見出し画像

子どもを愛するということ

目が覚めると泣いていた。
目尻から一筋、耳の穴に向かって涙が流れ、冬の朝のキンとなった空気にあっという間に冷やされていった。
そういう時の夢は、だいたいスターウォーズばりの荒野を埃まみれになりながら、一人で旅している夢だった。
私は冒険者で、果てしもない荒野を孤独に旅している。
そういう荒涼と殺伐した夢やイメージが思春期の頃から脳内にリフレインしている。
私は何を探しているのか?何を求めているのか?
とにかく、ずっと何かを探し求めていて、とても孤独だ。

両脇で寝ている2歳と7歳は、幸せな温もりを放ちながら、私に寄り添うように寝息を立てている。
寝室にかけられたロールカーテンからは、煌めくような朝日の粒が溢れている。

私の夢と反して、穏やかな情景だった。

子どもは、親を癒すための道具ではない。
それは分かっている。
親を喜ばせたり癒やしたりするために子どもというものが存在するわけではない。
にも関わらず、子どもの行儀を叱ったり、子どもに向けるには鋭角すぎる言葉で詰め寄ったり、逆に自分の都合だけで抱きしめたりしている。勝手なことだ。

先日、夫の子育てや家事への関与について、かなり饒舌に罵った。
一方で、私は本当は何がしたいんだろう?って思っていた。

本当はね、手放しで子どもたちを愛したい。
孤独でも自分の命を使って自由に生き、子どもたちとその喜びを分かち合いたい。
思いっきり笑って、あぁ生きているって素晴らしい、と感じたい。

子どもは、単なる大人のミニチュアではない。
ましてや、古ぼけた親の夢を託す存在でもない。
大人とは違う規範の中で、彼らなりの正義で生きている。
だから、私が大人になるにつれて会得してきた型に当てはめることはしたくない。
そのままを一緒にぶつけ合って喜んだり泣いたりしたい。

ただ、それをしたいだけなのに、日々湧いてくる感情には手垢がついて、本心に目を向けることを邪魔してくる。
ただ、愛したいだけなのに、ね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?