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「110番して下さい」じゃねえよ

 先週の金曜日の話だ。

 仕事からの帰り道、80歳くらいのおばあさんとすれ違った。身長150cmくらい、コートにニットキャップ、薄いサングラス。その直後、車と何かが擦れ合うような音が背中でして、おばあさんの「ああああ」という声が聞こえた。振り向くと路地から軽の白いバンが車道に合流しようとしていて、歩道に出ていた。おばあさんがいたはずの歩道に。運転席には短髪で65歳~70歳くらいの恰幅のいい男。グリーン系の長袖ポロシャツを着ていた。夜目に顔色は分からないが、酔ったとき特有の挑戦的な目つきとニヤニヤ笑い。音に振り返った私を見て、ニヤニヤと笑っている。歩道を歩く老人が邪魔で、ちょっと脅すつもりで車を軽く接触させたのだと思った。おばあさんに怪我はない様子で、車の向こうに、歩いて行く姿が見える。その間にもその白いバンは歩道から車道に出て、右折レーンに入り信号が変わるのを待っている。
 接触したところを目撃したのではない。被害者はそのまま歩いて行く。どうするか、と考えた。バンは信号が変われば発車する。ナンバーを覚えた。

 ただ、私自身が迷っていた。音がした、声がした、車と人の接触は独特な音がするから私は振り返ったのだ。運転手のニヤニヤした顔は、やってやったという風だった。しかし老人はそのまま歩いて行く、被害者に訴える気がない、私は見ていない、証拠がない。一体どうすればいいのか。追いかけて被害者に質すのか。歩行者が車道の右折レーンに立ち入って車を止めるのか。飲酒の疑いをどうやって確かなものだと言える?――短い逡巡の間に信号は変わり、車は大通りに向けて消えて行った。私はそこから数分の距離にある交番に行った(以前も落とし物を届けたことがある交番だ)。運転手がかなり飲酒しているであろうことにはほぼ確信があって、車種までは分からないがナンバーも言える。その状況だけで警察が追うとは思えないが、車をわざと人に当てるなど酒を飲んでいなければできないものだろう。ドライブレコーダーがあれば被害者との接触は録画されているだろうし、ともあれ、まず相談してみようと交番に行ったのだった。

 しかし警察官の対応は、私を落胆させるに充分だった。

 「見てないんでしょ?」「そういう時は110番して下さい」――いかにもバカにした顔で30歳代の警官はその二語を繰り返した。メモさえ取らない。「何かあったら、いや何か起きる前に何とかしなきゃならないので、そういう時は110番して下さい」――だから今こうして話しているのに、「しょうもないこと言って来るなよ」という態度だった。
 私は返事をせずに警官の目を見返して、徒労感を抱えて駅に向かった。

 音と声しか聞いていない。運転手が酔っていたという確証があるわけでもない。警察が容易に動けないだろうということも分かっている。しかしメモくらいは残すものじゃないのか。その八王子ナンバーの車が違反したり事故を起こした時に、メモが活きるのだから。

 高齢の歩行者に車をわざと当てるような人間が、金曜の夜、酔って東八道路を運転していた。――私はそう思っている。これを書いている今も。


 プロ自称のやつらは何より自己憐憫のプロだよな、と思う。警察に限らず弁護士だろうが何だろうが、あれはできないこれはできない予測できなかったどうしようもなかったと仲間内で慰め合うことのプロばかりだ。しかしこの話は「警察ってそんなもんだよね」と言い合うために書いているのではない。むしろ「どうしたら動かせるのかを」考えなくてはならないという危機感から書いている。その夜の交番はその警官ひとりだったが、おそらく複数人いるときの方がいいのだろう、通報を無視することが難しくなるはずだ、そうじゃないだろうか。「110番して」というのには一理あり、地域を統括する警察署に繋がることは通報が無視されにくいメリットでもあるのかもしれない。もし警察官がこれを読んでいたら、ぜひ警察が動きやすくなるコツを教えてほしい。広く共有してほしい。市民は一時間なり調書作成に時間を取られることも覚悟の上で、義務だと思い警察に行くのだ。そうしなければならない事態を把握したからだ。メモくらい取って欲しい。市民が警察に頼ることを諦めても、良いことはひとつもないのだから。

 そしてあのとき、私はどうすればよかったか。
 歩道で自動車から押しのけられて、それでも通報するでもなく、周囲に助けを求めるでもなく諦めて歩き出したそのおばあさんに、「おばあさん! 何があったの!」と大声で呼びかけるべきだった。助けを求めてよいことをそうやって伝えるべきだった。
 私はそこにいたのだ。私しかいなかったのだ。あの夜そのまま歩き出した人の姿に、私は何を諦めたのだろうか。



 


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