉄棒。広場では、子供たちがランドセルを背負ったままボールを蹴っている。
 ブランコの横にあるベンチに座り、人形を取り出した。また、違う服を着ている。水色のワンピースに、細い糸で編まれた紺のカーディガン。カーディガンには小さなボタンまでついている。
 スイッチを入れた。
「何か歌って」
 小さな声で言うと、少しの間があってチューリップを歌い出す。
 いつもよりゆっくりだ。やはり、電池が切れかけているのだろう。
 スイッチを切り、服を脱がせ、電池を入れ替え、動作確認。終えるとまたバッグにしまう。
 時間を潰すのも面倒だな、と思った。このまま帰るとあまりにも早すぎる。もう少し遠くの公園まで行けばよかった。
 梅雨特有のジメジメとした空気が肌にまとわりつく。温度も高くなったせいか、ひどく粘着質に感じられた。
 すぐに夏が来る。今年は空梅雨だった。高気圧に飲み込まれて、梅雨前線が消えてしまったとかなんとか、天気予報で言っていた。このまま、暑い夏が来る。目の前のフェンス沿いには、梅雨を惜しむかのように、紫陽花が満開だった。青、赤紫。色のつかないまま、枯れていきそうなものもある。どうして、紫陽花は、悲しい色をしているのだろう、と思った。雨に濡れ、しっとりと淡い色を放つ。日に照らされると、ほかのどの季節の花よりも切なげで、悲しくさせる。自分がいるのはこんな明るい場所ではない、と。
 遠くで、十七時を知らせるチャイムが流れている。夕焼け小焼けで日が暮れて。スピーカーから流れる音楽は、少し音が割れていて、聞き苦しかった。
「じゃあね!」
「また明日なぁ」
「バイバーイ!」
 子供たちが口々に別れを告げて、目の前をバタバタと走っていく。
 公園を出て右へ、左へ。また明日、遊ぶのを約束して。
 ブランコから降り、私も公園を出る。住宅街の真ん中にあるこの公園は、道路も遠く離れていて、生活の音が響くだけだ。ドアの閉まる音。水の音。笑い声。怒鳴り声。夕餉のいい香りがする。カレー。焼き魚。醤油が効いた煮物。トマトを煮たような匂い。
 無性に寂しくなって、歩みを速める。きっともうすぐ、雨が降るから。早く家に帰りたいんじゃない。雨に濡れたくないから。
 湿った風が頬を撫でる。じわじわと肌から汗が滲み出す。家まで、あっという間だった。
 重いドアを開けると、玄関に祖母が座っていた。慌てて、人形を取り出す。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
「お医者さん、なんだって?」
 よっこらせ、と立ち上がろうとする。足腰が弱っているせいか、たったそれだけの動作が難儀そうだった。手を差し出すと、すがりつくようにして腕を握った。柔らかい手。
「小さいから、季節の変わり目は体調を壊しやすいって…。しばらくは毎週通ってください、って」
「そう……。夕実ちゃんが行ってくれるの?」
「うん。週に一回ぐらいだったら、早く帰ってきて行くよ」
 嬉しそうに頷くと、人形を抱きかかえて、部屋へ戻っていく。りんごかわいや、かわいやりんご。そう口ずさみながら。まだ、曲のタイトルを思い出せない。
「おかえり」
 いつの間にか、母が側に立っていた。夕食の支度をしていたのか、エプロンが少し濡れている。
「ただいま」
 急に汗が噴出す。歩いているときはそうでもないのに、立ち止った途端に暑さを感じる。湿気を含んだ空気が、余計にそれを助長させるのかもしれない。
「なに?」
 立ったまま動かない母を見上げて言った。その声に、ハッとしたような顔をする。
「別に、何も……。カルピスでも飲む?」
 うん、と頷き、靴を脱ぐ。解放された足が、呼吸をし始めるような気がした。
「ねぇ。お母さん」
「なに?」
「おばあちゃん、どうしちゃったの?」
 今更な質問を、今ごろする。どこか間が抜けているような気がした。
「おばあちゃんが、なに?」
 冷蔵庫を覗き込みながら母が言う。取り出したカルピスの原液が入ったパックを振り、もうあんまり残っていないかしら、と呟いた。
「おばあちゃんは、私たちのこと、からかってるのかな。あんなに人形に話し掛けて、大切にして、本当の孫みたいに。人形だって分かって言ってるのかな」
「そう思うの?」
 ポトポトとグラスに水を入れる音が響く。静かだ。
「だって、おかしいじゃない。あんな風に人形を心配してさ。おかしいでしょ? ね?」
「ボケちゃったのかもねぇ」
「冗談が聞きたいわけじゃないよ」
「冗談? そう思う? ボケると、幻覚とか見えるらしいわよ。あと、物忘れもひどくなるんですって。昔のことは覚えてるのに、現在のことは忘れちゃうって。そのうち、私たちも忘れちゃうかもね」
「別に人形は幻覚じゃないし。今のこと忘れちゃうって……」
「分かんないわよ。あの人形のことを『孫の夕実ちゃん』って思うかもしれないし。そしたら、本当の夕実はどこに行っちゃうのかしら」
 そう言って、ニッコリと笑う。
 スッと背中が冷たくなるのを感じた。
 父が懐かしかった。兄に会いたかった。一人ぼっちのような気がした。
私だって祖母と変わりない。

 寂しかった。

*****

 私は、目を逸らしていただけなのかもしれない。よく見れば、祖母の奇怪な行動にはすぐ気がつくはずなのだ。この前は、ふいにいなくなったと思ったら、近所のおばさんに連れられて帰ってきた。
「すぐ近くまで来てるのに、迷子になっちゃったなんて言うんですよ」
 テレビドラマで観た『認知症のおばあちゃん』と一緒だ。
 眼鏡がどこに置いたか分からない、と言い出したこともあった。いつものところにしまってあるんじゃないですか、という母の言葉に猛烈に反発したらしい。挙句の果てに、母が盗ったと大騒ぎした。
「あなたはいつもそうよ。私のことが憎らしくて妬ましいんだわ」
 結局、眼鏡は、いつもの場所……、貴重品を入れている引出しにあった。
 変わってしまった、と思った。でも、どのように変わってしまったのか分からなかった。祖母がどんな人であったか、思い出せなかったのだ。
 兄にメールした。
『お兄ちゃんが帰ってきたら、変わるかもしれない』
『7月の前期試験が終わったら帰るよ』
 7月なんて、遥か遠いことのように思えた。
 母がぼやいた。
「介護する、なんてことになったら嫌ねぇ……」
 老人ホームとか探しておこうかしら。二人だけになったら、もっと静かになっちゃうわね。
 本気とも冗談ともつかない言葉が、空を切る。
 そんなことを知らない祖母は今日も『ユミちゃん』に話し掛ける。歌を歌う。
『あかいりんごにくちびるよせて だまってみているあおいそら』
何度も同じ歌を歌う。そのうち、人形が覚えて歌い出すのではないかと私は怯えた。
 前より、たどたどしい歌声のように思える。
「ユミちゃんはこのおうた、大好きねぇ。おばあちゃんがこのおうた、歌ったら、すぐ泣きやむんだものね」
 なんて楽しそうに喋るんだろう。
 私と話したのはいつのことだっただろう。私の話をにこやかに頷きながら聞いてくれたのはいつのことだっただろう。祖母の目にちゃんと私が映っていたのはいつのことだっただろう。私が、母以外の人と喋ったのはいつのことだっただろう。笑ったのは、いつだっただろう。
 決められた日常を過ごす。何の代わり映えもしない毎日。何をどう変えればいいのかも思いつかなかった。教室でクラスメイトが笑う。バイト先で先輩が笑顔を振り撒く。私も口の端を上げてみる。
 帰り道。無言で歩く。晴れていても、雨が降っていても。きっと槍が降っても、黙って歩く。話し掛けるべき相手がいないのだから。私はいつだってひとりなのだ。
 日常ってなんだろう。ひとりぼっちの教室。人形に話し掛ける祖母。誰とも話すことのない仕事場。それが私の日常。その日常が変化するとはどんなことなのだろう。日常を変えたくて、バイトを始めた。絵に打ち込んだ。家族から離れようとした。でも、何も変わらなかった。少しずつ、日常から色を奪っていっただけだった。
 ぼんやりと駅のホームで電車を待つ。そろそろユミちゃんの電池を変えなければならない。キャンバスに向うのを我慢して、制服姿の学生の群れに紛れる。ちょうど下校時刻。声が頭に響く。暑い。学生ばかりの中にちらほらと見えるスーツ姿の人たち。険しい顔をしながら話す人。作り笑いを浮かべる人。扇子で風を送る人。日常。これがきっと日常の風景。
『2番線を快速列車が通過いたします。黄色い線までお下がりください』
 駅員の声。遠くから聞こえる電車の音。日常の音。
 電車がホームに進入してきた。騒音。電車の大きな音が苦手だった。目の前を走り抜ける、電車を見るのも苦手だった。吸い込まれそうになる。私がもし、今日、突然いなくなったら、家族は悲しんでくれるだろうか。
「おかあさん」
 小さく呟いてみる。頭に、自分の声が響いた。
「おばあちゃん」
 声は、響く。
「おとうさん」
「おにいちゃん」
 自分の声が耳に届く。声は、耳に届く。
 でも、誰にも届いていない。開いた電車のドア。息苦しさを感じながら、車内に乗り込んだ。

*****

 家のドアを開けると、テレビの音がした。夕餉の匂い。麻婆豆腐だ。祖母が好きな料理。ニラの匂いもするような気がした。ニラレバが食べたいと思った。思った途端に、少しだけ吐き気を催した。
「ただいま」
 祖母の部屋の扉を開けて、いつもより大きな声で帰りを告げた。驚いたのか、こちらを振り向いて目を見開いた。もう夏だというのに、祖母の膝の上には毛糸が乗っていた。小さな靴下。
「遅くなってごめんね」
「外、暑かったの?」
「うん。とっても」
 祖母の横で、人形が暑いの嫌いぃと声をあげた。そうね、ユミちゃん、暑いの嫌いね。頭を撫でながら、祖母が答える。
「おばあちゃん。今日、病院の日だから、ユミちゃん、連れて行くね」
「あら。そうだったかしら」
「じゃあ、連れていくからね」
「気をつけてね」
 人形を抱き上げ、立ち上がろうとしている祖母を放って部屋を出た。今日はユミちゃんが妙に軽いなぁ、と思った。本当の四歳や五歳の子どもはどれぐらいの重さがあるのだろう。片手ではきっと持ち上げられないに違いない。とりあえず、鞄だけ持って、家を出た。ドアを閉める間際に、いってらっしゃい、と言う祖母の声が聞こえた。
 いつもの公園に向かう。どうして、今日はこんなにも静かなのだろう。時々、女性の叫び声が蘇るだけだ。近所の人と何度かすれ違った。こんにちは、夕実ちゃん。
 電源の入ったままの人形が私の代わりに答える。こんにちは! 
 いつの間にか走っていた。薄暗い公園。人の姿はない。
 ブランコに座り、呼吸を整えた。胸が苦しい。息が詰まってしまうような気がした。ハッ、ハッ、と短い呼吸を繰り返す。
 肩に掛けたままの鞄を下ろした。汚れる、と思った。でも、どうせ私以外の人間は誰も気にしない。私も汚れ程度、気にしない。
「服、脱ごうか」
『お風呂入るのー?』
「あんた、お風呂も入んの? 水に浸かったら、壊れるんじゃない?」
『何のお遊びするの?」
 ユミちゃんの言葉を無視して服を脱がす作業に集中する。
 改めて、祖母の器用さに溜め息が出る。プリーツスカートに、ブラウス。きっと見えにくい目を細めて、一針一針縫ったのだろう。不器用な私には、ボタンを外すのさえ、面倒だった。
 服を脱がせて、出てきたのは、柔らかみのない、ツルンとした肌だった。
「服、脱いじゃったね」
『お洋服、脱いだら、寒いよ』
「寒くないよ。今は夏だから。暑いの。分かんないだろうけど」
『何して遊ぶの?』
「こうするの」
 人形の左腕に手をかけた。人間では曲らないであろう方向へ向って力を入れた。あっさりと、腕はもげた。
『何して遊ぶの?』
 右腕に手をかけた。
 小さい頃、マフラーと帽子を編んでくれた。ぼんぼんのついた、茶色のマフラーと帽子。嬉しくて、これを着て早くでかけたいと祖母にねだった。じゃあお散歩に行きましょうか、と言って、手をつないで二人でこの公園まできた。すべり台が好きだった。何度も何度も昇っては滑るをくり返す私を、ベンチに座って祖母が眺めていた。
『何して遊ぶの?』
 左足に手をかけた。
 小学校に入学したばかりの頃だった。隣の席の男の子に、筆箱を壊された。父が買ってくれた、お気に入りのものだった。悲しくて悲しくて、でも泣き顔を見られたくなくて、私はトイレの個室に閉じこもった。個室の端っこに蹲り、泣き続けた。しばらくして、ノックと共に出ておいで、という声がかけられた。泣き虫だった私に担任は手を焼いた。何も言わずに泣く私を迎えに来てくれるのはいつも祖母だった。
『何して遊ぶの?』
 左足に手をかけた。
 私が美術部で描いた絵を誉めてくれたのは、いつも祖母だった。なぜか冷たい母と、帰りが遅い父の代わりに学校の話を聞いてくれたのは祖母だった。なのに、それを忘れて、父がいるときは父に甘え、兄のあとばかりをついて回った。私はどこからおかしかったのだろう。いつから祖母を拒否していたのだろう。
『何して遊ぶの?』
 頭に手をかけた。人形は、まだ声を発する。
「赤いりんごに唇寄せて」
 ひゅうっと風が鳴った。
「だまぁって見ている青い空」
 暗かった手元が照らされた。公園の灯りが点いたのだ。
「りんごはなんにも言わないけれど」
 ころり、と、人形の頭が転がった。足元に散らばる、手足。
「りんごの気持ちはよく分かる」
 背中から、電池を取り出した。人形は黙った。バラバラと、電池が手元から落ちていく。
「りんごかわいや かわいやりんご」
 祖母はこんなふうにも歌った。
「ゆみちゃんはなんにも言わないけれど ゆみちゃんの気持ちはよく分かる」
 私を膝に乗せ、泣き止ませようと頭を撫でながら。
 『りんごの唄』。思い出した。祖母と一緒に歌った歌。
 電車にひかれたら、いまのユミちゃんのように、私もバラバラになったんだろうか。いや、私はバラバラにもなれない。ぐちゃぐちゃだ。

*****

 呼び出されたのは、二時間目が始まってからすぐだった。手招きされるまま、廊下に出ると、声を潜めて担任が言った。
「おばあさまが倒れられたそうだから、すぐに病院に行きなさい」
 思っていたとおりだった。夜遅くに帰り、待ち疲れて眠っている祖母の横に、バラバラになった人形を寝かせた。登校してから、ずっと手の先が冷たかった。取り返しのつかないことをしてしまった自覚はあった。
 祖母が運ばれたのは、家の近くの大学病院だったので、すぐに分かった。五階まであがって、病室は五〇六号室。辺りを見回したらすぐにどこかわかった。病室の前には、ぼんやりと座っている兄の姿があった。
「お兄ちゃん……。なんで?」
「昨日のメール、様子がおかしかったから。休講やらなんやらで連休だし。さっき帰ってきたとこ」
「お母さんは?」
「着替え取りに戻ってる」
「おばあちゃんは? 大丈夫なの?」
「貧血だって。でも、ちょっと栄養失調が目立つし、一応検査のために入院させろってさ」
 大きく、溜め息をつきながら言った。
「珍しく、母さんもパニクっててさ。救急車呼んじゃったわけ。そりゃそうだよな。ばあちゃんが倒れてて、その横には泥だらけのバラバラになった人形。オレでも取り乱すよ」
 座れ、というように、ポンポンッと自分の座っているソファを叩いた。ストン、と腰を下ろす。足から力が抜けるような気がした。緊張した筋肉が和らいで行くのが分かる。
「栄養失調って?」
「あぁ。さっき、母さんから聞いたんだけど、なんか自分の食事に毒が入ってるから、とか言って食べなかったんだって。夕実、知らなかったの?」
「ほとんど、一緒にごはん食べてなかったから」
 そっか。また大きな溜め息をついてソファにもたれた。沈黙。病院は嫌いだ。消毒液の匂い。妙に白く見える院内。来る人来る人、みんなひどく不健康そうだ。見舞いに来ている家族でさえも。
「あんまり、驚いてないね。お兄ちゃん」
「ん? そうか?」
 高校からやっているサッカーのサークルに入ったと言う兄は、日によく焼けてたくましく見えた。有名な国立の大学に入って、なんでもできる、自慢の兄。会いたくて仕方がなかった兄なのに、今はひどく遠く感じられた。
「大学って楽しい?」
「あぁ。やりたい勉強ができるしな。お前は? 高校楽しい?」
「……ううん」
「だよな。高校楽しけりゃ、毎日俺に延々とメールしてきたりしないよな」
 遠くで、医師を呼び出すアナウンスが聞こえる。ヒソヒソと話す声。耳障りだ。
 隣にいるお兄ちゃんの手を、ぎゅっと握った。振り払うどころか、お兄ちゃんはその手を握り返してくれた。
「どうした?」
「……誰も、夕実のこと見てくれないの」
「ん?」
「誰も夕実の話なんて聞いてくんない。学校でも、バイト先でも、家でも」
「うん」
「みんな夕実のことは気付いてくんない。忘れていっちゃうの」
「……だから、人形壊したの?」
 何の抵抗もなく壊されていった人形。血も出ない人形。からっぽの人形。でも、その人形の変わり果てた姿を見た祖母はきっと涙しただろう。
「おばあちゃんも、夕実のことはもう忘れちゃった。あの壊れた人形が夕実なんだよ」
「ばあちゃんが、夕実のことを拒否したのか?」
 兄は何でも知っている。私が嫉妬していることも、何もかも。どんなに人形は愛しても、決して愛してくれはしないのだ。まっすぐ愛してくれれば、私はおばあちゃんを、家族を愛することができるのに。そう思っていた。でも、誰も真っ直ぐ愛してくれなかった。
「ねぇ。夕実はおかしい? 頭おかしい?」
「そんなことねぇよ」
「嘘。気味悪いって思ってるんでしょ? あんな風に人形を壊したりして」
「思ってない」
「みんな言うよ。クラスのみんな。荒川さんって、黙ってて何考えてるか分かんない。気持ち悪いって。ねぇ。そうなの? ねぇ」
 腕を掴み、揺さぶるようにして言った。目を逸らしていた兄が、じっと私を見つめた。
「りんご」
「え?」
「なんでお前のりんごの絵、あんな色なの。なんで、あんな今にも腐って崩れ落ちそうな」
 部屋に置いてあった私の絵。お兄ちゃんはいつの間に見たんだろう。
「夕実は、ちゃんと、赤いりんご描いてるよ……」
「おまえの赤はあんな赤なのか? ちゃんと、色は見えてるか? 全部くすんでるんじゃないのか」
 兄の顔が滲んだ。見えてる。色。青。赤。黄。ただ、抜けるような青空を忘れた。おいしそうなりんごの色も忘れた。
「夕実……」
 胸に体を預けると、お兄ちゃんは困ったような声を出した。頭を撫でる大きな手。こんなにゴツゴツした手をしていただろうか。嗚咽が漏れる。誰かに抱きしめて欲しかった。力いっぱい、私がここにいることを誰かに感じて欲しかった。でも、私がしてきたのは、伸ばされた手を拒否することだけだった。
「誰も、お前のこと責めたりしないさ」
 ポンポン、と背中を軽く叩く。息がうまくできなくて苦しい。暖かい肌がまた悲しくて、涙が溢れる。
「父さん……」
 ポツリと兄が呟いた。兄を見上げ、視線を追うと、その先には父の姿があった。
「夕実。そんなに泣いて。おばあちゃんは大丈夫なんだろ?」
 頬を腕でこすった。鼻をすする。喉が痛くなった。うん、と頷く。
「大急ぎで帰ってきたんだけどな。思ったより時間がかかった」
 額には汗が浮いている。暑苦しそうにネクタイを緩めた。
「お父さん、それ……」
 手には人形を持っていた。前と、まるっきり同じもの。汚れもなく、壊れてもいない、新しい人形。
「それ、おばあちゃんにあげるの?」
「お母さんが電話で言ってきたんだよ。おばあちゃん、あの人形気に入ってたのに、壊れちゃったんだろ? 新しいのを買ってきたら喜ぶ、って」
「や……やだ!」
「夕実?」
 怪訝そうな顔をして私を見る。たまらない不安が込み上げてきた。兄が、後ろから私の体を抱き寄せた。
「なんでもないよ。ばあちゃんが倒れて、ちょっと動揺しちゃったんだよな、夕実」
 人形を見つめた。二人目のユミ。今は言葉を発することなく、父の腕の中で頭を垂れている。真新しい園児服を着た人形。また、しばらくすれば、祖母の作った服に腕を通すのだ。昔の私とお揃いの服を。
「夕実はおばあちゃんっ子だからなぁ」
 父がははっ、と笑い声を上げて言った。人形を睨みつけている私の頭を、くしゃくしゃっとすると、病室へ入っていった。ちらりとドアの隙間から、祖母がベッドの上で体を起こしているのが見えた。
 重たげに、ドアの閉まる音がした。それから、嬉しそうな、祖母の大きな声が聞こえた。

*****

 病室で、久しぶりに家族がそろった。それだけで祖母は嬉しそうだ。
「じゃあ、お義母さん。私たちは一度家に帰りますから」
 母が、菩薩のような笑みを浮かべて語りかける。
「早く治さないと、またユミちゃんが泣いちゃうわね」
 私のことじゃない。人形のユミちゃん。
 でも、祖母が言っているのは昔の私のことだろう、なんて勝手に考える。そうだったらいい。
 ずうっと昔、盲腸で入院した祖母の傍らで、泣きじゃくって離れなかったらしい。
おばあちゃんが治るまでおうちに帰らない、なんて言って。
 祖母が思い出しているのはその光景だ。
「今回は、治るまで一緒にいてくれるんだものね」
 微笑む祖母は、とてもかわいらしかった。こんな風に笑う人だっただろうか。思い出せる少し前の、父や兄がいなくなってすぐの祖母は寂しそうで、それでいて、どこかバリケードを張っているかのようだった。今はこんなにも無邪気に笑う。その笑顔が、さくさくと突き刺さるように目に飛び込んでくる。
「どうしたの?」
 気付くと、涙が溢れていた。心配そうに祖母が覗き込んでいる。
「お姉ちゃんが泣いてるよ。どうしたの? どこか痛い?」
 ふいに思い出すのは、昔の祖母ばかりだ。とめどなく勝手に溢れ出す涙をぬぐった。
「こっちへおいで」
 ニコニコと笑顔を浮かべたまま、祖母が手招きをした。こんなことは何度もあった。泣きじゃくる私に、両親はいつもなす術を知らず、おばあちゃんどうしましょう、と投げ出す。
 呼ばれるままにベッドの側に行き、しゃがみこんだ。
「泣いたらダメよ。もう大きいお姉ちゃんなんだから」
 私の右手を両手で挟んでさする。ちょっと前まですっぽりと祖母の手のひらに収まっていたのに、今では少しはみ出す。それがまた悲しくて、ボロボロと溢れた。
「あらあら。まだ赤ちゃんと変わらないのかしらねぇ」
 ふふっと笑って、頭を撫でられた。手を伸ばせば、一歩踏み出せば、私の欲する場所は近くにあったのだ。
 行こうか、と言う父の声に、私たちは病室を出た。誰も喋らなかった。心配そうに、兄が振り返る。いつの間にか、私の手を引いてくれていた。
 病院を出ると、外は晴天だった。
「眩しいな」
 兄が目を細めて、空を見上げた。
 同じように空を見た。
 繋いだ手がじっとりと汗をかき始めた。
 父と母が、何か話していた。車のエンジン音で、掻き消される。
 きっと、太陽の光は、夏がすぐそこまで来ているのを告げている。
 太陽の輝きも、空の蒼さも、暗く重く感じられた。夏の空は、こんなものだったのか。
 兄が私の手を握った。
「人はさ」
「ん?」
「寂しさを紛らわせるために、心に壁を作るんだ。寂しさで心がぺしゃんこにならないように」
「うん」
「みんな、そうなんだよ。どんな壁かは分かんないけど。夕実やばあちゃんはその壁が厚くて、高すぎただけなんだよ」
 知っていたのだ。祖母が寂しいなんてことは、最初から。外で居場所を失った私は、中で見つけるしかなかった。なのに、見渡す限り、どこにもいるべき場所はなかった。必死だった。だから、まだ低かった壁の影から送られる、祖母のSOSに気付こうともしなかったのだ。卑屈になって、『独り』と言う言葉に縛られて。
「何か食べて帰ろうか」
 父が言った。うん、と兄が頷く。母が暑そうに額の汗を拭った。
 私は、兄に手を引かれるまま、家族についていった。
久しぶりにみんながいる。心弾むことのはずなのに、団欒を一番望んでいたはずの祖母の姿がないことは、私を落ち込ませた。見失った居場所は、どこにあるのだろう。
 不意に、むせ返るほどのフリージアの匂いがして、振り返った。一瞬だった。
 今ごろ、どこかに咲いているはずなど、ない。
 祖母の病室に、季節はずれのフリージアが飾ってあったのを思い出した。毎年、庭に咲いたフリージアを、祖母が玄関に飾ることも。
 甘酸っぱさが口の中に広がった。
 口ずさむのは、りんごのうた。
 聴こえるのは、懐かしく、遠い歌声。


終  

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