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羽生結弦「秋によせて」に修羅を想う

   2019年フィギュアスケート全日本選手権の羽生結弦「秋によせて」を見た。テレビ観戦だが、羽生の研ぎ澄まされた演技に息をするのを忘れるほど惹きつけられた。昨シーズンロステレコム杯での「秋によせて」は晴れやかでこの上なく素晴らしい出来栄えだったが、それとは全く違ったもののように感じられた。緊張感がみなぎり、歓声や拍手とは別次元に身を置いてすべてを遮断した孤高の姿。ことに後半の、白刃の上を渡るようなステップ、地上の束縛に挑むかのようなバレエジャンプには、ロステレコム杯での、客席の歓声を翼にかえたような華やかさとは違う、触れることを赦さない神がかったものを感じてしまった。この蒼ざめた氷の精霊に似た何かを、かつて確かに見たことがある。あれはいつの、なんだっただろうか。

 あれこれに思うところがありすぎて録画を見返すことさえためらわれ、年末の忙しさにも流されて封印したまま年が明けた。七草を前に、思い出せないもどかしさとざわつく心に立ち向かうつもりで「秋によせて」を見直した。
 幽かにグレーを含んで透き通るブルー。華やかで、時にもの悲しく、波のように寄せては返す思い出の数々。懐かしい声、きらめく調べ、飛び跳ねる光。そうしたイメージに重なったのは「経正(つねまさ)」だった。どうしてすぐに気づかなかったのかと不思議なほど、2019年12月20日の「秋によせて」は経正を思わせるのだ。

 能「経正」の主人公は平家物語で知られる平 経正。清盛の弟、経盛の長男で詩歌管弦の道に長け、とりわけ琵琶の名手であった。竹生島弁財天の神前で琵琶を弾じると、そのこの世のものとも思われない調べに呼応して白い龍が現れて舞ったという。ちなみに敦盛は彼の末弟、平家の公達を代表する美少年兄弟といって良いかもしれない。やがて平家は時世時節に追われ、経正も関東の木曽義仲討伐戦から西海の戦へと転戦。その道すがら仁和寺に立ち寄り、命よりも大切な青山(せいざん)の琵琶を置いてゆく。仁和寺は経正が幼少から預けられ、覚性法親王に仕えつつ学問や風雅を学んだ心の拠り所だ。青山は皇室に伝わる唐渡りの名器であり、経正の楽才を深く愛した法親王から下賜されていたという。仁和寺に残された青山は戦火から守られたが経正は一の谷で戦死、自刃ともいわれている。

 夢幻能「経正」はこの経正の死を悼み、晩秋の一夜仁和寺にて催された管弦の席が舞台となる。手向けられた遺愛の琵琶、青山の調べに誘われ、「あるかなきかにかげろうの、幻の常なき身」として出現する経正は白い大口に豪奢な厚板、艶やかな長絹を肩脱ぎにまとう。亡者となった身を曝すことを恥じて燈火を厭い、物陰から手向けの管弦講に感謝するが、心を震わす舞楽に逆らえずいつしか我を忘れて舞い遊ぶ。松の枝を渡る風か忍びやかな村雨のごとき管弦の響きに乗り、天から飛び下った鳳凰が翼を連ねて遊ぶかのよう。ひるがえる袖に花鳥風月を愛で詩歌音曲に親しんだ懐かしい日々が蘇る。興が乗るにつれて燈火に浮かび上がる優艶な舞姿。「顕(あらわ)るるは経正か」の声に我に返り、戦に携わった武士が逃れることを許されない修羅道の業火へと引き戻されていく。身を切る剣にさいなまれ紅蓮に焼かれる姿を見られたくないと、経正は炎に身を投げる夏の虫のように一陣の嵐となって燈火を吹き消し、闇へと消え去った。

 能の装束はその時によって変わるので必ずしも青い装束とは限らないが、私の中の経正はやがて雪がちらつき始める少し曇った晩秋の空に似たブルーのイメージなのだ。能の季節設定も秋。舞が佳境に入って謡われる「昔を返す舞の袖」の謡いに「秋によせて」の始まりと終わりのポーズがシンクロして見える。シテが掛ける「十六(じゅうろく)」の面(おもて)は元服直後16歳くらいの公達に使われ、他に敦盛や今若、時によっては小面が用いられることもあると聞いた。経正は、若く美しく儚げなシテであるところから女面である小面が代用されるのだろうか。宝生流に伝わる十六の面は優美な中に戦士の面影を感じさせる少年らしいものだが、世に十六として伝わるもの、作られている面の中には額に殿上眉を刷いて少女と見まがうものもあるようだ。能の経正は梨子打帽子(なしうちえぼし)に白鉢巻をしめる。宝生の十六の面は羽生に少し似た凛々しい眉をしているのだが、この眉が白鉢巻きに隠れてしまうのが残念だ。

 経正は修羅物に分類され、やや軽めの曲ではあるけれど、印象的で大変洗練された美しい曲だ。主人公の詩歌管弦に掛ける思いの深さと、それにとらわれて迷い出たことを恥じる哀れさ、見顕されることを嫌い、自ら燈火を吹き散らし後生を願うこともなく消えてゆく潔さ。修羅物のシテはたいていの場合、最後に自分が成仏できるように弔ってほしいと願う。経正の弟を主人公とする「敦盛」もそうだ。戦とはいえ少年敦盛を手にかけたことを悔いて出家し、弔いの旅に出た熊谷直実の前に出現して昔語りをし、「あと弔いてたび給え」と言い残して消える。これがパターンだと思うが、経正はそれをしない。
 そしてその潔さが羽生結弦に重なって見えるのだ。特に今季、アクシデントや不利な状況に耐え続け、誰よりも美しくふるまう彼の姿に。 


 できればここできれいに終わらせたいと思ったが、どうしても気になっていることがある。それは羽生結弦の強さ、潔さに皆が甘えすぎているのではないかということだ。
 ジャッジは本当にベストを尽くし、清廉潔白、公明正大に行われているだろうか?
 彼の潔さとスケート愛につけ入った不明朗な作為が働いていないだろうか?
 フィギュアスケートが修羅道に堕ちるのをどうすればとめられるのだろう。


 いかにせん思ひなぐさむかたぞなきあらまし事もかぎりこそあれ   (経正集より)

2020/01/07

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