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『シン・仮面ライダー』を子と見た感想(2023/03/27)

 『シン・仮面ライダー』。私は6歳〜12歳のためにつくられた──いや、結果的にそうなったフィルムだと感じている。1960年生まれの庵野秀明監督が最初の仮面ライダーを観たのは1971年、11歳になった年だ。結果的にPG-12指定となったのは継承(過去〜現在)と革新(未来)のあいだで揺れた着地点だろうか。

 2023年3月27日に未就学児を連れて映画館に行き同作を観た際の実感、本題に入る前に、私自身が感じた本作への初見でのとりとめのない印象にしばしお付き合いいただきたい。子と一緒に映画館で観てから空き時間にメモを走らせた内容をまとめたものにつき、NHKで放送された『映画『シン・仮面ライダー』制作ドキュメンタリー〜ヒーローアクション挑戦の舞台裏〜』は未見、映画パンフレットも未読なので推測や想像は間違っている部分があるだろう。

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 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』ラストは、虚構の世界にいた少年・碇シンジが青年になり、駅のホームにいる彼を連れ出しに真希波・マリ・イラストリアスがやってくる。駅の外(虚構と現実を等しく想像できる世界)へ駆け出してゆく二人──

──『シン・仮面ライダー』冒頭、緑川ルリ子が本郷猛を連れ脱出するところから物語は始まる。私は「シンジくん、大人になって外の世界へ出てからも大変だ」と感じたものだ。子の横に座った映画館の座席で、君が大人になったときも子供時代の苦しさとは違う困難が待っているのだろうなと。

 少しディテールの話をする。『シン・仮面ライダー』において、本郷が着っぱなしの防護服の匂いについてルリ子が指摘し洗濯をするシチュエーション。庵野監督の『シン・エヴァンゲリオン』において登場人物のひとり真希波・マリ・イラストリアスが「匂い」のことを口にする描写との類似を指摘するひともいるだろう。

しかし、これはむしろ逆で、石森章太郎『仮面ライダー』マンガ版において、肉体を失い脳髄だけになった本郷が一文字へマスクを通じて〈おれの魂は・・・・おれの頭脳は地下研究所のガラスのうつわの中だが・・・・サイクロンの排気音も そのにおいも そしてからだにぶちあたる風の力も・・・・おれはすべて感じているんだ!!〉と語りかける場面があるのだ。

同マンガ版には一文字ライダーが、カニの改造人間が吹いた泡攻撃に〈そのシャボン玉は・・・きさまたちでつかいな!!たまにはからだを洗ったほうがいいぜ くさいからな!!〉という場面もある。

そういう意味では、碇シンジが本郷で、マリが一文字(逆か?)という視点もあるだろう。マリの〈匂い〉よりも、石森章太郎『仮面ライダー』マンガ版で本郷が一文字へ伝えた〈におい〉のほうが先、原点なのだ。

余談ながら、これも「ショッカーの正体は日本政府」並によく勘違いされていることだが、ライダーベルトの中心にある風車〈タイフーン〉はあそこに風を受けて変身するのではなく、風車は単なる〈風力計〉で(マンガ版にはっきり明記されている)、エネルギー源である風力や〈プラーナ〉を吸収するのは胸(胸筋)のコンバーター・ラングと呼ばれる部分だ。

『シン・仮面ライダー』ではマスクにもスーツにもベルトにも様々な解釈や再定義があって痺れたが、マスク眉間にあるOシグナルがアクセスランプ(も兼ねている)というのがいい。画期的だと感じたのはライダーキックだ。人間サイズ換算で数十メートルほども飛び上がれるバッタ並みの脚力を最大限に活かすのであれば、位置ベクトル──飛び上がってからの自由落下よりも、その場で前蹴りや回し蹴りのほうが強力なはずで、『シン・仮面ライダー』では設定上はしらねど、画で表される描写を見る限りでは空中に飛び上がってのライダーキックは、背面の羽状のディテールからプラーナを放出して速度と威力を増した攻撃になっている。なので、きっと何度も使える技ではないのだろう。プラーナを大量に消費する必殺の一撃だ。

劇中何度かでてくる「ある漢字に一本線を入れるか入れないか」というセリフ。だから、「一文字」(「仮面ライダー第2号」)なのか、〈アイ〉(AIではなく「I」)もそこにかかっているのだろうか?(石森章太郎先生の「I」でもあるだろうか)

 『シン・ウルトラマン』(樋口真嗣監督作品)や『シン・仮面ライダー』の各所に挟まる、明らかに暗所が描写できてないiPhoneで撮ったであろうガビガビ画質に関しては、「庵野監督は『ラブ&ポップ』をVX1000で撮ったひとだった」と。

DCR-VX1000というカメラには少し説明が必要だろう。1995年に発売されたSONYのDVカメラ第1号機で、当時の主な家庭用ビデオカメラだったHi8方式やVHS-C方式などアナログのビデオカメラよりは遥かに高画質だが、レンズ交換ができて肩に乗せる大きなテレビ収録用ビデオカメラや35mm映画用フィルムカメラとは比べるまでもない低画質だ。その使い勝手の良さ・取り回しの良さ──本体やバッテリーのサイズや内蔵マイク──比では「悪くはない」画質であり、広角やセミフィッシュのコンバージョンレンズがつけやすいのと咄嗟にアングルを探りやすいのが取り柄という位置付けの製品で、画期的な製品ではあったが、あくまでハイアマチュア〜ロケ〜ドキュメンタリー撮影向け用であり(自主映画では盛んに使われた時期もあったが)本来は劇映画・劇場公開作品を撮るための機材ではなかった。庵野監督はそのカメラで劇映画『ラブ&ポップ』を撮ったのだ。

映画用のシネカメラ以外にもヨドバシカメラでも売っているデジタル一眼(レンズ交換式)カメラやスマートフォンのiPhoneカメラで撮った撮影素材を大量に劇場公開作品の撮影に使ったことは、画面構成(構図・フレームイン/アウト)と編集(主にカットバックと視点誘導)が演出意図として成立していれば、作画それ自体にさほど拘りがないようにみえる富野由悠季監督(超絶作画新規カットと過去TVシリーズの流用カットが入り混じる『機動戦士Ζガンダム A New Translation』で明らかだ)との近似を抱く。王兵『鉄西区』('03)もVX1000(撮影期間途中でVX2000 or PD150に変わってたかも)にワイコンつけっぱなしだしな──とはいえ「ここiPhoneで撮る効果はあったかな」というカットもあるのが『シン・仮面ライダー』ではあるけれど。『シン・ウルトラマン』もメフィラス登場あたり劇場だと暗部がツラかった。

 『シン・仮面ライダー』スピンオフの企画があって、もし相談されたら「なるべくライブアクションで、コンポジットやCGIが必要なカットは脚本段階で削ぎ落として全部iPhoneで撮りましょう」と私だったら提案するだろうか(ワオ!プロにあるまじき、「たられば」!)。石森章太郎先生のマンガ版「仮面の世界(マスカーワールド)」に繋げるなら「モトクロス場でマスクを破損してしまった一文字に、紆余曲折あり不良少女が新しいマスクを届ける──マスク(仮面)ってひとにとってなんなんだ」で1本撮れるのでは……とは思う。

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〈2023年3月27日〉
 本題に入る。子と『シン・仮面ライダー』を観に行った。前日夜にYouTubeで限定公開されている昔の仮面ライダー劇場版よりも「いまの仮面ライダーが観たい」と言ったので、録画していた『仮面ライダーギーツ』を何本か観た。それもあって、「もしノスタルジーに作品の方向を振っていたならギャップで飽きてしまうかも」と不安があった。実際のところ、いま現在進行形で日曜朝に放送している令和ライダーと「それほど違和感のない」フィルムだったとは感じた。私はもっとノスタルジックな部分の多い作品だと予断があったのだ。ここは観るひとによっては良い印象を抱いたり悪印象であるポイントでもあるだろう。以前に子へ観せた際には途中で再生を止めてしまった『仮面ライダー対じごく大使』(『シン・仮面ライダー』公開後にYouTubeで限定公開されていた、'72に東映まんがまつりで公開の劇場作品)を『シン・仮面ライダー』を観終えたあとには最後まで観ることができたのは興味深い現象だった。

未就学児の横で鑑賞した肌感覚でいうと、『シン・ウルトラマン』では最初から最後まで画面に釘付けだった子は、『シン・仮面ライダー』では「プラーナがなんとかかんとか」といった背景説明のシークエンスでは完全に飽きてしまい、しかし本郷vs一文字やWライダーのポージングでは瞬きすら忘れて画面に没頭する。『シン・ウルトラマン』も『シン・仮面ライダー』も長編映画としての三幕構成や流れをあえて放棄して、全体を30分枠放送用に分割できるかのような構成なのだが、双方への子の反応が違ったのは面白かった。

『シン・ウルトラマン』も『シン・仮面ライダー』も、映画ファンのための作品ではない。これは『ダークナイト』ではないのだ。むしろ日曜朝にテレビでやっている現行のライダーやスーパー戦隊のほうが、もはや『ダークナイト』に近いとすら。そういえば、子の横でチラと見た現行スーパー戦隊『王様戦隊キングオージャー』に、『アベンジャーズ』や『ゲーム・オブ・スローンズ』からの影響もあるだろうハリウッド作品ばりの緻密な美術設定とCGIが出てきて度肝を抜かれたことがあった。

未就学児が集中して画面に没頭できる構成として『シン・ウルトラマン』(1時間52分)と『シン・仮面ライダー』(2時間1分)では、前者のほうに(私の環境では)軍配が上がった。後者の本郷の孤独や絶望だとかマスクに残されたメッセージのシチュエーションに子は飽きた。飽きたけれど──後々の子のこころに何かを残したと信じたい。

──とはいえ、『シン・仮面ライダー』は、結果的に50+または過去作に関心があった35+、プラモデルに例えるなら児童もつくるガンプラやポケモンプラモではなく、ミリタリー・ミニチュアやウォーターラインなど大人の趣味的になってしまっている部分もあることは否めない。

『シン・仮面ライダー』は、異形なフィルムだ。しかしそれは意外なかたちで現れた。TV特撮ヒーロー的部分と、それ以外の静謐でシリアスな会話劇とのギャップではなく(そういうノリは近年の特撮ヒーローTV番組では当たり前にある)──異形というのは端的に表すと、「アクション」のコンセプトがバラバラなシークエンスが1本のフィルムに複数混在しているところだ。

 具体的に述べると、「クモオーグ、コウモリオーグ」「ハチオーグ」「本郷vs一文字、某敵集とのバイクチェイス」「ラスボス戦」で撮り方がまるで違う。

「クモオーグ、コウモリオーグ戦」はある意味ではノスタルジックな、ライブアクションの等身大ヒーローの再放送的な撮り方に、アニメ的なデフォルメの効いたカットを足している。冒頭で変身した本郷がバッタオーグへの改造とマスクによる生存本能の拡大からくる暴力衝動によりショッカーの隊員をグシャグシャに殴り蹴り殺し血飛沫が飛び散る場面で(ここかナイフで刺す場面がPG12の理由だろう)、「(……残酷やな)」と私に小声で耳打ちした未就学児でも、あとの場面で「本郷はひとを殺してしまう自分の力に苦しんでるんやな(小声)」と理解していた。

「ハチオーグ戦」は、04年公開の庵野監督による実写映画『キューティーハニー』で試みられたハニメーションをリビルドしたかのような、フィルムの他の場面とフィットすることを放棄したかのようなアクションである。もしかするとライブアクションを完全にボツにしてああいう処理にしたのかもしれない。

「本郷vs一文字、某敵集とのバイクチェイス」は、完全に絵コンテありきとしか思えない画作りに思えた。エンドロールでスタッフクレジットに絵コンテ名義で鶴巻和哉氏の名があることに気がついた。「ラスボス戦」では、綿密な殺陣とカメラワークで見せるのではなくモチャモチャと総合格闘技での塩試合のような、「むかしの等身大ヒーローのバトルって、こんな生っぽいカットがあったな」という画と、森山未來氏によるピシッと決まった画が混ぜられているかのような。

 ここで多少、話題がズレる。いやズレてはいないが、横道に逸れる。故・飯塚定雄氏の光学作画タイミングや空間把握がありそれがアニメのエフェクトアニメーションに影響を与え、そして故・金田伊功氏がいて、アニメーター庵野秀明氏がいて、「エヴァンゲリオン」『シン・ウルトラマン』『シン・仮面ライダー』があって……と、特撮とアニメとを横断した「気持ちの良い動き・快感」の包括した系譜がないものか。

天才・金田伊功氏作画の魅力のひとつは、デフォルメや強調されたパースよりも、個人的にはフレーム外や奥行きの空間だと感じている。超人的に引かれた線がフレームの外側にも立体物と空間があるような錯覚を起こすのだ。現在であれば3DCGI上の架空のスタジオでカメラアングルを探れるその2D→3D変換したような「絵コンテとレイアウトだけで着地しない」空間の試行錯誤をシン・ウルトラとシン・ライダーは求めているように思える。天才アニメーターが任されたカットで縦横無尽にフレーム内と外を操る、そんなアングルを実写で探っているかのように感じる。

前述した〈「本郷vs一文字、某敵集とのバイクチェイス」は、完全に絵コンテありきとしか思えない画作り〉や〈「ラスボス戦」では、綿密な殺陣とカメラワークで見せるのではなくモチャモチャと総合格闘技での塩試合のよう〉な場面はその苦闘に感じられた。

「アニメーター」庵野秀明氏作画の快感は、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』における伝説的なディテールへの執拗な書き込みのみならず、タイミングと空間把握だと以前から感じている。『風の谷のナウシカ』で庵野氏が担当した巨神兵が口からビームを発するあのカットなどは、今となっては特撮とアニメを横断した快感に思える。

ぜんぜんドーラン塗ってないようにみえるし髪型も整えられぬ逃避行ではあたりまえなボサボサにみえる池松壮亮氏と柄本佑氏にしか演じられない本郷と一文字だったと想う。長編映画というよりTVシリーズを再編集しまんがまつりに上映したような構成だが(そしてそれは疵瑕ではないのだった)、シン本郷とシン一文字が短いやりとりや表情で織りなす感情曲線は最高だ。圧倒的な立ち姿や所作、身体性の説得力で画面とアクションを成立させてしまった森山未來氏も含めて、この三人はアニメ作品上のキャラクターとしては生まれることのない登場人物だろう。

 『シン・仮面ライダー』の異形さ、〈「アクション」のコンセプトがバラバラなシークエンスが1本のフィルムに複数混在〉に関しては、最初の仮面ライダーくらいのテンポでいちど頭からラストまで仮編集してみたのではなかろうか?と想像する。何せ制作発表のプロモーション用に「むかしの再現」と「新しいもの」で二種類つくるくらいだから。で、全体を仮編集して「これだと作品(=2023年全国公開の劇場作品)として成立してない」と判断して、かなり追撮──というか、いくつかのシークエンスをまるごと作り直ししたんじゃなかろうか。でないとあの混在っぷりは当初からの狙いだとは思えない。本郷ライダー対一文字ライダーの対決場面の作り方(いわば『シン・ウルトラマン』のスタイル)で全編を貫くことも、バジェットやスケジュールを勘定しなければできたはずだ。踏襲と革新のあいだを揺れ動いたのがそのままフィルムに定着したかのような作品だ。

『シン・仮面ライダー』は、「監督がつくりたい仮面ライダー」と「お客さんが観たいであろう仮面ライダー」と「シン・と冠して再生する意義」とで揺れたフィルムに思える──で、それは悪いことばかりではなく、劇中で本郷が力と弱さに揺れる心や一文字の背負いかたに焼き付いていて……制作者の姿勢が、劇中登場人物の二人、一文字隼人のような明瞭さと同居する孤独、本郷猛のような揺れることの弱さと揺れることのできるが故の強さとして、フィルムにくっきりと痕跡を残している。

〈『シン・ゴジラ』と『シン・ウルトラマン』ならおれは後者のほうがコンセプチャルだと思うし好きだね。なぜなら子が後者に熱中したから。ただ『シン・仮面ライダー』は、『キューティーハニー』('04)でのバジェットコントロールのリベンジ+私小説『式日』('00)のような異形のフィルムになると思う〉(2022年11月26日のツイートより)


 私は『シン・仮面ライダー』を観る前にこう予想していたのだけれど、その「異形さ」は前述したように予想外のかたちだった。最初の仮面ライダーを自らの「父」かのように感じ(なにせ最初の仮面ライダーが乗っていたバイクの元になったSUZUKI T20とHONDA SL350がラスボスの脇に飾ってあるのだ)メディアという人工子宮で命が生じたと感じ、更に現役でニチアサを観ているひとが、自らの両親が自身を育てていた頃・時代を思う、想う──ようなフィルムだった。まるでロードムービーのような静謐さを携えた予告編とはうって変わって、ストーリーテリング自体はここ数年の日曜朝の仮面ライダーよりもシンプルに「子供向け」(悪口ではない)。ここは驚きだった。近年のテレビシリーズ仮面ライダー新作のほうがよっぽど複雑な構成だ。

私の予想・想像していた「庵野秀明作品」ではなかったと思う。正確に書くと、「仮面ライダーを利用して私小説を描く」ようなことは庵野監督はしなかった。確かに「シン・ウルトラマン」同様にモーションアクターとしてもクレジットされていれど自分の為ではなく仮面ライダーに奉仕していたかのような。

庵野監督のフィルモグラフィ的には『ラブ&ポップ』より『キューティーハニー』より、さらには『トップをねらえ!』や『ふしぎの海のナディア』よりも「観客に何を観せたらいいのか考え抜いた」作品だと断言してもいい。自慰的・自己満足的な部分が限りなく少ない。仮面ライダーに跪いたかのような。

『シン・ゴジラ』と『シン・エヴァンゲリオン』と『シン・ウルトラマン』と『シン・仮面ライダー』の四本を観た上での感想だけれど、焦点(企画意図・ターゲット層・物語構成・演出スタイル)がすべて違うのだ。それぞれの欠落が他ではそのまま美徳だったり、それぞれのキマってる部分が他では不満点であったりもする。

なお、追告にあるこの崖の上に彼が立っているカット。私は劇場で観て、正直なところウルっとしてしまったことを告白する。他にも心躍るシークエンスやカットはいくつもあったけれど、ここが私の個人的なNo.1だった。

 驚かされたのが、『シン・仮面ライダー』を観たあとに子のオモチャ整理をしていた際、そこにはウルトラマンやテレビシリーズ仮面ライダーのオメンがいくつもあったが「ウルトラマンはもう卒業やな、シン・ウルトラマンは違うけど」と子が言い出したことだった。どうも違うフェーズに入ったらしい────

(少し長い余談。同時に、毎年新作シリーズをつくりながら、ある年齢層向けにきっちり届く作品をつくり続けているウルトラマンの凄みも感じる。ウルトラマンはもはやアンパンマンと同じ位置にいる。アンパンマンと同じ位置にいるということがどれほどもの凄いことなのかを説明しにくい。近年、周囲の保護者と話していて強く実感するのが、私の子供時代に比べて、スーパー戦隊や仮面ライダーやウルトラマンなどテレビ特撮ヒーロー番組に関心を失う時期──さきほどそれを〈卒業〉と表現した──が、急激に早くなっていることだ。小学二年三年ともなると、もはやテレビアニメにもテレビ特撮ヒーローにもそれほど執着しなくなり、ビデオゲームとYouTubeとポケモンカードが興味の中心に据えられてしまう)

(少し長い余談第2号。それにしても『シン・仮面ライダー』の、後(あと)パブ(公開後の宣伝)は凄い。印象的な場面や撮影舞台裏をムービーやスチルで次々に公開してゆく。初週の興行成績から泥縄というのではなく、あらかじめそういう予定で宣伝プランを組んでいたのではないか。劇中セリフから引用するところの〈私は常に用意周到なの〉だ。撮影舞台裏を知り「ライブアクションかと思いきやここもVFX(CGI)カットなの!?」と驚きもあるが、カラーグレーディングの見事さよ。自分は暗がりに浮かぶWライダー揃い踏みの変身カットで「一文字ライダーのモーションはライブアクションではなく庵野監督の動作ではないかな、手の振りがそんな気がする。でも生で撮ったほうが速いよなあ」と感じたものだけれど、メインキャラクターの3DCGIモデリングとテクスチャの素晴らしさを見る感じ、可能性としてはなくはない気もしてきた)

閑話休題────子はどうも違うフェーズに入ったらしい。『シン・ウルトラマン』も『シン・仮面ライダー』も、何か私のあずかり知らぬ、わからぬ、ところで「次」に行くきっかけになっているらしい。とはいえ、いま放送している『仮面ライダー ギーツ』はしっかり観ているのだけど。「まとめて観たいから今週は観ない」と何本か録画をためたあとに観たがるのはHDDレコーダー以降の世代やな、と感じる。

子が好きな人気アプリ『にゃんこ大戦争』がコラボした「シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース」中、ある世代と時代を共にした「同志」への誠実なメッセージとして美しく完結したシン・エヴァも、ジャンル外へ波及し映画として世評が高いシン・ゴジラも、子のおもちゃ棚に並ばなかった。それは断絶ではなく視点の違いだ。

私の目に入るのは未就学児のおもちゃ棚にコレらがある、ってことだ。子が『シン・仮面ライダー』を劇場で観た夜に気持ちのおさまりがつかなくて描いた絵も飾ってある。

────────映画を観てから少しの時間が経った。春休みが終わった。

 いま子が通う小学校は5月初旬のある時期から、給食配膳時の配膳係以外は、授業中も登下校時もマスク無しでOKになった。これまで中止だった学校行事も徐々に再開されてゆく見込みだ。しかしコロナ禍の三年間で、学校行事や学校と地域交流のノウハウが保護者間でも教師間でも、たったの三年間でほぼ失われてしまったという現実もある。四年以上前の議事録や配布物の現物やデータを引っ張り出してきて読み返さないと情報共有・通達・準備・運営・後処理に伴う様々なことが、十ほどもあるそれぞれの各PTA委員会みんなまったくわからないのである。ノウハウを持っていた保護者の大部分は児童が「卒業」してしまった。

先日のPTA会議で議題にあがったのが、「高学年ほどマスクを外したがらない」問題だった。私が毎朝の集団登校時に目にした感覚でも4月から5年生や6年生になった児童たちは今でもマスク姿で登校している子が少なくない。

2020〜2023年まで、9歳から11歳までの多感な時期にマスクをし、接触や私語を伴うあらゆる行事が極限まで封じられた世代の子たちやから、急に言われても困惑する気持ちはわかる。ある6年生の子は「マスク外すのが恥ずかしい」と言っていた。

〈人間はだれでも仮面をもっている その仮面の下に真実(ほんとう)の顔がある〉(『仮面ライダー』マンガ版/石森章太郎/講談社より)。

 コロナ禍が開けた(ということになったらしい)今年の夏祭りの露店では、シン・仮面ライダーのオメンが売っていて欲しい。家には新1号のオメンがある。V3のオメンもある。大阪は松屋町にあるお祭り露店業者向けの店までわざわざ行って買った。その年は夏祭りもハロウィンも盆踊りもコロナ禍で露店が出なかったのだ。子はそのとき買った新1号の面を被りシン・仮面ライダーに目つきまでなりきる。フーディーはコートの設定。今年の夏祭りはシン・仮面ライダーのオメンが露店に並ぶと嬉しい。シン本郷とシン一文字ふたり、仮面ライダーと仮面ライダー第2号のオメンが祭りの露店に並んでたら「こんなに嬉しいことはない」だよ。露店で買うと800円、松屋町に行ったら350円だけれど、煌々と灯のついた夜の露店で買いたい。いつでもつけたり外したりできるし、つける前も外したあとも大声で叫んで笑って遊べるマスクだ。

2023年。マスクをしたヒーローが出てくる映画があったのだ。


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 最近になってようやくコマ(補助輪)が外れた自転車に乗ってるあいだじゅう子はずっと「レッツゴー!! ライダーキック」を歌い続け、自分の自転車にはブルーサイクロンと名付け、乗る前にはヘルメットをかぶる時にハンドルのところにあるという設定のスイッチを押してからヘルメットのあごひもをつける。クラッシャーが出てくる手つきをする。

『シン・仮面ライダー』見終えたあとには「けっこうよかったな」と妙に冷めた感想を言いながらも、劇場から出てくるときずっと「最高やな!最高や!!」と興奮してた『シン・ウルトラマン』よりも日常生活に影響を及ぼしている。

等身大ヒーローってそういうものだよな。


停車しているとき両手を広げてプラーナを全身で受けるポーズをする。自転車から降りるときはベルト(をつけているという設定)横のボタンを押しプシューとプラーナを解放してから胸に手を当てコンバーターラングが縮む手つきをする。そしてまた自転車に跨り走り出す。ペダルを漕ぎ風を切って走る。胸で風を切って、胸で風を吸い込むようにして、加速してゆく。

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