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君と僕は、一生の友達なのさ

僕は、小学校4年から野球を始めた。元々運動神経が良くなかったこともあり、恥ずかしながら最初は塁間も投げられないレベルだった。

でも、野球は楽しくて、どんどんのめり込んだ。努力が身を結んで初めてヒットを打ったときは素直に嬉しかったし、仲間とともに味わった勝利は、僕の人生を彩ってくれた。

でも、野球をやってきて何よりも良かったのは、一生の親友を得たこと。

彼に出逢ったのは、今から18年前の春。中学入学とともにクラブチームのチームメイトになった僕らは、すぐにマブダチになった。強肩のキャッチャーだった彼は、僕と同じポジションを守るライバルでもあった。神社の祭りに行ったり、ファミレスで語ったり、一緒に夜の河原を走ったり、自転車でどこまでも走ったり、たくさんの想い出で溢れる中学時代だった。

当時、僕らのクラブチームは、関東大会にも出場し東京都でも強豪チームと一目置かれていた。中3になって僕はキャプテンを任せられた。ただ、僕らの代は人数が少ないこともあって、先輩たちと同じような輝かしい成果をあげられるかと、正直プレッシャーを感じていた。

そんな時、僕の心の拠り所になってくれたのが、底抜けに明るくて人望の厚い、副キャプテンの彼だった。練習が終わった後も、泥んこになって日が暮れるまでバットを振り続けた。誰よりもデカい声を出していて、いつもチームに刺激を与えていた。僕の声がデカいのも(?!)、負けじと声を出してきた影響だと思う(笑)

結局、関東大会には出られなかったけど、杉並区大会で優勝し、東京都大会でも3位に輝いた。最後まで僕らの野球ができた。いま思えば、今日まで自分の信じた道へ突き進んで来られたのも、彼やチームメイトと出逢って、一人のときだって「独りじゃない」と思えたからかもしれない。

中学を卒業して別々の高校に進学した後は、甲子園を目指すライバルになった。お互い甲子園には行けなかったけど、辛い練習に耐えて最後まで自分に負けなかったのも、どこかで頑張っていた彼がいたからだった。

大学に入ってからは、僕らは中学時代の仲間たちと草野球のチームを結成した。オヤジチームが参加する大会に混じって、僕らはチームを“Rookies”と命名した。大人になって、昔からの友と飲む酒は格別だった。でも、会話の内容は中学生の頃と何一つ変わっていなかった。

そして、今からちょうど5年前の2014年2月7日。







早朝、彼は交通事故で他界した。25歳の若さだった。








直前の9月、彼は海のように広く深く包み込んでくれるような最愛の女性と結婚していた。大人になっていく彼を見て、寂しい反面、自分のことのように嬉しかった。最後に飲みに行ったのは、11月末だった。いつもオチャラけていた彼は、今まで見たことないくらい真剣な表情で「結婚式の資金を貯めるために働くんだ」と意気込んでいた。僕が別れ際にかけた言葉は、「体は大事にしろよ!またな!!」だったと思う。

知らせは突然だった。2月7日の深夜、3つ下の僕の弟から電話が来た。弟の声は震えていた。嫌な予感がした。意味が理解できなかった。声を荒げて泣いた。泣き尽くした。無意識に出た言葉は、「何でだよ・・・」だった。悲しみを通り越して、何故か悔しかった。どうやら、親友が、死んだらしい。

翌日、彼の実家に行った。お母さんとお姉ちゃんは泣いていた。スヤスヤ寝ているみたいで、ますます受け容れられなくなってしまった。悔しさが消えて、一気に寂しさが込み上げてきた。

1週間後、彼の奥さんからメールが来た。

「子どもを授かったら、亮次君の働く学校に入れたいねって話していました。」


僕は、死ぬほど、生きなきゃいけない。


5年経ったいまも、彼のことを「故人」と記すことはできない。友を失ったということを、まだまだ受け容れられそうにない。彼に書くかどうか悩んだけど、彼だったらきっと許してくれると思う。

「将来のため」「いつかきっと役立つから」「努力することは大事」

もちろん、ウソじゃない。

でも、「人生は何のためにあるのか?」と問われたとき、目の前にある本当に大切なものを見失わないでほしい。

僕は、青春時代、ともに白球を追いかけた友を失った。

いま、君たちが時間をともにしている周りの人たちは、いつか財産になる。そう思える日が、きっと来る。


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