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権利と義務と想像力と。

卒業の季節に、権利と義務についてひとり考えていた。義務教育が終わる人もいれば、新たに権利を手にする人たちもいる季節である。

私の大学時代の恩師は、まさにこの権利と義務についての研究に一生を捧げた法哲学者であった。法哲学とは直接的な接点のない研究をしていた私ではあったが、そういう拙さも含めて、やたらに道草を食いたがる私をかわいがってくださった。「彼のテーマは法哲学研究ではない」という血気盛んな仲間もいたが、そういう声にもいつも「オオタさんにとって大切な問題なのだから…」と微笑んでおられた。
そういう法哲学研究者らしくない私が、いまこうして三月の落ち着かない空模様を見上げながら、権利と義務についてぼんやりと考えをめぐらせている。

権利と義務はふたつで一つ。切り離すことができない関係である。権利が主張されるときには、必ず引き換えに義務が課された。義務が果たされるところに、権利が与えられた。双方が担保されない文明のもとでは、必ず権利闘争が繰り広げられた。
権利意識が高い国や文化にとっては特に、権利というものは勝ち取ったもの、いわばトロフィーなのである。フランスを例にすれば、たとえばルーヴル美術館に行くと、そこはまさに「民衆」が堂々と、当たり前のように利用している感じがとても強い。
美術館というと、どこか高尚で、素晴らしい展示物を前に、息をひそめて訪れるような、とてつもないお宝を見せていただいているようなイメージが、日本にはまだまだあるのかもしれないが、ルーヴル美術館にはそうした空気がない。歴史的に見て、王家が独り占めしてきた知と学と富の依り代たちを、民衆が革命によって「権利」として勝ち取った、そういう美術館だからである。それら収蔵品や展示物を、気が向いたらふらりと散歩にでも行くように気軽に目にすることは、当然の権利なのである。

いつの時代もそうなのかもしれないが、しかし権利意識が高いからといって義務の履行に熱心かどうか、ということは国や文化にかかわらずよくわからない。むしろ、義務の履行よりも権利の主張の方が声高ではないか、と最近は感じたりする。権利を主張するための盾が、どんどんと大きく、広く、厚くなっている気がしてならない。

たとえば、レストランに行ってもホテルに泊まっても、あるいは何かを買っても、「お支払いいただいた代金に付帯して、存分に権利の主張が可能ですよ」というリマインドが、過剰なほどに特典化されている。結果として、そうした過剰サービスがセーフティネットとなって、自分たちのお店なり企業を守ることになるのだ、あるいは信頼されるブランドづくりのきっかけになるのだという思惑も働いているのだと理解する。

しかし、権利というものは貪欲である。あればあっただけ便利で、足りないということがない。権利の剰余は人をして理性的でなくする。義務に裏打ちされているのだという冷静さがあるからこそ、権利主張の暴走にはなお歯止めが利かない。振り返って、権利が制限された時代は多々あったが、権利が有り余るというのは、今この時代をおいてほかに例がないような気がする。

本当に、権利と義務は、二つでひとつなのだろうか。二元的な相克の中でのみ成立し合う、均衡で、完成されてしまった仕組みなのであろうか。もし権利がダブつく時代が存在するのならば、義務が桎梏となる時代も訪れるのではないだろうか。権利と義務は、互いにバランスを取り合うシーソーの関係でしかないのだろうか…。

この関係には何かが足りない、と長いこと思ってきた。もちろん、何度も述べるように、なにか、学術的な、科学的な、哲学的な議論があってのことではない。ただ牧歌的に、誌的に思案したに過ぎない。それでも、この物足りなさもあながち間違っていないような気がするのだ。

そうして、この権利余剰の時代だからこそ、義務との間に、なにか一つ善良なクッション、それも権利義務双方が同じエネルギーで歩み寄れるクッションがあるべきではないかと考えていた。そしてそれはおそらく、エチケットなのだと考える。マナーでも良いのかもしれないが、マナーほど他律的でなく、より自発的なエチケットの方が適切だ。エチケットの語源をさかのぼればエチカ、すなわち倫理(観)ということになるが、そこまで大それたクッションでなければ、権利と義務のバランスはとれない、とは思わない。では、ここでいうエチケットとは何のことだろう。私なら、愛であり、思いやり、と考えたい。経験上、相互に愛あるエチケットつまり思いやりのあるところに悪意は存在しなかった。

思いやりとは、すなわち想像力の子である。権利を認めるものを思いやり、義務を果たす側を思いやる。相互に思いを遣る想像力がなければ、権利の音量は天井知らずで上がり続け、果たしきれないほどの義務が引き換えに課される。私は権利を有する。それは、義務を果たしたからである。だが、この義務にふさわしい権利を行使するにあたってはエチケットが伴うのだ。私は義務で権利を買ったのだ。だから濫用もクレームも自在である、ではなく、権利を供与するものを思いやり、使わせていただける権利にも節度があることを承知の上で、真摯に義務を果たす。あのちっぽけな権利のために、義務を履行させられているのだ、と思うほどに心は狭小になり、口を開けば文句が出る。権利にも限界があり、義務にも限界がある。限界というフレームがあるからこそ、野放図ではなくそれぞれに美しい。目に見えぬ限界にまで思いを遣る想像力がないとき、そこに諍いが生まれる。

ところで、イマジネーションそれ自体は形なき思念である。いかようにも姿を変え、意味を変え、発し、受け止め、連結することも分離することも可能だ。それを捕まえることも、計量することも、可視化することもできない。縛り付けることもできなければ、力づくで強いることもできない。それは、拘束力の埒外にあるソフトウェアでしかない。近代以降、権利と義務は、機械的に相互を補い合う「硬化した歯車」として機能してきたが、しかしそろそろ、そこに新たなソフトを加えてもよいのではいだろうか。権利も義務も、歴史的にみればもとはソフトウェアだったのだから。(了)

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