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Soft & Sweetな決意表明・羽生結弦の「夢見る憧憬」

 プロ・アスリートへと転身した羽生結弦の疾走が止まらない。9月の終わりには連日故郷宮城のローカルテレビ局を巡り、それぞれの生放送で今後についてなどの新しい情報を提供した。各局のアピールもさすがで、地上波生放送と並行して羽生だけを写し続ける「羽生カメラ」映像のYouTube配信という大技を繰り出して一気にトレンド入りを果たされたようだ。スタッフの皆様はアマチュアの枷から解き放たれた羽生の自由闊達な振る舞いを目を細めて眺めている保護者感がダダ洩れしていていかにも幸せそうだ。羽生も「緊張するー」とか言いながらもゆるゆると楽し気な雰囲気を醸し出す。コマーシャルタイムの暇つぶし? に某局のゆるキャラを撫でまわす姿が羽生カメラで世界に晒され、おかげでキャラのぬいぐるみ在庫があっという間に完売したそうだ。もはやそこに居るだけで運気を上昇させ、天から花弁や黄金の雨を降らせそうな福の神レベルの影響力である。
 
 9月最後の日に羽生はTwitterとInstagramを開設し、年内に横浜と八戸で開催するアイスショーの告知を掲載。月が変わった10月の始めには自身のYouTubeチャンネルにアイスショーと同じタイトルの新しい動画「プロローグ」を公開した。
 YouTube動画「プロローグ」は彼が少年だった頃から何度も披露してきた「Change」で始まる。曲のテーマも門出にふさわしいし成長ぶりを見せるには恰好のプログラムだ。
 リンク内の複数個所に設置した固定カメラの映像をつなぎ、カメラすれすれまで迫り、時には跳び越していくような臨場感で精緻なエッジワーク、軸が細いジャンプ、キレの良いダンスを見せてゆく。動かないカメラがかえってリンクの広さやスケートの疾走感を際立たせる。三味線に英語の歌詞というアヴァンギャルドな曲でワイルドなステップを踏みながらも、羽生の滑りはどこか折り目正しさを感じさせて端正だ。フィニッシュのビールマンスピンからしなやかにほどかれた腕の白さが目に染みるようだった。
 
 羽生のプロ転身には心からの祝福と期待しかないし、成功を疑う要素は何一つない。これからの日々が本当に本当に楽しみだ。
 しかし、氷が溶けそうなほどの熱を発しながら何度も何度も4回転ループや4回転アクセルにチャレンジした公式練習、近寄りがたいオーラを放っていたリンクサイドのエア熱唱、乱れ飛ぶWinnie-the-Poohの嵐のなかで指先まで優美な会釈で歓声に応えたり、思い切りジャンプして表彰台のてっぺんに飛び乗ったり、両腕を大きく広げてライヴァルへの拍手を煽ったり、贈られた花束を愛し気に眺めたり、マスコットとともに晴れやかにリンクをウイニングランしたり、喜び、悔しさ、その他諸々の感情を惜し気無く見せてくれた現役ならではのシチュエーションがなくなってしまうと思うと、その切なさはどうしようもない。かけ離れすぎて申し訳ないのだけれど、末っ子が卒園式で卒園証書を受け取る姿に「ああもう我が家の赤ちゃんはいなくなっちゃったんだ」と寂しくなった感覚と少し似ている。どれほど眩しく頼もしい成長ぶりであっても、巣立ちを見送るときには感傷的になってしまうのが親心というものだ。
 
 動画「プロローグ」で二つ目に披露された「夢見る憧憬」はそんなファンの心に寄り添うような優しく懐かしいプログラムだ。冒頭、「CRYSTAL MEMIRIES」の衣装を着けた羽生の面立ちは、青年らしさが匂い立った「Change」とは別人のよう。額を隠す前髪、ふっくらとした頬や少し腫れぼったい瞼が幼げに見えて、ジュニアの世界大会を制覇した「パガニーニの主題による狂詩曲」の頃を彷彿とさせる。跪いて氷のかけらを集め、宝物のように握りしめる少年・羽生。手の中の氷をじっと見つめ、やがてぽとりと落として少年は立ち上がる。甘く、柔らかくどこか寂し気なピアノ曲。ためらいを振り切るように駆け出していく姿は、大きな夢のために大好きな故郷を飛び立った日の投影か。伸びやかな滑り、どこまでも拡がってゆく世界。別々のアングルから撮った画像を重ねた連続ジャンプは高さと飛距離が際立ってまるで妖精王の飛翔だ。氷を削るエッジの響きがもう一つの楽器のようにピアノの旋律と調和する。
 再び膝をついて姿勢を低くした羽生にふわりとまとわる白い布。旅人のマントのようにも、傷ついた心をそっと包み込むブランケットのようにも見えた。世界がモノクロームに変化し、落とした氷雪のかけらが再び羽生の手の中に吸い込まれて光を放つ。これまで捨てきた、あきらめてきた幸せ? それとも新しく見つけた夢だろうか。
 
 羽生自身も「気に入ってもらえるかわからない」みたいな不安をにじませた発言をしていたけれど、「夢見る憧憬」は過ぎ去った日々を抱きしめ、彼自身とファンたちの変化への不安を慰撫し、必ず成功させる、幸せになるという誓いのようにも見えた。7月19日のプロアスリート宣言からつながるもう一つの優しくスウィートな「決意表明」だったかもしれない。
 
 プロ転身の表明から2カ月と少しでこれほど心に響く作品を作り上げたことを何と評価すればいいかわからない。控えめなエフェクトを加えることによって、フィギュアスケートとしての流れを損なうことなく詩情溢れる映像となった。彼のこれまでを多少なりとも知る者はどうしてもその軌跡を重ねて捉えてしまうけれど、まったく羽生結弦を知らない、初めて見る人の魂にも届く作品であると思う。

 初のワンマンアイスショー「プロローグ」開幕はもう間もなくだ。競技の世界で数々の「世界初」や「彼しかできない」を成し遂げてきた羽生結弦が、点数や順位を超えたステージで見せてくれる「初めて」はきっと誰の予想も超えてくるに違いない。
 
PS : ヘルメット !
 
 製薬会社のコマーシャルで羽生のヘルメット姿が話題になった。私は仕事で時折、電力設備メーカーの工場や山岳送電線工事などの現場取材に行くことがある。いつも不思議なのは、事務所でインタビューしている時は目立たない方が、ヘルメットを被って現場に立った途端に99%以上の確率で男振り、女振りが格段に上がってたいそう格好よくなることだ。カメラマンも同意見だから、私の主観だけではないと思う。ただし、作業着、安全靴、腰道具等と現場の人らしい肝の据わった身のこなしがセットになっている場合に限る。危険と隣り合わせの緊張感とプロフェッショナルな装備から醸し出される風格がヘルメット姿には欠かせないのかもしれない。一方でスーツ姿でのヘルメットはなかなか様にならない。シンプルな形状でヘアスタイルを隠し、顎ひもが顔の輪郭を強調するヘルメットはごまかしが効かないのだ。美人コンテストの水着審査みたいなものだ。服装にかかわらずヘルメットを被って顔が引き立つのはやはり輪郭および目鼻の造作と配置が良ければこそで、つまり羽生結弦は美青年だということ。当たり前の結論だ。それよりも問題なのはあの白いヘルメットが羽生に被られたことによってやたらと綺麗に見えてしまったことだ。数々の修羅場をともにして来た現場取材用のマイヘルメットはまだまだ使えるのだけれど、何とか理由を捏造してあの白く輝く「トーヨーセフティ#170」を買ってしまいたい気持ちが日々膨らんできて困っている。


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