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ドトヲル

 僕は草臥れた合成皮革の鞄を下げ、照明の妙に眩しい宿屋の受付を後にした。番頭のチエツク・アウトオの手付には何処か不慣れさが匂つた。外は比較的強い雨がアスフアルトオを叩いてゐた。其のまま歩くには難儀しそうな天候に僕は、果て困つた、と思ひながら出入口の扉を押し開けた。鏡状の扉に自分の正面が刹那に映つた。
 小走りに進むと矢張り、とゐふべきか、身に纏つた橙色のシヤツに雨粒が点々と染みた。慌てて商店前の庇に宿り僕は辺りの様子を伺つた。雨傘を持たぬのは自分位てあつた。
「折り畳み雨傘」
 僕は思わずそう口にしてゐた。昨日から超特急列車に乗り東京を訪れており、昨日は晴れ後曇りの空模様であつた。事前の天候予測では確かに「天候崩れる、雨」との報告で或つた。旅の用意に関しての誠の不覚に、僕は独り苦笑などした。
「何時の日も此の胸に流れてるメロデイ、軽やかに緩やかに心を伝うよ」
 不意に昨夜参加した或る大衆音楽団の演奏会での楽曲が頭内に浮かんだ。彼らの楽曲には雨天を歌つた物も或るが、不可思議にも其の一節では無かつた。意を決し又、雨の中を進むとフアミリイ・マアトオが眼前に現れた。事態の好転に小躍りしながら僕は早速入店をした。
「雨傘、雨傘」
 玄関口で視線を右に遣ると其処に売り場を発見した。四種の雨傘が整然と金属のラツクに架けられて為た。僕は吟味を重ね黒柄のビニヰル雨傘を手に取つた。傍らの同じくビニヰルのレエン・コオトが視界に入つた。クレジツト・カアドで支払いを済ませると、安堵の感覚が芽生えた。従業員は厚いレンズの眼鏡を下げ気味にかけた齢五拾代の女であつた。
 マアトを出て停車場の方面へと向かつた。新品のビニヰル雨傘の薫りが微かに鼻腔に届くのを感じながら、雨風に負けぬ様に両腕しつかりと固めた 此の後の齒科醫院での定期検査の予約迄では一時間と少しの余裕があつた。僕はカツフエで時刻を潰す事にして、停車場前を観察した。道行く人々は皆背を丸めて雨傘にちひさく収まつて歩いていた。
 僕はカツフエの中でも大衆的なカツフエが好みで、都会への用が或る際の特段の好みは如何なる時もトドヲルであつた。
「ドトヲルでテイポヰントが使え無くなつたとい云ふんですが。」
「経営的な判断ぢゃないか?」
 先頃の知人との遣り取りが頭内で再生された。此れは確認の意も込めてドトヲルに入らなければ成らなひ。気付けば雨風は可成に強くなつてゐて、濃紺の運動靴には水分が染み込んで来てゐた。このやうな天候の最中にカツフエを求め歩く様はさながら幽霊のやうだと自重気味になつた。


◆参考:芥川龍之介『歯車』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card42377.html

ディティール。

スケッチ。

勢いの創作でした。

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