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「Yuzuru Hanyu ICE STORY 2023 “GIFT”」直前 夜明け前の思い 

 羽生結弦の最後の公式競技参加となった2022年2月の北京五輪から約1年が過ぎた。「推しのためなら!」と老骨にムチ打って必死でしがみついてきたジェットコースターは、何とスペースマウンテンどころかホンモノの宇宙船だったらしいと気づかされ、焦りは増すばかりだ。1週間後に開催が迫る「Yuzuru Hanyu ICE STORY 2023 “GIFT”」は東京ドーム全席完売にとどまらず、日本全国と台湾、香港、韓国でのライブビューイング、ディズニープラスでの全国配信決定と加速を続け、とうとう全世界規模でのライブ配信が決まった。

 この宇宙船から振り落とされないためにはもう一段本気のトレーニングがいりそうである。そこでとりあえずこれまで「3」にしていた健康マシンのレベルを少し上げようと「+」ボタンを押してみた。「最高は8くらい ? 」と思って長押ししてみたところが、快適な振動で体をほぐしてくれていた可愛いブルブルマシンがいきなり加速、液晶のレベル表示はたちまち2桁に突入し、マシンの輪郭も見えないほど暴れまくったあげくに「99」でやっと増えるのを止めた。もし乗った状態て試していたら腰を抜かして救急車のお世話になっていたかもしれない。常に進化する世の中で固定概念にとらわれる怖さを体感させていただいた。ついでに急騰した電気代の怖ろしさも思い出し、健康マシンのレベル上げは次年度以降に先送りして“GIFT”に備えるより安全なエクササイズとして平昌五輪以降、特にこの一年の激動をおさらいすることにした。

 2連覇を達成した2018年の平昌五輪後、羽生結弦は「あともうちょっとだけ」続けると宣言し、点数や順位を離れて「自分のために滑っていもいいかな」という少しあいまいな言葉とともに現役続行を決めた。過去には3回目の五輪は想定外という発言もあったし、長年の夢であり目標であった4回転半アクセルを公式戦で跳ぶことが彼の区切りかもしれないと私は思った。しかし、新たなシーズンは、再度の怪我、ルールと照らしても説明がつかない意味不明な採点や選手ごと、大会ごとに矛盾が大きく公平性や信頼性に疑問を持たざる得ないジャッジに翻弄され、続いて新型コロナウイルス流行による大会中止や出場自粛等が重なり、4回転半アクセルへの計画が当初の思い通りには進まないまま次の北京五輪が近づいてきた。

 相変わらず人気・実力ともに並ぶものがない羽生が出場することを世間一般は当然のように期待する。しかし「出なくていい」「出ない方がいい」という声も少なからずあったようだ。コロナ禍の下、既往症のある彼にとって、制約が多くサポートを十分に受けられない「バブル」での競技や長距離移動は大きな負担となるし、カナダ・クリケットクラブのコーチとも長く離れている。重大な怪我を抱えて臨んだ平昌よりも状況はさらに難しく見えた。4回転半アクセルの成功、そしてオリンピック3連覇は大変な偉業だが、ディフェンディングチャンピオンが「敗ける」ことのリスクは小さくない。王者の地位を明け渡すだけでなく「あの羽生を超えた〇〇」みたいにライバルに実力以上の冠を与えることになるかもしれない。何より心に、多くのものを犠牲にして築き上げてきたプライドにが傷つく。
 たとえ出場しなくてもだれも苦情を云える筋合いはないし、羽生は既に前人未到の記録と支持を獲得したGOATである。「後進に道を譲る」でもなんでも、出ない理由などは100個ぐらい見つかるだろう。

 しかし、羽生は北京五輪への出場を決断し、2021年末の全日本選手権でなんなく優勝、最短で北京への切符を手にした。

 彼が北京に出るだろうことを私は前の年の夏ごろから何となく感じていた。羽生結弦は誰より熱い闘争心を持つアスリートであり、生まれついての並外れた表現者である。叙事詩を編纂するように自らの物語を紡ぎ出し、役者か吟遊詩人のように物語に憑依して舞い、奏で、謡ってみせる。氷の上だけでなく、記者会見の一問一答さえ聞かせどころを備えたパフォーマンスとして成立させてしまう。常に全力で結果を求め、「この子たち」と擬人化して語るほど愛するプログラムを磨くためにあらゆる工夫と努力を惜しまない彼が、「王様のジャンプ」であり「競技者としての最期の夢」と位置づける4回転半アクセルに挑むとなれば最高のシチュエーションを求めるのが当然である。とすればあの状況で北京五輪よりふさわしい舞台が他にあっただろうか。

 世界中の注目と応援が集まる五輪には特別なエネルギーが働く。たとえ無観客でも、見えざる応援の気を翼に変えて飛翔する異次元の力が羽生にはある。彼の4回転半アクセルは2021年末全日本の段階で回転自体はほぼ足りていた。あとは着氷さえできれば成立する。その最後のピースが北京五輪の本番で嵌る可能性に賭けることは、他の選手なら考えられないが羽生に限っては無謀とは言い切れない。そして4回転半アクセルが成功すれば金メダルもまた射程に入る。リスクはかなり大きいが全てをコンプリートする可能性もまたゼロではない。

 仮に失敗したとしても、羽生結弦はどこまでも羽生結弦である。そこからまた誰にも想像がつかない次の章を創造し、物語は続くだろう。能ならば通りすがりの一般人に身をやつした前シテが語り終え、ドラマの主役にふさわしい豪華な出で立ちの後シテに姿を変えて再登場する局面だ。勝敗・成否がどうであろうと、後々のためにも北京五輪は重要な舞台となる。出場するという羽生の決断は必ずや良い未来をもたらすはず、と私は信じた。

 結果としてはショートプログラムで氷の穴にエッジを取られるアクシデントに見舞われ、8位発進。その後は練習中の怪我もあり、フリーで跳んだ4回転半アクセルは認定されたが成功には至らず、最終順位は4位。金メダル以外は何位でも同じと思っていたものの「メダルなし」は私にも予想外だった。
 「報われなかった」と涙する羽生を見るのはせつなかった。エキシビションの「春よ、来い」はダイヤモンドダストのように俗世を超越た煌めきを放って美しかったが、優勝者ではないからオオトリではないのがどうにも腹立たしくて、軽々しく五輪出場を願ったことを申し訳なく思った。
 
 しかし、羽生自身にも予想外だったかもしれないが、北京五輪後の世間の彼に対する評価と需要は上がるばかり。世界的にもファンが爆発的に増えたようだ。すべてを賭けた彼の挑戦と人間性は「北京で初めて羽生をちゃんと見た」という人たちにもまっすぐに響いたらしい。

 昨年1月の「絢爛たる挑戦 羽生結弦のロンド・カプリチオーソ」でも書いたけれど、羽生には「天の時、地の利、人の心に反応して本能的にあるべき場所へと向かう素直な聡明さ」があると思う。北京五輪と4回転半アクセルに掛けた彼の決断は正しかった。あるいは結果がどうであれ何事も良い方向へと動かしてしまう力が羽生には備わっているというべきかもしれない。
 平昌以降北京までの煉獄のような試練を経て、羽生の進化は加速したように見える。2022の6月からのアイスショー「ファンタジー・オン・アイス」の演目、中でも「レゾン」はまったく新しい印象を与え、彼が自ら望んで変わろうとしていることを予感させたし、プロ転向宣言後にチャリティ番組「24時間テレビ」で舞った「序奏とロンド・カプリチオーソ」は完璧だった2021年の全日本も超えるような見事なものだった。そして秋には横浜と八戸で計五回、これまでに例を見ないワンマンアイスショー「プロローグ」をすべて満席で走り抜け、大成功を収めた。

 目前に迫った「Yuzuru Hanyu ICE STORY 2023 “GIFT”」は最高のチームとタッグを組み、前述の通り途方もないスケールで世界に向けて放たれようとしている。出演者は羽生結弦ただ一人だが、日本時間の26日17時に始まる一夜限りのこの贅沢なショーを注視する観客の数が世界中でどれほどかは想像もつかない。膨大な数の人間が、羽生結弦製作総指揮・主演の新しいパフォーミングアートに接することになる。昨秋からさらに進化を遂げたに違いない羽生を見られることはもちろん、そこに生まれるたくさんの驚き、発見、感動を地球規模で分かち合い、新世界の誕生にともに立ち会えるのだ。そして新しい世界はどんどん成長していくだろう。その最初の景色をしっかりと目に焼き付けておこうと思う。

PS:
 
「Yuzuru Hanyu ICE STORY 2023 “GIFT”」のグッズが届きました。収拾がつかなくなるのでモノはあまり増やすまいと思っているのですが、フラッグは振りたいなと思って。まずは結弦祭壇にお供えして成功祈願してます。


フラッグは長さが約35cmで仕舞扇と同じくらいです。当日は光太郎さんのお気に入りだった扇袋に入れて持っていくつもり。能楽堂は東京ドームのすぐそばです。2011年に亡くなった光太郎さんは羽生選手を知りませんでしたが、26日は一緒に見に行きます。

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