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売春婦との関係は?カオナシの正体は?「千と千尋の神隠し」

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日本の誇りであり宮崎監督の最高傑作「千と千尋の神隠し」

ー神隠しの意味ー

引っ越し先へ向かう途中に立ち入ったトンネルから神々の世界へ迷いこんでしまうというストーリー。神隠しというのは人間がある日忽然と消えうせる現象(ラストに親から勝手に急にいなくならないでと言われている)。神域である山や森で、人が行方不明になったり、街や里からなんの前触れも無く失踪することを、神の仕業としてとらえた概念。これにより千尋は神の仕業で神の世界に連れてかれ、生きることの大事さを教わり一人でもやっていける勇気を教わる。舞台が売春婦なのも昔売春は神に触れることのできる特別な職業とされてきたから。

ー売春宿がテーマにー

この映画は売春宿で風俗関係の映画であると監督自ら言っています。もともと赤い提灯は売春宿を示すものだったそうです。

湯女=売春婦であり千尋もその一人でありました(実際は売春はまだしてません。最初は下っ端で売春はさせてもらえないためまだしてません)「湯女」とは「垢かき」とも云われ、客の躰を洗うことが本来の仕事です。が、それだけでは金が上がらない(儲からない)ので「秘密裏に客の相手をさせることもある」宮崎駿さんは、この映画のインタビューの際に、

「今の世界として描くには何が1番ふさわしいかと言えば、それは風俗産業だと思うんですよ。日本はすべて風俗産業みたいな社会になってるじゃないですか」と答えました。用するにすべての会社に裏がありそれが収入の大元になってることもあるということを言いたかったんじゃないでしょうか。

ー神と接触できる売春婦ー

売春婦というのは悪いイメージがあるが当時は神と接触することができる職業と称えられてた。売春というのは自分にとって嫌なことをやり同時に相手に愛を与える職業とされてました。そのためこの映画は嫌なことを必死で頑張りダメな両親を救う、昔からよくある話をやってるとのこと。

千尋は最初から食べ物の欲望に負けた豚(両親)やカオナシが金を差し出したのに受け取らなかった点から欲望に勝つ強い子なのです。

ー名前の間違いー

千尋と冷たい母親、坊と甘やかしまくる湯婆婆が対比として描かれています。

彼女の名前は「荻野千尋(おぎの ちひろ)」というのですが、実は彼女、自分の名前の「荻」という漢字を間違えて書いてしまっています。千尋は後に、ハクから「自分の名前を忘れてしまうと帰れなくなってしまう」と忠告されます。だから、自分の名前を間違えて書いてしまったのは、その初期症状が、すでにこの契約のシーンで現れたということなのだそうです。それと湯婆婆に名前を奪われず帰ってこれたのは間違っていたからです。

ー廃棄問題ー

油屋にとんでもないお客「腐れ神」がやってきます。お風呂で浄化された腐れ神のヘドロから出てきた物は自転車、鉄骨、空き缶、ドラム缶、トイレ、不法投棄された電化製品などのゴミの山だったのです。この描写から人間が川にゴミを捨て、神聖で清らかだったはずの川が汚れ、主はこのままでは自分が留まる居場所がなくなってしまうと油屋へ駆け込んできた背景がわかります。

ーカオナシの正体ー

カオナシの正体は「人間の負の側面」であると言えます。カオナシは欲深さ、利己、支配欲、執着心などの人間が誰しも持っている負の側面を集約した存在です。カオナシは資本主義の擬人化。アレが旅館に入れないようにされているのは、悟りの境地である神々の世界(旅館)に資本主義(=強欲の塊)が入れないって意味。カオナシが渡した砂金が土くれに変わったのは、監督の「お金では解決できない大切なことがある」という意思表示。宮崎駿監督は「カオナシはどこにでもいる」とインタビューで答えています。千尋を手に入れれば自分を慰め、満たしてくれると思い込み執拗に追いかけるものの、寂しさや虚しさは埋まらないカオナシの様子は次々と果てしない欲求を満たすために新しいものを取り入れては捨てていく物質的・資本主義に偏っている人間の側面に似ています。

ーハクの正体ー

腐れ神と同じようにハクの正体も千尋が小さい頃に落ちた川の神様でした。マンション建設のため埋め立てられて居場所を失い、油屋へ流れつき、神様だったことを忘れ、湯婆婆の手下として労働していました。人間の世界にはもう自分の居場所も覚えている人もいないと悟ったハクは、湯婆婆からの悪事に近い仕事を引き受け続けることで居場所を見出し、なんとか存在していたのです。

ー千尋の成長物語ではないー

物語の終わり、千尋が無事に両親を取り戻し、トンネルを抜けて現実の世界に戻ってくるシーンがあります。このシーンは、映画冒頭のトンネルに入って行くシーンと全く同じ描写です。千尋は怯えながらお母さんの腕にしがみつきトンネルを歩いています。

ここで不思議に思うのが、成長したはずの千尋はなぜ帰りのトンネルでも怯えているのだろうか? ということです。実はこのシーンに関して宮崎駿監督が答えています。「この子は成長しない子なんだよ」千と千尋に関して、宮崎監督は「成長物語ではない」と明言しています(パンフレットのインタビューにも載っています)。何も出来なかった少女が、異世界に放り込まれて頑張って自立する成長ストーリーでは決してない、ということです。

成長すれば素晴らしい、というような安易なストーリーにはしたくなかったとおっしゃっています。エンディングの歌でも歌われているように、あのお話は「輝くものはいつもここに 私の中に見つけられた」ということがメインテーマのようです。つまり、もし千尋のような状況に放り込まれても、大丈夫、君はやっていけると、少年少女たちに言いたかった、そんなお話とのことです。

ーもう一つのテーマー

秩序を忘れた人間は自分たちの都合だけで建物を建てたり、土地を開拓したり、森や山を削るようになりました。古代から存在し続けていた土地も山も川もあっという間にマンションやビルに変えられてしまいます。こうして少しずつ自然と神々の居場所は奪われていきました。この物語のもう一つのメッセージは新しく便利な物が生まれるのと同時にいにしえの尊い存在が消えていることに気づかない人々の愚かさへの警告です。最初に出てきた石の祠(神様のおうち)が無残に転がっていたシーンもこのことを言ってるのだと思います。

ー千尋のモデルー

『紅の豚』のポルコ•ロッソのモデルになった佐伯氏の家族+プロデューサー家族+宮崎駿監督ファミリーの3家族でキャンプに行ったそうです。

そこで、佐伯さんの娘,ちさとちゃんの赤い靴が川に流されてしまい、それをみんなで拾おうとしてみんなずぶ濡れになり、そして大声で笑いあったそうです。その出来事が響いた宮崎駿監督はそれをきっかけに元気を取り戻し、そしてちさとちゃんに対する感謝の気持ちから、当初は映画タイトルを『千とちさとの神隠し』としていた。しかしストーリーがまとまるにつれ性風俗産業に絡めた物語となったので、名前を千尋に変更したようです。劇中で千尋の両親が豚になりますが、なぜ豚なのか?それは、先ほどの千尋のモデルになった「ちさとちゃん」の父親が紅の豚のモデルになった人だから。ちなみに豚になった理由は神様たちの食べ物を食いあさった人間を湯婆婆が動物に変えたから。

ー言葉の力ー

宮崎監督はこう言っています。

「言葉は力である。千尋の迷い込んだ世界では、言葉を発することは取り返しのつかない重さを持っている。湯婆婆が支配する湯屋では、「いやだ」「かえりたい」と一言でも口にしたら、魔女はたちまち千尋を放り出し、彼女は何処に行くあてのないままさまよい消滅するか、ニワトリにされて食われるまで玉子を産み続けるかの道しかなくなる。逆に「ここで働く」と千尋が言葉を発すれば、魔女といえども無視することができない。今日、言葉は限りなく軽く、どうとでも言えるアブクのようなものと受け取られているが、それは現実がうつろになっている反映にすぎない。言葉は力であることは、今も真実である。力のない空虚な言葉が、無意味にあふれているだけなのだ。

世の中の本質は、今も少しも変わっていない。言葉は意志であり、自分であり、力なのだということを、この映画は説得力を持って訴えるつもりである。」

千尋はもののけ姫のサンの子孫だそうで、「人間くさい」と言っていたサン。しかし、自分の子孫(千尋)が「ヒトくさい」と言われてしまっている入り組んだ演出ですね。

ちなみにお父さんの車が「へ」ナンバーでしたが現実にへナンバーは存在しません。これも神隠しと関連があるのでしょう。

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